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水没世界のマーリーン  作者: 蟒蛇大山
3/6

第二章 蕾

旧東京都墨田区海域からの帰路。

「……亡命?」

『そうよ』

 竜太郎と少女は肩を並べながら、海中を進んでいた。

「それは……ニライカナイから竜宮へ、って意味か?」

『ほかになにがあるの?』

「いや、やっぱりニライカナイの人間だったんだ……ってさ」

『……まあ、そうだけど?』

 薄々想像こそしていた竜太郎は、改めて少女がニライカナイの人間であることを再確認する。少女もそれを肯定した。

『なに? 気付いていなかったの?』

「いや、気付いていたさ。……ただ、亡命と聞いて自信が揺らいだだけ」

『ニライカナイの人間が、竜宮へ亡命するのは変?』

「ああ。ニライカナイの連中には、うちは心底嫌われていたと思ってたからな。よっぽどのことがない限り、亡命なんてしてこないと思ってた」

 竜宮とニライカナイの険悪さは筆舌に尽くしがたい。竜宮にとってニライカナイは略奪者であり、ニライカナイにとっては自らの首に手を掛けてくる怨敵だ。政治や軍事の面はもちろん、個人同士でも良い印象は持っていない。

 事実、終戦したはずの今でも小規模な戦闘は頻発し、両都市間の交流も竜宮からの食糧配給のみ。人の行き来は皆無に近く、もちろんのこと、亡命してくる人間なんてほとんどいない。

だというのに、この少女は亡命を希望している。いったいそれは何故なのか、竜太郎はすぐに興味を抱いた。

「……で、その理由は?」

 当然、聞かずにはいられなかった。竜太郎はすぐにその理由を問い詰める。

 しかし、この質問に対する返答は無く、少しの間、沈黙が続く。

 すると、

『……あなた、女の子とデートしたことないでしょう?』

 少女は間を開けた後、こんなことを言ってきた。

「あ? ああ、そうだけど?」

 竜太郎はこの性格のこともあり、女性と付き合ったことがない。しかし、特別それを恥とも思っていない。それ故に、健全な男子であったなら侮辱とも取れるこの質問に、至って平然として答えた。

『そ、そう……』

 こんな答え方をされた少女の方も、さぞ不意を撃たれたのだろう。どこか気取ったような喋り方だった少女の言葉が、明らかにどもる。

 しかし、少女はすぐに気を取り直し、また気取ったような言葉で続ける。

『……なら、一つアドバイスしてあげるわ。―― “女から秘密を聞くときは、必ずディナーの席で”。……わかったかしら?』

 そう言うと、少女は遊泳を続けながら、竜太郎の方に首だけを振り向かせてくる。

 竜太郎もそう言われると、一頻り呆然とした後、小さく笑って応答する。

「はは。腹が減っているなら、最初からそう言えばいいものを。……わかった、そこまで言うなら、質問は腹ごしらえの後にしよう」

『っ…………』

 この竜太郎の“言い方”に、少女はプライドを気付つけられたのか、通信機越しにもわかるほど、その息遣いを不機嫌なものに変える。

『…………仕方ないじゃない。もう二日も飲まず食わずなんだから……』

 そして小さく、そんなことを呟いた。竜太郎には聞こえていないと思ったのか、声色はかなり幼い、恐らく“素”のものに戻っている。

「…………ふふ……」

 それを目ざとく耳で拾った竜太郎は、込み上げてくる笑いを噛み殺しながら、愉快さに乱れかけるスクリューの制御に、人知れず奮闘した。

 そんな風に海中を進んでいた二人の前方から、突如として光が差し込んでくる。

 その光は、海中で目にするには不自然なまでに明るく、上から注ぎ込む月明かりのような太陽光とはまるで違う。明らかな人工灯の白い照明の光だった。

「ん、嬉しいね。わざわざサーチライを使ってまで出迎えてくれるとは」

 竜太郎は眩しさに目を細めながらも、前を見据える。

 見据えた先にあるは、全長にして二百メートル近くはあろうという巨大潜水艦だった。

『……あれがあなたの?』

 同じく、それ目にした少女が言う。

 竜太郎は軽く頷いた。

「ああ。――あれが俺の所属している潜水探査艦、『鳳龍』だ」

 潜水艦『鳳龍』。かつては『そうりゅう型』と呼ばれた旧日本の潜水艦、その流れをくむ、竜宮において最新鋭の艦だ。もちろん、大昔の日本の潜水艦と比べれば、その性能は遥かに凌駕しており、全くの別物と言える。それでも、かつて日本の“地”を守ったその功績に畏敬の念を込め、この艦も『龍』の名を冠している。それがこの鳳龍という訳だ。

 そして、それは竜太郎が所属している母艦でもある。

 鳳龍の探照灯の光が竜太郎たちを照らしていると、不意に、竜太郎に通信が入る。

『――大尉! 御無事で!?』

 聞こえてきたのはヒメコの声だった。

「ヒメコか。まあ、見ての通りだ。さっき報告した通り、ニライカナイからの亡命希望者を引率してきた。鳳龍に帰艦したい、どこかしらから中に入れてくれ」

 ヒメコの声に答えながら、竜太郎は少女に手の平を向ける。いくら窓のない軍用潜水艦でも、艦外カメラはしっかり搭載されているので、それで少女の姿が確認できたはずだ。

『……そいつがですか』

 すると、少女の姿を確認したであろうヒメコから、やけに不機嫌な声が返って来た。

「ん? ……どうした、ヒメコ」

 その様子に気づいた竜太郎は、怪訝に聞き返す。

『……いえ。……二番ハッチから帰還してください。くれぐれも“お気をつけて”』

 ヒメコからはそんな通信が帰って来た。何故か言葉尻の一言を強調している。

――かと思えば、プツリという音と共に通信が切れてしまった。

「……なんだ?」

 竜太郎はヒメコのこの態度に、首を傾げる。

『どうしたの? 誰かと話していたみたいだけど……』

 隣にいた少女も、竜太郎とは別の意味で首を傾けていた。今のヒメコの通信は周波を用いた回線だったのに対し、少女は今も赤外線通信で竜太郎と会話をしている。そのため、今のヒメコの声は聞こえなかったのだろう。

