0話:名もなき少女
寵姫になる前の話です。
長くなってもなと、簡潔にしたため、ころころと場面や時間軸が移り変わります。
そして全然ほのぼのしてません…暗め重ため(?)な話が苦手な方はスルーでお願いします。
これも今更ですが、「英語圏なの!?」ってツッコミは、ご愛嬌ということで許して下さい。
幼い頃、自分の名前はレディ・ディアかディア・レディだと思っていた。
一緒に住んでいたおばあさんが、物心つく前から自分をそのどちらかで呼んでいたから。
しかし文字の読み書きを勉強し始めた折に、自分の名前の綴りはどう書くのかと訊ねたら、どちらも名前ではなくただの呼びかけの言葉なのだと教えられ、おばあさんの名前も知らないから庶民には名前がないものなんだと別段不思議に思わなかった。
ただレディという単語の意味を知れば、屋敷とはいえ半年毎に荷を届ける人以外に訪れる者のない、打ち捨てられたような場所に住む自分には、いかにも不釣り合いなと肩を落とした。
男手も先立つものもなく、崩れるがままの屋敷には棘を持つ緑だけが年々濃さを増す。
「やっぱり増える分だけでも手入れしなくちゃ」
「いいえ、ディア、この屋敷でくらい好きにさせてやりなさい。本来フィリーアは自由にどこででも生きるものなのです」
「でも……ちょっとくらい」
「さあさあレディ、今日の勉強を始めましょう。聞き分けが悪いと今晩のお話は無しですよ」
腕まくりをして外に向かおうとする幼女の襟を掴んで、老女が放っておけと言い聞かすのは、物心がついてからは毎月のやりとり。
逃げ出したいと願うほどには不自由でなく、けれど伸び放題のフィリーアですら羨ましいと、子供心に思うくらいには不自由な生活だった。
分厚い書物で堅苦しい世の理を勉強し、いつどこで使うのかと問いたい宮廷マナーを習得する年になっても、届けられる荷の中には毎回必ず絵本が混じっていた。
それはいつもトゲトゲ男爵と獅子を目指す仔猫のお話。立派な百獣の王にすると約束した、厳しくも本当は心優しいと注釈が加えられるトゲトゲ男爵が毎回いろんな試練を与え、それを乗り越える度にわがままな仔猫がだんだん大人になり逞しくなっていくシリーズもの。
何の気もなしに最近の事件に照らし合わせてみれば、おもしろいことに解釈は違えど獅子王の歩みにそっくりだった。
「歴史は誰かの思惑により作られるモノ。たまには真実が絵本などに紛れていることもありますね」
偶然かなと老女に問うと、よくぞ気づいたと頭を撫でてもらえたのが嬉しかったのを覚えている。
そんな彼女が死んでしまった時は悲しくて、とうとう独りぼっちだと途方にくれた。それでも数日後に、配達日でもないのにやって来た男の人に助けてもらい、何とか腐る前の彼女を土に埋めて弔うことができた時には、「冬で良かった」と思うくらいには立ち直っていた。
さっぱりあっさり冷静沈着、他人と自分は違う人間だからとたいていのことはさらりと受け流す大らかな人。聞こえが良いが、言い換えればただの冷たい無情な性格。それでも晴れやかで無邪気な笑顔の作り方は骨にまで刻みこまれている。
自分を知識と教養だけが詰め込まれた人形のように思い始めたのは、もっとずっと前から。
絵本の仔猫のように自由奔放でやりがいある何かを目指して必死に生きられれば、もっと人生楽しいのだろうかと目を閉じた少女は独り、今夜も枕元に置いた絵本と眠る。
それからさらに何年か経つと、どこで聞きつけたのか一人の老紳士が老女の供養にと訪ねてきた。
脱いだ帽子を胸に当てたまま老紳士はゆっくりと立ち上がり、膝についた土を払う。
「お名前は何ですかな、レディ?」
「ありませんから呼ぶなら好きに呼んでいただいて結構ですよ」
服装に似つかわしくない謙虚さで、老女が眠る場所に片膝をついた老紳士が顎を引いて黙とうする間預かっていた、持ち手に丸で囲まれた茨の彫細工が施された高級そうなステッキを手渡しながら答えた。
「おお、マイ・ディア、それはいけません。名は最初に親から与えられる贈り物であり、体を表すと言うくらいです。不肖ながら、私が名付け親になってさしあげましょうか?」
屋敷に戻っても貴族としか思えない人相手には粗茶ですら満足に出せないからと訊ねもせずに、墓石代わりに立てた杭の前で立ち話。
