寵姫をなくした王の不覚
一口も飲まずに杯を砕いた王が、入口越しに赤く色づいた葉を茂らせる庭の樹を指差すと、その右人差し指は樹の根元で王子に寄り添う女に定められた。
先ほど王が寵姫に声をかけようとした時、一足先に彼女に駆け寄り細い首に抱きついて頬擦りしていた王子が、今はいつの間にか木陰に腰を下ろした女の膝枕で寝かしつけられている。
我が息子ながらなんと羨ましい――。
本当ならとうの昔に自分が寵姫を抱え上げ、あの柔らかい頬に口づけベッドに運び、離れていた距離をこれでもかと縮め、きっと今頃は寵姫をぐっすり寝かせてやっていただろうに。
待ちに待った至福の時を横目に、何が面白くて寵姫が死んだなどという戯言に付き合わねばならんのかと、王はぎりっ――と奥歯を噛み締める。
「寵姫そのものの女があそこにいるが、ではあれは幽霊か?」
「あれは乳母でございます」
よどみなくはっきりと返された答えに王は嫌な予感を感じつつも、さも当然としれっと偽りを言う宰相に面喰った。
「ご寵姫の死亡報告書も、乳母の素性や採用辞令も、陛下がお認めになられたことばかりでございますよ。今さら知らぬとは言わせませんぞ」
そう続けて恨みがましげに言われた王はとうとう口をあんぐりと開け、どうにもこうにも二の句が継げなくなった。
倒れていないのが不思議なほど顔を青くする王には、寵姫の死後に死亡報告書を書いた覚えはなかったが、一人息子が生まれる前には、書いた記憶があったのだ。
――本物である。
「何故、受け取った……」
顔面蒼白の王がかつて寵姫に贈ったもの。
死因が抜けた寵姫の死亡報告書と名前や出身地が空白の手つかずの戸籍書に、王宮で雇うと約束する採用辞令。
そして、条件付きとはいえ寵姫に与えた王すらも逆らえぬ一度きりの絶対命令権。
その全てに王は直筆のサインと共にある印を押した。
「王の玉璽が押された書であれば、受け取らざるは謀反の証ですので」
「それでも……」
「受け取らねば、勅命を行使し、ご寵姫は王宮を去って行方をくらませてしまいかねませんでした。宥め賺して、何とか説得し、乳母として残っていただいたのです。あっ、いや、乳母はご寵姫とは縁もゆかりもない方ですが……」
命知らずにも王の言葉を遮った宰相は、はっと口を噤んで慌てて辺りを見回す。
そんな彼の周りでは、居並ぶ臣下や侍従たちが苦笑したり目を逸らしたりして、自分は何も聞いていないとそれぞれに無言で主張する。
「まどろっこしい。この話はみな他言無用だ。――あれが絶対命令権を行使したのだな?」
「さようです。ご寵姫は誰であろうと自身の死を覆すことを禁じ、別人の乳母として扱うこと、一人でも違えば、慰謝料をふんだくって王宮を去ると仰られました。しかしご寵姫の時と彼女の性格や行動、好みに何ら違いはございません。ただ人が、いえ、呼び方と立場だけが違うのです。――我ら王宮にいた者達は、記憶喪失になったご寵姫が乳母として働いていている、記憶喪失が悪化するため彼女の過去に触れてはならぬ、というふうに思っております」
「そうか、とりあえず、留め置いたことは褒めておく」
文字通り頭を抱えた王はいつの間にか傍に用意されていた椅子にどさりと腰掛け、顔を覆った指の隙間から重い溜息を吐き出した。
意気消沈とも見える王に、宰相は戸惑いがちに危険分子について口を開く。
「それと、後宮の妃たちには念のため、乳母と殿下の近くに息のかかった者すら近付けることを厳しく禁じておきました。最悪の結果は避けられましたが残念ながら違反者が数人おりまして、その妃達は新しい使用人を付け部屋に軟禁しております。事実関係は調べ……」
「命に背いた馬鹿どもは誰であろうとまとめて即刻家に送り返せ。そうしたのが本人だろうが、別の妃の思惑だろうが、ただの噂だろうが、そんなことはどうでもよい。重要なのは寵姫だ、いや今は乳母か。あれに関して全ての報告をただちに持って来い」
心得ていたとでも言うように静かに頷いた宰相が傍の侍従になにやら合図をすると、あらかじめ用意していたのだろう報告書の束がすぐに手渡された。
疲れたように王が手を払えば集まりはお開きになり、近衛長官と宰相、そして幾人かの使用人だけを残して、人で溢れていた広間は空になる。
そこには寵姫が死に乳母が雇われてからの王宮での日常が事細かに記されていた。
額を押さえ、逐一呻きながらも一通り読み終えた王は呟く。
「もしかしなくとも、あれの呼び名が変わって、俺だけが損をするのか?」
報告書によれば寵姫が乳母となったことで、もともと仲の良かった使用人たちは同僚としてより気安く話せ、それとなく相談にのってもらおうとする臣下たちは食事やら茶やらに誘い放題、王子は本来なら赤の他人に育てられるところを知らぬとはいえ実の母親に世話をされている。
しかし乳母が仕えるべき主たる王とは、彼らと同じようにはいくまい。
女の行動は全て乳母の見本とも言うべきもので、乳母以外の者としては振舞わないという確固とした意思すら感じられた。
他の者にとっては良いことずくめだろうが、王は気安く話しをする者、寝食を共にする者、世話を焼いてくれる者、穏やかに過ごす生活のそこここに寄り添っていた存在を失ってしまったことになる。
当然のように彼女に触れ、なにげない話で笑い合い、共に過ごした時間はもはや過去のものだ。
そう思えば王の胸から何かがするりと抜け出た気がする。
脱力感が一気に背中に伸し掛かり、空気で膨らんでいるはずの肺ががらんとした空洞に感じ、変に縮んだ心臓が鼓動を中途半端に乱した。
「――これが寂しさというものなら、厄介なものだ」
天を仰いで溜息まじりにそう漏らした王に宰相が耳を寄せる。
「何か仰いましたか?」
「いや、――乳母に会って来ると言ったのだ」