「いや、うちのオペレーターなんだが、妙に不機嫌なんだよ。普段から神経質そうなやつではあったが、ここまでだったかな……?」

 心当たりのないヒメコの態度に、竜太郎は疑問を深める。

『ふぅん? 生理じゃないの?』

「いや、うちの隊は体調不良に寛大だから、もしそうなら休んでるはずなんだが……」

『……冗談よ?』

「……そうか」

 二人はそんな会話を交わす。

 そうこうしている間に、鳳龍の船体側面にあったハッチが開いた。開いたハッチの中からはオレンジ色の光が零れ、そこからガイドビーコンが海中に投影される。

「……まあいい、とりあえず入ろう。俺も今朝からなにも食ってないし、腹が減った」

 戦水士が海に出る時は、なるべく腹を空にしなくてはならない。万が一にもヘルメットの中に内容物を吐瀉した場合、どれだけ悲惨なのかは言うまでもないからだ。

 竜太郎は腹を擦りながら、微速で潜水艦のハッチに近寄ってゆく。

『……私ほどでは無いでしょうに』

 少女も同様に、両手で腹を抱え込みながら、その後を追う。


 潜水艦の右側面にある第二ハッチを潜れば、そこは水圧調整室だ。戦水士たちが潜水艦の内外に行き来する際の水圧の増減を緩衝するための場所である。

 竜太郎はその中に入ると、少女がハッチを潜ったのを確認し、水圧調整室の壁にあった赤いレバーを持ち上げる。

 すると、調整室の中を照らしていた橙色の照明が一瞬で赤く染まり上がり、水中でも鼓膜が震えるほどけたたましいブザーが鳴り響く。同時に、今さっき潜ったハッチがゆっくりと閉まっておった。

 ハッチが完全に閉まると、再び室内は橙色の照明に戻り、ブザーも止まる。海中と完全に切り離された水圧調整室、そこで今度は水圧の減退作業が行われる。

とはいっても、室内の水を艦外へ放出するだけなので、特別複雑なこともない。強いて言うならば、内部の人間の体を慣らしながら行う必要があるため、時間だけは掛かるということだけだ。 

 時間にして数分を用いて、水圧調整室の水が完全に放出される。そうすることで、ようやく竜太郎たちは自分の足で立つことができた。

「はあ……やっと戻ってこれたか。今日は散々な目にあったな」

 竜太郎は安全を確認すると、首元の固定具を外し、戦水服のヘルメットを取り外した。メットに圧迫され続けた頭をようやく窮屈な空間からさらけ出すと、竜太郎は新鮮とは言い難いとはいえ、戦水服内の薄い酸素とは違う、室内の真っ当な空気を大きく吸い込んだ。

(…………さて)

 そして、竜太郎は少女の方を振り返る。戦水服の性能差があったとはいえ、自分を海中で圧倒した相手の素顔、それに幾許なりとも興味があったからだ。

 振り返った視線の先では、期待通り、竜太郎と同様に少女がヘルメット脱ぎ去っているのが見えた。露出したその顔が、ゆっくりとこちらに振り向く。

(……年下か)

 少女の素顔は、竜太郎が思っていたよりずっと子供っぽい顔だった。人懐っこそうな目付きと、ゆるく上がった口角、日に焼けたような色の肌。それらから連想した印象は、“活発そうな子供”といった所。

 そして、一際目を引いたのが、その髪の毛だ。

 少女の髪はかなり濃い色の赤毛で、ヘルメットの中にどうやって押し込んでいたのか疑問に思うほどの長髪だ。しかも、それは水圧調整室の弱い光でもはっきりとわかるほど、艶やかで目を引く。

「……美人でしょ、私」

 竜太郎の視線に気づいた少女は、その赤い髪を指先でもてあそびながら、悪戯っぽい笑みを浮かべる。その表情には溢れんばかりの自信に満ちていた。

「そうだな。その類なのは間違いない」

 女に疎い竜太郎でも、少女の容姿が優れていることはわかる。少女の傲慢な言葉にも、すぐに肯定で返した。

「ふふ、あなたも悪くはないわよ。……ちょっと低血圧っぽい感じだけど」

 それに機嫌をよくしたのか、少女は竜太郎の人相にも好意的な評価を贈ってきた。

「低血圧なのは事実だ。実際、今も少し眠い」

 竜太郎は重くなって半分落ちている自分の目蓋を擦りながら、小さく欠伸する。

「……しゃんとしてしっかり目を見開けば、イケメンで通るんじゃないの、あなた」

 少女は竜太郎にそんなことを言ってきた。その目はなにか“惜しい”ものでも見るかのように冷えている。

「どうかな」

実際、竜太郎の人相はそこまで悪くない。ただ、常に眠たげな半目をしているので、人に好かれるような“表情”ではないのが現実だ。

そして、それを改善する気も、竜太郎にはない。

竜太郎は少女の忠告に適当な言葉で答えながら、さっさと水圧調整室の壁に設置された梯子へ手を掛ける。

「それより、さっさと上がろう。ここは寒い」

 水圧調整室は凍てつく海中と壁一枚しか挟んでいない場所。しかも、先程まで氷水のように冷たい海水で満たされていたのだから、当然、かなり室温が低い。戦水服を着ている時ならば問題ないが、ヘルメットを脱いだ今、竜太郎の首の隙間からは冷たい空気が入り込んできていた。

低血圧な竜太郎にとって、この寒気は中々に耐え難い。少女に退室を勧めながらも、自身はさっさと梯子を上る。

「……レディファーストって言葉を知らないのかしら」

 少女はそれに不服そうにしながら、気怠そうに後に続く。

 梯子は人間二人分の長さしかなく、竜太郎は二~三度体を登らせるだけで天辺に着く。そうして水圧調整室の天上たどり着くと、出入り口でもある密空ハッチのハンドルに手を掛け、それを回した。

ハンドルは金属を削るような音をひり出しながら、ゆっくりと回ってゆく。そうしてハッチのロックを外すと、竜太郎は思い切り力を込め、それを上に押し上げる。

「ん……!」

 ハッチは鋼鉄製でかなり重く、竜太郎は梯子に足を踏ん張りながら、両手と肩を付けることで、やっととのこと押し開ける。

実のことを言えば、少女に先を譲らなかったのはこの作業があったからだ。はっきり言ってしまえば、このハッチは女の細腕では開けられない代物。もし少女に先を譲っていたとしても、結局は自分が開けざるを得なかったのだから、それは二度手間になっていただろう。面倒くさがりの竜太郎にとって、これは当然の判断だった。

