獅子王の生まれた日
十数年前、獅子王など存在しなかったウォガールには、その代わりに爪牙のごとき王子がいた。
少し前には貢物が気に入らないと王家お抱えの貿易商を切り付け、隣国の貴族の子――と言ってもとうに成人している青年――が来訪した時には、不可抗力を装い怪我を負わせておきながら、治療もさせずに送り返した。
そして今日も今日とて、血縁上は一応父である男の閨に招かれた侍女の舌を、汚らわしいと切ったばかり。
勤勉で何ら非の見当たらない被害者らに同情する声は王宮内でも多く、少年は次期王位継承者でありながら、いや次期王位継承者であるからこそ、後ろ指を指されることもしばしば。
傀儡の愚王と奴隷の子どもは獣だと、他国の者からさえ蔑まれる始末。
仮にも王族とはいえ、子ども故に王宮勤めの役人ほどの権力すらないのであれば、己の剣に物を言わせるのが好き勝手振舞うのには手っ取り早かった。
そんな少年も年がら年中、朝から晩まで毛を逆立てているわけでもない。人払いをした屋上で、一人眼下に広がる景色を眺めている時には、人が変わったように大人しやかで分別をわきまえて見える。
「またここにおられましたか」
庭に面した屋上の欄干に、胡坐をかいて座る少年の耳に杖を突く音が届いたかと思えば、小柄で細身な中老の男が盆を持った侍女を連れて現れる。
男が人差し指を動かすと、普段なら行儀にうるさい侍女が少年の膝の横、手すりと呼ぶにはやや幅のある欄干に茶を二つ並べて一礼し、音もなく下がって行った。
「なんだ、ブライヤー、お前も小言を言いにわざわざ来たのか?」
「いえいえ、理不尽が許されるのが王ですよ。一見横暴に思えても、その根底に理があればなおのこと」
何を知った顔をと鼻を鳴らすが、情報収集に長けたこの男のことだ、何が自分を暴虐に駆り立てるのかなど、いとも簡単に見透かしているのだろう。
「王はまだあの男だ」
少年の揚げ足取りにも、ブライヤー卿はしたり顔で頷いた。
「そうでしょうとも、だから私のような老人が我が物顔で王宮を闊歩できるのに、たった十やそこらの殿下はウォガールの王としては振舞えない。しかし、既に陛下よりも王に相応しいからこそ、手を出せない範囲がわかり、葛藤が生まれてしまう。だったら――」
だったらなんだと少年が横に来たブライヤー卿と目を合わせれば、話の先を引っぱる男は暢気に茶をすすり、わざとらしく会話の矛先を逸らす。
「ああ、そういえば、本日より私が正式に殿下のお目付け役になりました」
にこにこと笑う垂れ目のブライヤー家当主は、常日頃から人当たりの良い人相をしている。
いや、むしろ髪をオールバックに撫でつけ貴族の服装に身を包んでいなければ、日向ぼっこがてら市場で店番をする老いぼれか、ただの昼行燈にしか見えない。
けれど、このように人の警戒心をするりと解いてしまう笑顔の時ほど、この男は性質が悪いのだと身を持って知っている少年の本能が警鐘を鳴らす。
「それがどうした? とうとうお前も俺の矯正に乗り出すのか?」
「いいえ、今まで通り好き放題なされば良いと思っておりますよ。――さきほどの続きでもありますが、殿下、このまま獅子王におなりなさい」
「なに……?」
「我が国の旗が獅子でしょう、しかも好都合にも殿下はまるで手の付けられない獣のようだと、一部で有名ではないですか。それをちょっと膨らませた偶像が獅子王です。王ではないが、民が王と同等に崇め畏れるもの。どのみち殿下は王位を継ぎますし陛下はあの体たらくですから、年若い仮王であっても国一番の権力者と受け入れる者は多いでしょう」
それはひとえに操り人形の後ろでお前が睨みを利かせるからだろうと、少年はさも不本意そうに、ブライヤー卿からは陰になって見えない顔半分を歪めた。
「俺が断ればどうする?」
「賢い殿下は断るはずがないですが、もしそうなれば獅子の子は谷底に突き落し、どこぞの野良猫を獅子に仕立て上げねばならず、老体の骨が折れるだけです」
それすら嫌なら飛んで逃げてみろと期待に瞳を輝かせる様子からは、ブライヤーの本気と、少年を獅子王にしたいのではなく獅子王という存在が必要なのだという意図が窺える。
「そこまでして、お前は何がしたい?」
「あ、それを答える前に、是非殿下には言祝ぎをいただきたい」
「……何のだ?」