戸籍すらない庶民以下の人間の、侮辱とも取れる待遇には頓着しないのに、そんな不審者の名前のほうが気になるなんて変な貴族だと思いながらも、別段困ったこともなくこれからも必要になるとも思えない少女は「いえ、結構です」ときっぱり断る。
「それは残念です。出過ぎたことかもしれませんが、一緒に住んでいたおばあさんはご存知でしたよ」
「そうですか、ま、戸籍もなく彼女もいない今、もう知ることはなさそうですが」
自身の名前にこれっぽっちも興味がないと言外に返せば、柔和な面差しを引き締めた老紳士はくるりと身体の向きを変えた。
「いいえ、もうすぐあちらからおっかない人がやって来ます。その場で喰い殺さなければ、あなたの名前を見つけてくれるかもしれません。まあ、その前に貴方自身が、ついて行った先で見つけるのでしょうがね。もちろん逃げるのもありですが、あちらの方向だけは国を越えての旅先には選ばないほうがいい。それだけお伝えしたくて今日は墓参りがてらやって来たのですよ」
老紳士の杖先は王都の方角を指す。知識の中の地図を広げれば、王都を越えた先には底が見えない崖を挟んでいくつか小国があり、さらにその向こうには果てしない大海原が広がっている。
しかし戸籍のない人間は国内でも住む場所どころか日雇いの仕事ですら簡単には見つけられない。越境なんて夢のまた夢、密航者として追われ続けるくらいなら、追い出されるまでここに居て、その怖い人というのに会ってみるのもどっちもどっちの気がする。
何も持たない名無しには行くあてもないと笑ってみせれば、老紳士はどこか複雑そうに頷いた。
「お嬢さん、今名前がわからないということは、それがわかった時、本当のあなたとして生きられるということかもしれませんね」
慰めた、わけではなさそうな老紳士はそれだけ言うと帽子を被り直して数歩歩き、かと思えばすぐに立ち止まって墓の傍に立ったままの少女へ顔を向ける。
「そうそう、定期的に送られているリストにはちゃんと目を通していますか?」
「これといって使う機会のなさそうな、あの名前や役職とメモ書きがまとめられた紙の束なら、暗記した後にちゃんと指示通り焼き捨ててますよ」
「よろしい、あれは後々貴方の身を助けるでしょう。あと、私は犬をたくさん飼っているんですが、犬は家ではなく人に懐くもの、寂しくないよう何匹かあげましょう。あなたがどこでどんな名で生きようと、私の犬ともどもリストを大いに役立てて下さい」
最も伝えたかった事、わざわざこんな辺境までやってきた理由、それらは墓参りでもおすすめしない旅先を伝えにきたのでもなく、どうやらこれの気がする。
こういうのも嘘つきっていうのかなと少し考えた少女は、今度こそ振り返りもしない老紳士を手も振らずに見送った。
**
彼の言った通り、数か月してやって来た乱入者はとても無礼な男だった。
不細工では絶対ないけれど、特別骨抜きにされそうな美形というほどでもない。人の恐怖心を煽る不機嫌なオーラが漂い溢れているのだから、それもそのはず。
金髪碧眼の美丈夫というよりは厳酷苛烈な偉丈夫という言葉がぴったりだ。
話は変われど、長い歴史上まだその役割を果たしたことはなくとも、王家本筋が途絶えた場合に血を繋ぐための、分家のような筆頭貴族家がウォガールにはある。そのブライヤー家の縁者かと問われたのは滑稽だった。
けれどこの前訪ねてきた老紳士も茨の家紋らしきものを身に着けていたし、もしかしてこの屋敷はブライヤー家の持ち物だろうかと初めて気づいた。
素直に答えたおかげか、男がすんなり手を離してくれたのはいい。しかし自分で言うのもなんだけど、たいした目的もなく、他にすることも思いつかないからと老女が死んだ後も生まれてからずっと続く暮らしを日々淡々とこなしているだけの身。
何故痛くもない腹を探られるために全身に痛い思いをしなければならないのか。
率直に過ぎた怪しさ丸出しの受け答えも一因なのだが、「問答無用で拷問行きだ」と少女を不審者認定する男に「それは、嫌だわ」とその言葉通りの表情で返せば、狡賢い笑みを隠しきれていない男は愛馬を鈍らせる荷物にするくらいなら殺してしまおうと言う。
辺境とはいえ戸籍なしで生きていくのは例の老紳士の予言もあり、もう潮時かなと薄々感じていたし「それならどうぞ、さっさと殺せばいいじゃない」と言おうとすれば、男の思わぬ取引に遮られ、最初の一文字が声になったかどうか。