「あ……」

 少女もそれに気付いたようで、後ろで少し気まずそうにしている。

 しかし、竜太郎はそれを意にも返さず、ハッチを押し開け、外に出ようとする。押し開けたハッチは外側に開き、少しだけ暖かい空気が中にそよいでくる。

 すると、

「――大尉、お疲れ様です!」

 ハッチが開いた矢先、竜太郎の頭によく通った声が投げかけられた。

 竜太郎が開いたハッチの先へ顔を出してみると、そこには黒い長髪を後ろで束ねた、白い軍服姿の少女が待っていた。少女は手にタオルを抱えており、優しげな微笑みで竜太郎を見下ろしている。

「ヒメコ? わざわざここまで出迎えに?」

 この少女こそ、先程まで通信していたオペレーター、音羽ヒメコだ。軍服の似合わない小柄な体格で、竜太郎に向ける表情も年相応に幼い。首元にある准尉の階級章が、酷く不釣り合いに見える。

 竜太郎は水圧調整室の外、潜水艦内の廊下へと出ると、少し驚いたようにして聞く。

「なんでヒメコがここまで出張ってくるんだ? 君の持ち場は通信機の前だろう。ブリッジから離れていいのか?」

 オペレーターである彼女が持ち場の通信機から離れるのは、もちろんのことよろしくない。竜太郎は当たり前のようにそれに言及する。

 すると、ヒメコは手に持っていたタオルを竜太郎の首に掛けながら言う。

「大尉を労うほど暇な人が、私以外いなかったんですよ。それに、私は丁度休憩時間です」

 ヒメコはそう言って、手首の裏に巻かれていた小さな腕時計を見せてくる。小さな文字盤を見れば、そこに表示された時刻は十二時半。竜太郎の記憶が確かなら、それは確かに彼女の休憩時間内だった。

 しかし、それと同時にある矛盾に気付く。

「……ヒメコ。お前の休憩時間は十二時からだったよな? なら、なんでついさっきまで通信していたんだ?」

「……あっ! そ、それは……」

 ヒメコはしまったと言うような表情で、ばつが悪そうにしている。

 最後にヒメコと通信した時から、まだ十分もたっていない。もしヒメコが時間通りに休憩に入っていたなら、これは不自然だった。

 ヒメコはそのことを言及され、困ったように口ごもっている。

「あら。意外に隅に置けないのね、あなた」

 そうしていると、竜太郎の後に続いていた、赤毛の少女も水圧調整室から出てきた。竜太郎とヒメコのやり取りを見て、少し愉快そうにして眺めている。

「……あなたがニライカナイの亡命者ね」

 すると、それを見たヒメコの表情が一変する。それまで先輩を慕う後輩のそれだったあどけない表情が、まるで他人を蔑むような、酷く厳しいものに変わる。

 ヒメコは少女に睨み付けるような視線を送りながら、腰元のホルスターに収まっていた拳銃を取り出した。

「あっ! ヒメコ、ちょっと待て」

 竜太郎はそれを受けて、ヒメコを制止しようと声を掛ける。

 しかし、ヒメコはそれを半ば無視し、銃口を少女に向けた。

「……なんのマネかしら?」

 赤毛の少女もその行為に対し、あからさまな嫌悪感を顔に出す。

「なんのマネですって? あなたがニライカナイのスパイでないと決まった訳ではないのだから、警戒するのは当然です。……そういうセリフは武装解除してから言うのね」

 ヒメコは少女の戦水服とその腰に据えられたプラズマ溶断機を見ながら、威嚇にも似た厳しい声色で話す。

「……私にも自衛の権利はあるはずよ。そちらが身の安全を保障してくれない限り、武器は手放せないし、戦水服も脱げないわ」

 ヒメコの態度に呼応するように、少女も警戒の色を濃くする。

「……なにが安全の保障ですか。大尉に攻撃してきたくせに……!」

 ヒメコはそう言いながら、拳銃のセーフティを外す。

「SOS信号を出して救助を待っていたら、武装した人間が近寄ってきたのよ? 警戒しない方がどうかしているんじゃなくて? 先制攻撃も自衛の範囲内。軍人の癖に、そんなこともわからないの?」

 赤毛の少女も、自らの拳を握った。手の甲のプラズマ発射口が開き、明らかな臨戦態勢を取る。その態度も挑発的で、場の空気が一触即発のものに染まるのに拍車を掛けている。

 そんな二人の目の色は、徐々に暗く冷たい色に変わってきていた。ふとしたきっかけで殺し合いが始まりかねない、そんな雰囲気が互いの間に渦巻いている。

両者の言っていることは、一応ながら理に適っている。互いに正論であることが、両者が引かない理由になり、事態の悪化を助長していた。

 睨み合う二人の少女。冷えた艦内の空気が、一層、その温度を下げてゆく。

 そんな二人に対し、突如として竜太郎は口を開いた。

「困るな。君らがその引き金を引くようなら、俺が痛い目を見る羽目になるんだが……」

 そう言って、竜太郎が二人の間に半分だけ体を差し込む。もし二人が互いを攻撃したなら、その銃弾と青い稲妻が竜太郎の体に突き刺さるだろう。そんな立ち位置に。

「た、大尉!?」

それを見たヒメコは、慌てて拳銃を降ろす。

「……なに? 自殺願望でもあるの?」

 赤毛の少女も、竜太郎の行動に少し驚きながら、手甲のプラズマ発射口をそっと閉じた。

「女同士の殺し合いなんて、醜いやら悲しいやら、それになにより“不毛”だと思うね」

 そんな二人に、竜太郎は冷ややかな視線を浴びせながら、そう言って軽く手を挙げた。まるで「勘弁してくれ」と言わんばかりに。

「……大尉がそう言うなら」

「……仕方ないわね」

 それを受けて、二人の少女は互いに顔を見合わせた後、気落ちするかのように殺気を収めた。

「……聞き訳がいいのは美徳だって、俺の婆ちゃんも言ってたよ」

 そうして二人が落ち着いた所で、竜太郎は両手を下げた。その顔はしてやったりと言うような表情で、二人にはわからぬように薄ら笑みを浮かべている。

 こうして場が収まると、今度は廊下の奥の方から、誰かがバタバタと走ってくる音が聞こえてきた。

「……今度はなんだ?」

 竜太郎がその方向を見ると、

「――ああ、浦島大尉!」

 その廊下の曲がり角から、鼻の下に立派な髭を拵えた、小太りの中年男が走り込んできたのが見えた。男はヒメコと同様の白軍服姿だが、頭には凝った装飾の軍帽を被っており、傍から見ても階級の高さが窺える。

