乳母となった寵姫との再会
「おかえりなさいませ」
そう寵姫に出迎えられるのが気に入ったのは、いつの頃からだったろうか。
寵姫が王宮に居た時間は五年足らずと、長いようで短く、王が傍で過ごせたのはさらにその半分ほど。
辺境のボロ屋敷から出たことがないくせに、何故か元から上流階級のレディー然とした身のこなしができ、ウォガール国内外の情勢に通じる博識でありながら、生来のさっぱりとした気さくな性格のおかげか、王宮にいる多くの者に慕われていたが、彼女について深く知っている者は皆無と言える。
実は連れてきた王本人ですら、知らないことのほうが多いのだ。
それでも二人が王宮に居る間はずっと寝食を共にし、可能な限り同じ時間を過ごしたのだから、自分が彼女について一番よく知っているという無意識の自負が王にはあった。そして子が産まれた後も出て行こうとしない様子に、一緒に暮らす内になんらかの情が向こうにも生まれたのだろうとも思っていた。
しかし、それをいとも容易く粉々にした寵姫は、心の内で何かが崩れた余韻に視界が震える王をあざ笑うように、乳母として、帰国した王を出迎える臣下の言葉を述べ初対面の挨拶をする。
「無事のご帰還なによりでございます、陛下。お初にお目にかかります、王子の乳母に雇っていただきましたナニーです」
膝に王子を寝かせたまま上半身だけで礼を取った女はまだ十代後半、本来なら乳母として雇うには若すぎるが、大人びた顔立ちと落ち着いた様子からはそう呼ぶに十分な雰囲気だ。
濃褐色の瞳は意思の強さを窺わせ、相変わらず肌は白いが顔の血色は良く生気に溢れている。
出陣前に見た寵姫の弱った姿が最後だった王は、やはりどこか気がかりだったのか健勝な様子に無意識にほっと胸を撫で下ろした。
しかし傍目には微動だにせず無言で睨み下ろしているだけの強面の王に、見上げる乳母はひるむ素振りもなくただ訝しげに小首を傾げる。
「陛下?」
同一人物だから当たり前なのだが、寵姫の時にもしていた可愛らしい仕草に、はっとなった王は改めて乳母を眺める。
慇懃無礼にもとられそうな態度で、ひっつめた蜂蜜色の髪を丸く一つに纏めているためその長さは窺い知れないが、声や容貌はまさに――、
「……乳母は寵姫に瓜二つに見えるが?」
「王宮の者は誰一人そんな事を申しませんので、きっとご寵姫を失った陛下の悲しみ故の勘違いでしょう。ですが、もしそのおかげで殿下が懐いてくださったのなら、嬉しい限りです」
乳を飲ませて昼と夜の境なく世話を焼く実の母親に、赤子が縋りつくのは当然だろう。その上周囲の口を塞ぐよう自分で仕向けておいて、どの口がいけしゃあしゃあとのたまうのかと王は眼光を厳しくするが、乳母は気にした風もなく微笑む。
「その性格も、まさに寵姫そのものだが?」
「そうなのですか。ご寵姫とお会いしたことはないので、私にはわかりかねます。ただ、陛下にとってご不快で、なければいいのですが……」
本人なのだから会ったことがあるはずがないだろうと、さらに心の中でつっこんでいた王は、乳母の歯切れの悪い言葉が、もしや暗に気に入らなければ出て行くという意味かと深読みし、慌てて首を横に振った。
「いや、まったく、不快だなどとは思わん。好きなだけ王宮にいろ。むしろ王妃になればいい」
まともな女であれば一も二もなく飛びつくか失神しそうな、獅子王からの羽毛のごとく軽いプロポーズに、乳母はさも不可解そうに眉を顰めた。
「……何故?」
「王妃になれば仕事をせずとも食うに困らず贅沢もでき、好きなだけ王子の世話が焼けるではないか」
「好きなだけ殿下の世話をするのが今の私の仕事ですが?それに別段贅沢などせずとも、衣食住に困らず、日々微々たる蓄えができるだけの稼ぎがあれば十分幸せです。それに王妃には後宮のどなたかがおなりになるのが筋でしょう」
他人事でさえあれば、まったくもってその通り。
「だがそれでは……」
俺がお前を抱いて眠れないではないかなどとは言えず、王は渋い顔で真一文字に口を閉ざした。
二年ぶりに戻ってきた王の私室は、家具の模様の溝にすら掃除が行き届き、隅から隅まで寸分の違いなく模範的に整えられていた。
それこそが寵姫がこの部屋を去って久しい証拠。
寵姫がここで寝起きをしていた間、彼女はここが自分の部屋でもあるのなら自分で掃除をすると言い出し、王と侍女を押し切った寵姫によって、よく使う場所を中心に王の部屋は適度に掃除されるだけになり、二人が並んで眠る寝台は「寝られれば十分、どうせ朝にはシーツから何から洗うのだから」と大雑把に整えられた。
気付けば部屋の隅や高い位置にある家具の頭を埃が飾り、おざなりに整えられた寝台からはシーツの端がはみ出し、女物のガウンと上着が勤務時間を交代するまで無造作に椅子の背にかけられっぱなしという生活感に溢れた王の部屋など、きっと大陸広しとはいえ、今も昔もここだけだっただろう。
別に自身で掃除をしたがった寵姫は几帳面でも潔癖症でもなく、ただそれまでの暮らしのせいで、自分のことを人任せにするのが性に合わないようであった。
言いようによっては家庭的な行動はそれだけに留まらず、誰の手も借りずに風呂に入り着替える寵姫が王の身支度すら手伝うようになるのにも、それほど時間はかからなかった。
以前は品がないと呆れていたものだが、背伸びをせず肩肘も張らず、手の届く範囲で満足する民のような暮らしを殊の外気に入っていたのだと今更ながらに気づく。
ただどんなに懐かしんでも、いつものように「おかえりなさいませ」と出迎え、王の上着を受け取る寵姫の姿はない。
今部屋にいるのは寵姫の代わりに脱衣を手伝おうとする侍女だけだ。
服の襟にかかった細い手を制した王の心境を読み取ったのだろう、侍女は目を伏せて王の視線を辿るようにして部屋を後にする。
扉が閉まる音を聞いた王は、どこか寂しさを感じる部屋で自分のものではないような、売り物の如き大きなベッドに腰を下ろす。
皺一つなく、落としたコインすら弾むほどにピンとシーツが張られたベッドで眠るなど、実に寵姫を迎えた初夜以来だ。
思わず思い出した温かさを振り払うように、服を脱いだ王は頭を振って、冷たい布団にくるまった。