「戸籍……」と呟いた少女は瞬かせた瞼を閉じる。
今までは戸籍なんてあってもなくても、どうでもよかった。でも、今後生きていくために誰かになれるなら、手を生やすほどではないけれど喉から涎が出るくらいにはほしい、かもしれない。
改めて見返した碧い瞳は近寄りがたい雰囲気とは裏腹に、穏やかでむしろ叡智を秘めているように感じた。
この唯我独尊男が獅子王なのかと改めて見てみれば、なるほど、確かにそれなりの威厳と不遜さが窺える。
男は偉そうなのではなく、国一番偉く、怖そうなのではなく、大陸一怖い人。
けれど少女の中ではお気に入りの絵本を読むたびに、手に汗握り応援していた仔猫も同然。畏れよりも何よりも、本当に立派な百獣の王になってと感慨深い。
かといって、初対面で剣を片手に馬乗りになられるのは、やはり誰が相手でもあまり気持ちのいいものではない。
剣を収めても、やんちゃな仔猫から魔物ですら眼力のみで従えそうな支配者へと成長した、冷酷非道と大陸に響き渡るあの獅子王なら、片手で掴める小娘の首などいつでも一捻り。
むしろ王都に戻れば、その手を汚す必要すらない存在。
そんな獅子王に手を出して無事に済むくらいなら、その人はきっと既にどこかで一国一城の主になっている。
獅子王にあやつり糸を付けるのが叶わぬ夢でも、ウォガールで効率的にうまい汁を吸い続けたいと考える者は、王の妃や子どもを飼いならそうと手を回す。
王位継承者の母が権力を持つのは避けられず、叩けば芋づる式の思惑しか出てこないような妃は問題外。他国の者も同様。身分のない国民を選んでも、その身内や親しい者を買収されたり人質に取られたり、結局は同じ穴の貉ということなのだろう。
縁者のいない天涯孤独の身でも、何にも縛られない人間は珍しい。血縁がいなくとも戸籍があるということは、人との関わりがあるということだから。
それにいつの世も陰謀渦巻くとされる後宮に、王自ら選んだ女を一人放り込めば、後ろ盾があろうがなかろうがいい餌食。
確かに誰を選んでも問題は後から後から降って来そうだ。さぞ頭の痛い問題だったことでしょう。
名無しの私ならそんな弱みもないし、情けをかける相手もおらず、他の奥さんにどんな仕打ちを受けても王の胸は痛まない。役に立たないどころか邪魔になれば、人知れず殺されるのもむしろ好都合。
そう王が踏んだのだと思い、別にそれで問題ないと私も思った。
でも――その決断は間違いだったと、すぐに思い直すことになるなんて、この時は思ってもみなかった。
これも王宮で、しかも王の私室に住むようにと言われた時に勘違いだとわかったのだけれど、取引を持ちかけられた時は「あ、絶対私任せにして放っておく気なんだゎ、この男」と思った。
それでも一度は生きていても死んでも大差ないと思った孤独な人生。今と同じく誰でもないまま好き勝手できるなら、好都合。誰にも迷惑はかからない。やってやれそうなことは多く、たとえ失敗してもたいして痛くないものを失うだけ。
自由な未来を夢見ていたわけでもないけれど、自由に未来の夢を見てもいいのだとしたら、何かを変えられる気がする。そうすれば、これまでの人生の意味がわからなくても、何かしらの意味があったのだと思えるかもしれない。
それがたとえ母子両方の命を狙ってきそうな魑魅魍魎が跋扈しているのだろう後宮で、獅子王の子どもを胎で育てることと引き換えだったとしても。
でもやっぱり保険は大事だと瞳を輝かせた少女は、命乞いの代わりに生まれて初めてのおねだりをする。
望むのは荷馬車いっぱいの黄金にも代えがたく、王しか持たない勅命権。
国の財産や未来、生殺与奪に繋がる武力や権力には関われずとも、使い方次第では王に臣下の前で土下座させるよりもましな使い道ができるでしょう。
例えば追い出されても月に一度は子どもに会わせてもらうとか、血縁関係隠してもいいから子どもの傍で働かせてもらうとか。
そんな愛情が自分に持てたらの話だけれど、逆に二度と私に関わらないでと取り付けるのにも有効だろう。
何を思ったのか獅子王は一瞬顔を歪めたが、それでも短く頷く。
そのまま彼の愛馬に乗せられた少女は着の身着のままで住み慣れた屋敷を後にした。
本編執筆中にできた後付け設定との食い違いが直しきれてなかったら、すみません。
「ん?」と思われた方、ご指摘いただければ助かります。