「……庄野少佐。仮にもあなたはこの艦の艦長なのだから、ドタバタするのはよろしくないんじゃないですかね?」

 竜太郎は見苦しく駆け込んできたその男に対し、少し辛辣に忠告する。

「えっ? あ、そ、そうか。そうだな、私は艦長なのだ。威厳というものを保たねばな」

 この威厳のない男は庄野守重。水龍戦隊少佐にして、この鳳龍の艦長だ。そして、最近になって艦を任されるようになったばかりの、新米艦長である。

それを証明するかのように、酷く立ち振る舞いに落ち着きがなく、若造である竜太郎の言葉にあたふたとしている。首元の少佐の階級章も、ヒメコとはまた違った意味で不釣り合いだ。

「……それで少佐、何故あなたまでブリッジから離れているので?」

「そ、そうだった! 大尉! ニライカナイからの亡命者を連れてきたのだそうだね!?」

 庄野少佐は竜太郎にそう聞かれると、思い出したように声を大きくする。

 それに竜太郎は一瞬だけ眉を顰めたが、気付かれない程度に小さい溜息をもらすと、視線で赤毛の少女の方を示す。

「お、おお! 彼女がそうかね?」

 庄野少佐はそれに気付くと、自らもまた、赤毛の少女の方に目を向ける。

「ニライカナイからの亡命者など、水龍戦隊始まって以来の事件だからね! 艦長として、責任を持ってことに当たらねば!」

 庄野少佐はそう言いながら息を巻いている。どうやら亡命者という存在にいてもたってもいられず、わざわざ出向いてきたらしい。

「……少佐」

 それに、竜太郎は声を低くする。

「な……なんだね?」

 庄野少佐は竜太郎の一言に対し、冷や汗を流しながら聞き返す。

「まさか、それを理由に自らの持ち場を放棄したのではありませんよね?」

 竜太郎はそんな庄野少佐に、一歩迫ってそう言い放つ。

「えっ……」

 これに、庄野少佐は血の気を引かせ、息を飲んだ。

「亡命者が艦に来訪した場合、艦長であるあなたのやることは、尋問官の選出、そして、その報告を待ちつつ本部へ報告することではないでしょうか? 決して、武装解除が確認されていない亡命者の前に、危険を承知にもかかわらず、意味もなく出向くようなことではありません。……それをご承知の上で、この場に居るのでしょうね?」

 竜太郎は立場の違いを弁えず、庄野少佐にそう言って詰め寄る。

「…………あ。い、いや、その、これはだね」

 庄野少佐はその言葉に、目に見えて動揺する。完全に図星を突かれたのだろう。なにやら言い訳を考えようとしていることは傍から見ても明らかだが、竜太郎の言ったことが余りに正論なので、言い返す言葉が見つからないようだ。

 十七歳そこらの若造尉官を相手に、いい年をした左官の男が言論で圧されている。潜水艦内の廊下では、そんな滑稽な光景が広がっていた。

 そんな庄野少佐を見かねたのか、助け舟でも出すように、竜太郎は呆れたようにして提言する。

「少佐」

「な、なんだね?」

「彼女のことについては私が当たります故、少佐はブリッジにお戻りを。艦長がブリッジを放棄したということが上に知れれば、確実にあなたの評価が落ちます。……またうだつの上がらないデスクワーカーに戻りたくはないでしょう?」

「……お、おお!?」

 この言葉を聞き、庄野少佐はまるで首を絞められたかのように目を見開き、慌てて廊下を引き返してゆく。

「で、では大尉、亡命者の見張りと尋問は君に一任する! 然るべき処置を取った後、私に報告してくれたまえ!」

 こんな言葉を残し、庄野少佐は廊下の曲がり角に消えた。相変わらずバタついた足音を立てながら、艦のブリッジに戻ってゆく。途中、ドォンという鈍い音と、「痛っ!」という声が小さく聞こえたことから、どこか竜太郎から見えない場所で転んだが、狭い潜水艦の廊下の壁に体を打ちつけたのだろう。

「……はぁ」

 そんな庄野少佐の醜態に、竜太郎は無表情でため息を溢した。

 庄野少佐はこの通りの男で、もし悪意を持って言い表すなら『無能』という言葉が似合う人物だ。そんな上官の下に所属してしまっていることは、竜太郎にとっても陰鬱だった。

 正直、庄野少佐はその能力だけを見るなら、潜水艦の艦長という立場に就くような人物ではない。特に人徳がある訳でもなく、人の上に立つには元々不向きな人間と言える。少佐という階級も、勤続年数が長いとことから半ば同情に近い理由で与えられたものだ。これが軍隊組織ではなく一般企業の中ならば、庄野少佐の肩書は『窓際族』だっただろう。

とはいえ、“無能”ということ以外は害のない人間なので、竜太郎も文句は心の中だけで留めている。実際、有能だろうがそりが合わない上官の下に配属されてしまうよりかは、遥かにマシだと思っていた。

「……さて。聞いての通り、君のことは俺の預かりになった。早速、話を聞きたいんだが――」

 竜太郎は気を取り直し、赤毛の少女に向き直ろうとする。

 すると、丁度、少女と視線が合った矢先に、濡れ布巾を絞るような音が耳に飛び込んでくる。

「ええ?」

 近くにいたヒメコも聞こえたらしく、驚いたように音の鳴った方を見た。

「…………聞かなかったことにして」

 そこでは自らの髪の毛よりも顔を赤くした少女が、自らの腹を両手で抑えていた。先程までは殺気だっていたにもかかわらず、今は羞恥心に唇を噛んでいる。

「ああ、はいはい、そうだったな。『飯を食わさなきゃ話さない』、だったか」

 竜太郎は空腹に絶叫する少女の腹を一瞥すると、やれやれといったように肩を竦め、踵を返す。

「食堂に案内する。ついてきてくれ」

 そして、背中越しに指を折り、少女についてくるよう促した。

「……“そんな風”には言ってないわよ」

 竜太郎の言い方に不服な態度を表す少女だったが、気に食わないのは“言い方”だけで、要約はそれであっているのだろう。それ以上文句は言わず、大人しく竜太郎の後に続いた。