「私におめでとうと気持ちを込めて言ってくれさえすれば、理由など些末なことです。さあ、先生に良いことがあったのだから、祝ってやるのが筋でしょう。さあ、さあ」
ずずいっと間合いを詰めた老人の勢いに押され、思わず仰け反った少年はバランスを崩しかけながらも、なんとか屋上からはみ出した上半身を支え体勢を整える。
「お、オメデトウゴザイマス」
「ありがとうございます、殿下」
まったく気持ちなど籠っていない棒読みの祝辞にも、幸せを噛み締めるように老人はうんうんと嬉しそうに頷く。
…………非常に気持ち悪い。
そう思った瞬間、老人がいつになく表情を引き締めたため、とうとう読心術でも会得してばれたかと、半分くらい本気で身構えた。
「さて、では話を戻すとですね、ウォガールが大陸一の強国として盤石にならねば、少々困ることになりまして。ああ、困るのは主に私なのですがね。で、そうするには国力以外にも怖い王の存在というのが必要でして」
「一応王家の血が入っているんだ、国を乗っ取りお前がやれば早いじゃないか」
「このような老いぼれがなっても先は短いでしょう。それに役者が演じるキャラクターの出来というのは重要でして、残念ながら私では存在するだけで人を縮み上がらせる野蛮な強者にはなれないのです。なにより私には私の役割があり、王になどなりたくもありません。おお、もちろん根回しはお任せ下さい」
自分がやりたくないと明言することを、孫ほど年の離れた子どもに堂々と押し付けるブライヤー卿は、皺が刻まれ始めた右手を当てて胸を張る。
「ウォガールは当代の頭のできに対して少々肥え過ぎています。国外に睨みを利かせる前に、まずは殿下がしておられた国内の膿掃除を済ませましょうか?」
「不甲斐ない王を餌に、腐敗をのらりくらりと培養してきた口が何を言う」
「国を動かす人間すべてと、仲良し小好しだなどとはただの夢物語。生涯をかけて挑んでみたところで、ほとんどの場合で夢半ばに終わるものです。しかし、うまく弱みを握れば、まあそれなりに事は簡単に済みます。いやはや、陛下にはこれ以上無様にウォガール王の名を辱めてほしくありませんが、その点、生まれつき唯我独尊・俺様主義であらせられる聡い殿下なら地でこなせるでしょう?」
「……おい、いつものことだが、不敬罪に問わない俺の寛容さに感謝しろよ」
「不敬罪に問えないとわかっているからこその物言いですよ」
現王家の手に未だ王権があり、それでも国の命運が傾いていないのは、忌々しいことにブライヤー卿が「王なのだから出来て当然と言われ、たいして美味くもない酒池肉林に溺れるよりも、それを操る影の支配者のほうが楽しいじゃないか」という性格だったからに他ならない。
本人の言葉通り、ブライヤー卿なしに支えるにはウォガールは育ち過ぎ、例え小国に過ぎなかったとしてもたやすく他国に飲みこまれるだろうことが嫌というほどわかっている少年は舌打ちした。
それを了承と取ったのか、
「では手始めに明日、東方の国境まで出かけて、そこの領主に因縁を吹っかけ一族まとめて血祭りに上げて来てください。そうそう、金で雇った山育ちのお友達も一緒に駆除してきたらどうですか? ちまちま脅しをかけさせていたようですが、もう必要ございません。――なぜなら、今日から殿下は短気で我儘な跡継ぎではなく、冷酷非道・傍若無人な獅子王ですから」
と、ちょっとしたお使いでも頼むように述べられた、ブライヤー卿による獅子王育成の第一歩は、いささか血生臭すぎる課外授業であった。
それで話は終わりかと思ったが、ブライヤー卿は立ち去る代わりに少年の横で庭を覗き込もうと身を乗り出した。
「――ところで、いつも何を覗き込んでおいでなのですか?」
「?」
「毎回必ず前かがみになって、すぐ下を見ておられるでしょう?」
子どものように好奇心を満面に表すブライヤー卿に、少年は素直に足元の城壁を指差した。
「――ただのフィリーアだ。一昨年前芽吹いたものが珍しく横に枝葉を広げず、ただ一直線に空を目指して伸びているんだ。このまま誰にも摘まれず、いつかここまで届くかと思ってな」
「……そうですか、ふむ――、それもおもしろいですね」
悪巧みでもするように顎を擦ったブライヤー卿は、また――主に少年にとって――はた迷惑なことを考えているんだな、と少年をうんざりさせる笑顔を浮かべた。