「……ふん。いやしい女」

 そんな少女の背中を見ながら、ヒメコは馬鹿にしたような冷笑を浮かべている。少女の失態に愉悦しながら、軽い足取りで食堂に足を向けた。


                    ※

 

 潜水艦・鳳龍。船員食堂。

 潜水艦の中は当然ながら、完全なる密室だ。そんな生活環境は、そこで働く人間に閉塞感を与えることだろう。そういったことを考慮して、潜水艦の中にはいくつか開放的な内装の区画がある。

 この船員食堂も、そういった分類の区画だった。

 衣食住は人間にとって重要な要素だ。それを充実させようとするのは、生きとし生きるものにとっては当然と言える。そんな意図があるのだろう、この船員食堂は、潜水艦の中とは思えないような、非常に快適な空間だった。

 さすがにテーブルと椅子は船の揺れを考慮してか固定式のものだったが、壁は水圧調整室や艦内の廊下のような剥き出しの鋼ではなく、木目の印刷された温かみのあるタイル張りで、ログハウスの中を思わせるような内装をしていた。天井も高めに設計されており、一見無駄とも思えるような空白のスペースがある。この場所には潜水艦独特の圧迫感はなく、小さなレストランをそのまま切り取ってきたかのようだ。

 そんな食堂の中で、竜太郎とヒメコ、そして赤毛の少女は、中央に設置された一番大きなテーブルを囲んでいる。テーブルの上にはよく洗濯された白いクロスが敷かれ、気持ちよく食事ができるよう手入れが施されていた。

竜太郎と少女は互いが正面になるように、そして、ヒメコは竜太郎の隣に座っていた。まだ警戒しているのか、少女は戦水服を身に纏い、プラズマ溶断機を腰に下げたままだ。

竜太郎も“万が一”に備え、戦水服のままで椅子に腰掛けている。その足元には、まだ弾の込められたシーズガンを立て掛けていた。

 そんな三人の目の前には、楕円形の皿に盛られた大盛りのライスカレーが置かれている。テーブルの端には半分に切られたゆで卵と、福神漬け、酢漬けらっきょう、そして輪切りの揚げ玉ねぎ、そんなトッピングがボウルに入れて添えられている。その隣には、箸や先の割れたスプーンが立ていれられたカップも置かれていた。

「そうだった。今日は金曜だった」

 水龍戦隊では、金曜日の献立は必ずライスカレーにしなければならない規則があった。これは水龍戦隊の祖先でもある旧日本の海上自衛隊でも取り入れられていた規則で、海中での生活で曜日の感覚を失わないようにするための配慮である。その配慮の思惑通り、目の前のライスカレーを見て、竜太郎は今日の曜日を思い出していた。

 また、それとは別に、嬉々とした感情がじわじわと湧いてくるのが、竜太郎にも自覚できている。

「嬉しいね。カレーを腹一杯食えるってのは、生きてることを実感できる」

 ライスカレーは、竜太郎の大好物だった。

 勇太郎はテーブル端のトッピングが入ったボウルをすべて引き寄せると、ごっそりとライスカレーの上に乗せる。ルーとライスで美しく分けられていたライスカレーは、福神漬けで真っ赤に染まり、ゴロゴロとらっきょうが転がり込むと、その上を揚げ玉ねぎとゆで卵が覆い尽くした。

「……大尉、その食べ方はいい加減にやめたらどうですか? 見てるこっちの食欲がなくなるんですが……」

 そんな見るも無残なライスカレーを目の当たりにしたヒメコが、白けた様子でそう言ってくる。

「あるものを食ってなにが悪いんだ? それに、これが一番うまい食べ方なんだよ。……ほら、君もやってみろ」

 そんなヒメコに対し、竜太郎は福神漬けのボウルを手に取り、ヒメコのカレー皿に流し込もうとする。

「や、やめてください!」

 ヒメコはそれに慌ててカレー皿を引っ込めた。彼女とて福神漬けが嫌いな訳ではないのだろうが、竜太郎は福神漬けをカレーのルーと同等量まで入れかねない勢いだ。さすがにそれはゴメンとばかりに、必死にカレー皿を掲げ、竜太郎の手が届かないようにしている。

「なんだ……嫌なのか」

 それを見て、竜太郎は心底残念に思う。こんなにうまいライスカレーの食べ方を共感できないのが、純粋に無念だった。

「……じゃあ、君はどうだ? 福神漬け、乗せるだろう? 福神漬けは乗せれば乗せるほどうまくなるからな」

 標的を変えるように、今度は赤毛の少女に目を向ける竜太郎。

 すると、その視線の先では、何故か赤毛の少女が目を丸くしながら、ライスカレーを見つめていた。

「……どうした? まさか、カレーが嫌いだとか言うんじゃないだろうな? カレーが嫌いだなんて、人類の食文化を否定するようなものだぞ?」

 竜太郎は目を細め、厳しい視線を少女に贈る。それ程までに、竜太郎はライスカレーを愛していたのだ。

 そんな風に竜太郎が睨み付けていると、少女が震えるような声でポツリと漏らす。

「本物の……カレー……」

「えっ?」

「……なんだって?」

 この少女の言動に、竜太郎とヒメコは顔を見合わせる。

 すると、少女は竜太郎に向かって目を見開きながら、真顔で質問してきた。

「これ……本物のカレーよね?」

「ああ? おいおい、なにを言っているんだ? カレーに本物も偽物もあるものかよ」

「……た、食べられるの?」

「……君にはこの香しいスパイスの匂いがわからないのか?」

 それに、竜太郎はそう言い返しながら、手元のライスカレーを手で煽ぎ、その香りを楽しんで見せる。ただし、確かにライスカレーからはスパイスの効いた香りもするが、はっきり言って、竜太郎の皿は山盛りのトッピングで香りが損なわれている。

「……私にはわかりませんがね」

竜太郎は満足そうにしているが、隣のヒメコはそれに賛同できていないようで、複雑な表情だ。

 しかし、それを聞いた少女は、まるで堰を切ったかのような勢いでスプーンを握り、ライスカレーを大きくすくった。

「――いただくわ!」

 そして、間髪入れずに大きく口を開けると、到底少女の小さな口には収まらないと思われたライスカレーの一片が、吸い込まれるように押し込まれていった。

「……おお?」

「よ、よくもまあ、それを一口で……」

 竜太郎とヒメコは、それに驚愕する。

 しかし、驚く二人を尻目に、少女は咀嚼に集中している。

 少女は喉を鳴らして口の中のものを飲み込んだかと思うと、また大きくライスカレーをすくい、二口目を口に運んだ。その様子はまさに一心不乱で、竜太郎とヒメコのことなど、もはや完全の眼中にない。

「うまそうに食うじゃないか。……じゃあ、俺も頂くとしよう」

 この様子だと、少女が食事を終えるまでは取り付く島もないだろう。そう思い至った竜太郎は、自分も食事に移ることにした。あらゆるトッピングが混ざったライスカレーをスプーンですくうと、それをゆっくりと口に運ぶ。

「…………うまい。ライスカレーをこの世に生み出した人は偉大だな」

そんな竜太郎の口の中からは、おおよそカレーを咀嚼するとは思えないような、ジャキジャキといった音が鳴っている。

「……なんなの、この人たちは……」

異常とも言える竜太郎と少女の食事風景に、ヒメコは食欲を失くしたのか、スプーンすら持とうとせず、只々目の前のライスカレーを陰鬱に眺めていた。


                     ※


 食事を終えた三人のテーブルには、空のカレー皿が積み重なっていた。ヒメコの前には一枚、竜太郎の前には二枚。そして、赤毛の少女の前には四枚も重なっている。

「よくもまあその小さな体に、それだけの量が入ったもんだ」

 竜太郎は自分の倍の量のライスカレーを平らげた少女に、軽く舌を巻いている。横にいるヒメコも同様で、はては、

「マジかよ……あの女……」

「下手な野郎連中より食ってるぞ……」

厨房の奥にいた炊事班の人間までも、野次馬のように覗きに来ていた。四杯ものおかわりの申請を受けたのだから、無理はない。

 そして、周囲の視線を集めている当の本人はというと、

「ケプッ………亡命して良かったわ……」

 満足そうに唇を舐め、小さく曖気を吐いている。

「なんだ、ニライカナイではまともに飯が食えないのか?」

 その少女の異常とも言える食い気と、その呟きに、竜太郎は聞き返す。少女の態度と言動は、まるで元いた場所では食うに困っているように聞こえたからだ。

「うちの食糧配給はとにかく細いのよ。酷い時は半月以上も塩粥か、それすらない時だってあるんだから」

 少女は忌々しいことでも思い出すような顔で、苦々しく語る。

「そんなに酷いのか? あの食糧危機からもう百年近くたってるし、うちからの食糧配給だって継続してるはずだろ?」

 竜太郎はそれに疑問形で返す。仮にも飢饉を一度経験している都市が、同じ過ちを犯すことは不自然に思えたからだ。ましてや、ニライカナイは現在も竜宮からの食糧配給を受け取っている。そう聞いている竜太郎からすれば、少女の証言は少々疑わしかった。

 そんな疑問に対し、少女は無知を嘲笑うように鼻を鳴らすと、軽々な口ぶりで続ける。

「ニライカナイは今でも人口が増えてるのよ。しかも、百年前の食糧危機の時以上にね。……恵んでもらっている身でこんなこと言うのはあれだけど、竜宮からの配給なんて焼け石に水よ」

 少女は肩を竦めた。

「ふぅん? まあ、人間の特技は“増える”ってことだからそれはよいとして、なら、そっちの御偉いさんは? なにも手を打ってないのか?」

 竜太郎はそのことを聞いても、まだ疑いが晴れなかった。政の知識のない自分でも、飢饉に対して対策の一つや二つは思いつく。食料生産の増強。繁殖の抑制。恥を忍んで、竜宮への食糧配給の追加申請といった手段もあるだろう。素人でもそれくらいのことは思いつくのだから、それに気付かないニライカナイ施政者な訳もない。少なくとも、竜太郎にはそう思えた。

「……それは………」

 すると、この竜太郎の質問に、少女は明らかに窮する。目をあからさまに逸らし、口をへの字に結んでしまった。

 それを見た竜太郎は、

「……まあ、そんなことを君に聞いても仕方ないか。それよりも、約束だ。君の亡命に関して質問させてもらおう」

 何事もなかったかのように話を変える。

竜太郎は無神経な性格だが、気遣いが出来ないという訳でもない。ただ、必要性を感じない限り、そういったことを面倒くさがるというだけだ。

そして、少なくとも今は、気を遣うのが“適切”だと判断した。

「…………悪いわね、気を遣わせて」

少女はこの提案に少し驚いた後、薄らと微笑み、ゆっくり頷いた。

「よし。じゃあ、まずは名前からだ。……考えて見れば、俺は君の名前を知らない」

 竜太郎は少女の同意が得られると、早速、尋問を始める。

すると、少女は自らの赤い髪を掻き上げながら、

「朝雅よ。朝雅ライ」

 自らをそう名乗る。

「アサミヤ……ライ?」

 竜太郎はその名前を聞いて、思わず聞き返してしまう。

「なんと言うか、独特な名前だな」

「……いいわよ、はっきり言っても」

 ライと名乗った少女は、その竜太郎の心中を察している様子だ。

「……男みたいな名前だ」

 失礼だと思いつつも、竜太郎は素直に感想を吐いてしまう。

 ライ、という名前自体は特徴的でこそあるものの、まったくありえないという名前ではない。ただし、それは男性に限っての話であり、女性の名前が『ライ』というのは、かなり珍しいことだ。

「……私は気に入ってるんだけど」

 ライは竜太郎が自分の名前を不思議がっていることに対し、少し拗ねたようにしている。

「気に入っている? ライっていう名前が?」

「おかしい?」

「……女性が好むような名前とは思えないな。理由は?」

 竜太郎は無神経に聞く。案の定、ライはそれに少し不快に感じたらしく、小さく頬を膨らませた

「……『ライ』っていうのはね、“花のつぼみ”って意味なのよ」

 不貞腐れたような抑揚で、ライはこう言ってくる。

「…………ああ!」

 竜太郎はその言葉を聞いて、ようやく納得する。

 つぼみ。これを漢字に直すと『蕾』だが、これは確かに“ライ”という読み方ができる。『花のつぼみ』という意味の名前、そう考えれば、女性の名前としては上等だろう。

「すまない、前言撤回だ。女性らしい素晴らしい名前だと思う」

 竜太郎は取り繕うように控えめな笑みを浮かべると、両手を上げながら発言を訂正する。

「でしょ?」

 ライもそれを受けて、機嫌を直したようだ。自慢げに胸を張り、少し不敵な笑みを浮かべている。

「オーケイ、名前はわかった。……ちなみに、どっちで呼べばいい?」

「……“あなたなら”、ライでいいわ」

「そうか。じゃあ、ライ。質問を続けさせてもらうぞ」

 呼び方の許可を得て、竜太郎は質問を続ける。

「……“あなたなら”?」

 その隣でヒメコが眉を微動させていたが、二人はそれに気付いてはいない。

「次は所属と階級を教えてもらおうか。戦水服を着ていたんだから、やっぱり軍属なんだろう?」

 竜太郎はわかりきったように聞く。

 戦水服は基本的に軍部が所有、または管理するもの。当然、着用が許されるのは軍属の戦水士のみ。これは水龍戦隊のみならず、ニライカナイ海軍でも共通していることがらだ。

しかし、

「残念でした、私は軍人ではないです~」

 ライは舌を出し、それを否定する。

「なんだって? ならなんで戦水服を……しかも、あんな……」

 竜太郎は驚く。戦水服を軍人以外が着ていたこともそうだが、なによりあれ程高性能なものを、軍属に所属していない少女が所有しているということが信じられなかった。

 高性能な戦水服というものは戦水士にとっての殊勲賞のようなもので、よほどの戦果を挙げたか、優秀な訓練課程成績を残したことを示している。実際、竜太郎の着ている迅雷も、その生産数は竜宮所属全戦水士の一割程度、つまりは最新鋭のものである。

 だというのに、この少女は非軍属にもかかわらず、あれだけの戦水服を所有していた。それは仮にも軍属である竜太郎にとっては、些か理解できないものだった

 しかし、その疑問に、ライは呆気なく答える。

「だって、あれは私が“造った”んだもの」

「…………なに?」

「だから、あの戦水服は私が造ったの! 設計から製作まで、全部私がやったんだから!」

 ライは机を子供のように両手で叩きながら、少し興奮した様子で訴えてくる。

「じゃあ君は……?」

「そうよ。私は技術者。――ニライカナイ海軍技術局所属、戦水機設計主任、朝雅ライ!」

 ライは改めて名乗る。今度は自らの肩書を添えて。

「せ、戦水機設計主任……!?」

 戦水機設計主任とは、戦水服や軍用潜水艦、ほか、海中での使用を想定した銃器類など、海中戦に用いられる兵器類全般の設計開発を行う人間を指す肩書だ。この役職に就く人間は、その能力の如何によって海中における都市の軍事力が左右するとまで言われている。いわずもがな、軍事的、政治的、その両面で重要な役職だ。

「……君、年は?」

「十六よ。文句ある?」

 ライは竜太郎が言わんとしていることを察してか、不機嫌に答える。

「俺はないが、君のところの御偉いさんはどうだった? 君みたいな若い人間を、そんな役職に就かせてくれたのか?」

 竜太郎個人ならば、年齢を理由に能力に相応な役職から弾く、といったことは断じてしない。自分自身も、“そういった行為”に思う所があるからだ。しかし、いわゆる『社会の常識』とやらを持つ人間ならば、十六歳の少女をそのような役職に据えはしない、そう容易に予測できる。そう考えれば、“不自然”と思うのは仕方ないことでもあった。

「天才なのよ、私は」

 そんな竜太郎の疑いに、ライはさも当然と言った態度で、一言、そう放った。

「天才……?」

「そう、天才。……あなたは“この子”とやり合ったんだから、その力を理解できるでしょう? 私はそれを造り上げた! だから『天才』なの!」

 ライはそう言って、自らの胸、というより戦水服を叩いた。

「……なるほど。確かにそれは否定できないな」

 竜太郎もそれを受け、同意する。

竜太郎とて、直接戦った以上、目の前の赤い戦水服の性能は骨身にしみている。正直、それを造り上げた人間というのであれば、天才と称えても差し支えない。そう、素直に思えた。

しかし、 

「……信じるの?」

 ライはそう言って、何故か疑いの眼差しを竜太郎に向ける。

「そのつもりだが……なんだ、自分で言ったくせに」

「い、いえ。……だって、初対面のやつは決まって疑ってくるから……」

 どうやら、ライも自身で言っていることが荒唐無稽な話であることを自覚していたらしい。こうも強気な態度で語っていたのは、どうせ疑われるだろうと考え、必死だったからのようだ。

「バカ言うなよ。疑った所で俺になんの得もないじゃないか。なら、信じた方が話も早い。……大体、君が嘘を吐くような人間じゃないことくらいは見りゃわかる」

 竜太郎は呆れるような口調で言い放った。

「……あなた、周りから“たらし”っていわれない」

 すると、ライが少し頬を赤らめながら、そんなことを言ってくる。

「あ? いや? むしろ俺は嫌われることの方が多い。大体、君だってさっき女関係に疎そうだって言ったじゃないか。まさにその通りだよ」

 竜太郎は謙遜とかではなく、至って真面目に即答する。

「……あっそ」

 ライはそんな竜太郎を見て、なんとも微妙は顔をする。

「――そんなことより!」

 すると、突然ヒメコが声を上げた。握った拳で机を叩き、半ば無理やり会話に入り込んでくる。

「あなたはさっさと亡命の理由を言いなさい! 余り発言を躊躇していると、スパイ容疑で拘束しますよ!?」

 些か興奮気味な様子で、ヒメコは捲し立てる。

「やかましい子ね。そういう女は男に逃げられるわよ?」

 ライはヒメコのかしましさに苛ついたのか、そう言って椅子に座り直し、うんざりとした様子で話を続ける。

「……亡命の理由は、どうしても竜宮に伝えたいことがあったからよ」

 これに竜太郎とヒメコは顔を見合わせる。

「伝えたいこと?」

「……それは一体なんだ?」

 竜太郎は真面目に聞き返す。なんとなくではあるが、ライのその態度から不穏な空気を感じたからだ。

 その空気をヒメコも感じたのか、今さっきまでとは違い、黙ってライの言葉を待っている。

 しかし、

「悪いけど、ここでは言えないわ」

 二人の期待に反し、ライは返答を拒否した。

「はぁ!?」

 ヒメコがそれに声を大にする。

「……その理由は?」

 竜太郎はヒメコほど驚くことはなかったが、少し怪訝にしてライに問い詰める。

「…………ごめんなさい。でも、どうしても今は都合が悪いの。……勘弁して」

 すると、ライは急にしおらしくなってしまう。如何にも申し訳がないと言った態度で、素直に頭を下げてきた。

「な、なによ急に……」

 これに一番虚を突かれたのがヒメコだ。ライの態度に戸惑い、竜太郎に困ったような視線を向けている。

 竜太郎はそれに「わかってる」とでも言うように手を軽く上げ、代わりに話を進める。

「『今は言えない』ってことだが、それはとりあえず置いておこう。その理由を今聞いても、答えは返って来そうにないだろうしな。――だから、別の質問をさせてもらう。その質問は『何時なら話してくれるか?』、だ」

 竜太郎がそう質問を変えると、

「……その質問になら答えられるわ」

今度は前向きな返答が返ってくる。

「そうか。じゃあ、それは“何時なら”だ?」

「何時なら、とうよりは、“どこでなら”の方が答えやすいのだけれど……」

「……わかった。それでいい」

 竜太郎はライの要求に頷くと、手の平を差出し、話すよう勧める。

「場所の指名は “竜宮”よ。竜宮の中まで連れて行ってくれたら、私はちゃんと話す。包み隠さず、すべてをね」

 それを受け、ライは少し言いづらそうに“場”を提示した。

「竜宮の……中?」

 ライの要求を聞き、竜太郎は呆ける。今ここで聞くのがダメで、“竜宮”ならばいい。その理由がパッとは思いつかなかったからだ。

 そんな竜太郎の疑問に先んじて、ライが二の句を接げる。

「その理由も、その時になったら話すわ。……でも、今はそれで納得してちょうだい」

 よほど深刻な理由なのか、ライは真剣な眼差しを竜太郎に向けたまま、神妙に答えを待っている。

「…………わかった。どの道、亡命者の君は竜宮まで連れて行く必要がある。尋問の続きはその時にしよう」

 竜太郎はライの要求を飲んだことを伝え、その場から立ち上がる。

「ちょ……ちょっと待ってください!」

 それに、ヒメコが立ち上がり、慌てて耳打ちしてくる。

「大尉、信じるんですか、こんな怪しい……」

 そう言いながら、ヒメコはライの方へと疑わしい目を向けている。しかし、それも当然かもしれない。亡命者がその理由を明かさないなど、スパイとして疑ってくれと言っているようなもの。軍人であるならば、ヒメコでなくとも怪しく思うだろう。

「確かに怪しいが、向こうもそれを承知で言ってきたんだろうよ。じゃなきゃ、こんな道理の通らないことは言いださないさ。自分の立場を悪くすると知った上でこんなことを言ったんだ、その都合はこっちが酌んでやらなきゃな」

 しかし、そんなことは竜太郎も承知の上だ。ただ、ここまで清々しく怪しい人間が、悪意のある人間であるはずがないとも考えていた。悪意のある人間は総じて、自分を“怪しくなく”見せたがるものなのだから。

 だからこそ、過剰に怪しむ必要はない。竜太郎はそう結論づけた。

「心配するな、俺が彼女を監視する。……すごく面倒くさいけど」

「……大尉がそう言うなら」

 ヒメコは竜太郎の言葉を聞き、引き下がる。

ヒメコも竜太郎の性格は把握している。本当に必要な時以外“面倒”なことをしない、それが浦島竜太郎という人間だということを。その本人が『面倒を見る』と言ったのだから、ヒメコは納得せざるを得ない。階級的にも、人間関係的にも、だ。

「聞こえてるわよ。なによ、面倒くさいって。こんな美女に付きまとえるんだから、男なら喜びなさいよ」

 そんな二人の後ろで、椅子に座ったままのライが、薄く笑みを浮かべたまま声だけを不満げに文句を言ってくる。

 それを聞いたヒメコは、心底苛立たしそうにライを睨み付けた。

(……やれやれ。ほっておくと、いつか取っ組み合いになるな、この二人は)

 これ以上二人を関わらせると碌なことにならない。そう直感した竜太郎は、ヒメコへ指示を出す。

「ヒメコ、とりあえず艦長に伝えてくれ。『亡命者はニライカナイの技術者、竜宮への連行を要あり』、ってな。……それが済んだら、君も休憩しろ。いい加減に血管を休ませないと、本当にブチ切れてしまいかねない」

竜太郎は冗談交じりに、ヒメコのこめかみに浮かぶ青筋を指で弾く。

「痛!? ……わ、わかりました」

 ヒメコもそれでようやく敵意を剥き出しにした視線を収め、竜太郎の指示通りに連絡を伝えようと、踵を返す。

 そして、ヒメコは食堂と廊下を繋ぐ扉の段差を跨ぐと、半身を竜太郎へ向けながら、

「確かに、報告しておきます。ただ、一つ言っておきますけどね、大尉。いくら相手が美人だからといって、油断だけはしないでくださいね?」

 そう言い残し、食堂から去っていった。外の廊下からは、あからさまに不機嫌そうな足音が、足早に遠退いていくのが聞こえてくる。

「……面白い子ね、あの子。からかい甲斐があるわ」

 そんな足音の余韻に耳を貸しながら、ライは満足げに呟いている。

「神経質なところがあるからな、あいつは。まあ、戦水士には向かない人種だろうよ。君も余りからかってやるな。あの手の人間はキレると手が付けられない」

 そんなライを迷惑そうに戒めながら、竜太郎は両手を軽く上げる。心底面倒なことを目の当たりにした時、竜太郎はよくこうする。こうして「勘弁してくれ」というようにするのが、竜太郎の癖の一つだ。

「わかったわ。――となると、からかう相手はあなたということになるけど……つまらなそうね」

 すると、今度のライは不満げにする。

「よく言われるよ。『お前と話すのはつまらない』って。悪いが竜宮へ着くまでの間、かなり退屈な時間を過ごすことになるぞ? なんたって、俺が君の監視役なんだからな」

 竜太郎は相変わらず無表情に近い低血圧な顔で、ライに向かってそう哀れんだ。

「そう思うなら、もう少し愛想よくしてもいいじゃない?」

 それに、ライはわざとらしく困ったような表情を浮かべ、声を笑わせた。それは案外、竜太郎との会話を楽しんでいるようにも見えた。


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