在りし日の二人の約束①
ウォガールの、紅の国旗に描かれているのが吠え猛る黒獅子であったためか、唯我独尊・冷酷非道と国内外で囁かれる現王は、まさに血に飢えた獣の如きと、即位前から獅子王と言う名をほしいままにしている。
そんな彼が共の一人も連れずに国境を訪れたのは、ただの気まぐれに他ならない。
その原因は数日前、王が忠臣と信じていた重鎮、己の師でもあった男の首を切った時まで遡る。
処刑された男が生まれたのは獅子の首元を彩る茨として国旗にその家紋が入るほど由緒正しく、王家に連なる貴族の血筋。
その家の当主を半世紀も務めた男はウォガール屈指の政治的外交手腕に長け、各国に子飼いのスパイを潜ませては情報収集に努め、また国内に潜む他国の間者を取り締まっていた。先王が病弱な上に愚王であったため現王が即位するまでは彼が失政の軌道修正に奔走し、ウォガールがいくら大国といえど、この当主の力添えなくば三年と持たないと言われたほどだ。
しかし、先日、あろうことか彼に売国容疑が持ち上がる。
獅子に比べれば濡れそぼった子猫ほどのみすぼらしい国力しかないくせに血気盛んな周辺諸国の様子や、さまざまな状況証拠からミイラ取りがミイラになったかと目された。
あの男に限ってはありえないと、王にしては珍しく弁明の機会を与えるために「申し開きを聞いてやる」と王宮に呼び出してみれば、
「既にグレーであればどうあっても白にはならんでしょう。私と家、どちらにその温情を寄越したにせよ、到底獅子王とは思えませんな。このような時にどうすべきか、他ならぬこの私から学んだのではなかったですか。――ふ、正解がわかればいつぞやのように、子猫にご褒美でも差し上げましょうかね」
言い逃れの一つもしない老当主はその代わりとばかりに、あろうことか、育ての親や筆頭貴族家には獅子王もただの猫同然に擦り寄るのかと暗に嗤う。
腹立たしさを抱えた王が、その場で望みどおり老当主を切り捨て、裏切り者の名は誰にも名乗らせんと、反対する臣下を退け勅命を持って歴史ある家を取り潰した。その数日後、老当主が人目を盗んで人や荷を送っていたという別邸が領地の端、田舎のそれまた辺境で見つかった。
死んだ後とはいえ隠し事が露見するなど、あの狡猾な古狸にしてはさも手際の悪いことをしたものだと呆れる一方で、これではまるで本当に褒美を探せと言わんばかりではないか。最後だけでなくいつからあの男の手の平で遊ばれていたのかと苛立ちが王の頭を過ぎる。
それでも王はその誘いに乗った。
国を荒らしかねない独断に、珍しく烈火のごとく小言を並び立てる臣下たちはうるさいことこの上なく、それならたまには気晴らしに賊の真似事も一興かと思い立ち、馬を走らせる。
古狸が国境付近に構えるのはどんな堅牢な城か見てやろうと思って来てみたのだが、王を出迎えたのはほとんど廃墟のような小さな屋敷。
蝶番が外れ傾いている門、崩れかけた壁や朽木かと見紛う庭の木、見渡す場所のほとんどに巻きついたフィリーア。
フィリーアはどこにでも生える蔓性の植物で、間引きをしなければ茎に具えたいくつもの小さな棘で、地面どころか壁や木にまで領土を広げ、その表面を白い小さな花で覆ってしまう。
それが証拠に、ここ数年このあばら家にはまったく人の手が入っていないのだろう。
他国の間者との密会場所にしているか、謀反のために貯め込んだ武器や他国との取引の証拠を隠しているのだろうと、浅はかな臣下たちが好き勝手に推測した場所。しかしそうではないと知っている王が暇つぶしがてら、では何を隠しているのかと家探しに来てみたのだが、これはこれで拍子抜けも良い所だ。
褒美はうっそうとした裏山に隠したと言われたほうがまだ興味をそそられるというもの。
つまらんと不機嫌そうに鼻を鳴らした王が建物の裏側に荒っぽく馬を跳ばせば、驚いたことに思いもよらぬものに遭遇した。
土をつつく鶏の番と古びた井戸に繋がれたヤギが一頭。
そして、突然馬で乗り込んできた男から隠れるように、王のベッドよりも小さな畑らしきものの傍を抜け、崩れかけた納屋の中に逃げ込んだのは一人の女。
すぐさま馬を下りて追いかけた王はそのか細い腕を掴んで、床と呼ぶべき板のまばらな地面に女を引き倒し、その首筋に抜身の剣を当てる。
暗がりの中では細部までよく見えないが、そこそこ整った顔立ちの細身の女だ。掴んでいる腕など、男が少し手の平に力を込めれば骨が砕けてしまうだろう。
「お前はブライヤー家の者か?」
「そう見えるならびっくりね」
「……勝手に住み着いた浮浪者か?」
「いいえ、私は物心つく前からここに住んでる」
「ではお前の名は何と言う?」
「生まれてから一度も、私は名前で呼ばれたことがないの」
凛とした中に僅かな驚きを隠したような少女の声が、テンポよく律儀に王の問いに返されるが何一つ満足な答えを含まない。
はぐらかしているわけではなさそうなので、いっそ小気味いいと、王は白い腕を解放した。
「とりあえず、この家の持ち主は反逆罪により、王が手ずから処罰した。他国からの旅人どころか戸籍もないのであれば、お前は牢屋の前に問答無用で拷問行きだ」
「それは、嫌だわ」
渋面を作る女の様子に、剣を持つ男に押し倒されている嫌悪感は窺えても何故か怯えた色がない違和感に気づいた。それが図太さでも何でも面白い、実に使える褒美かもしれぬと思い至り、顎を擦る素振りで口元に浮かんだ人の悪い笑みを隠す。
「安心しろ、俺にも一思いにお前を殺して、余計な荷物を増やさないでやるくらいの優しさはある」
「そ……」
愛馬へなけなしの気遣いを示した王は少女にも良心の残りかすのごとき提案をすべく、口を開きかけた少女を遮り、剣を柄に収める。
「――が、殺されたくなくば、俺の子を産むと約束しろ。俺は跡継ぎを産む後腐れのない胎が手に入ればそれでかまわん。産んだ後はどこへなりとも行くがいい、何なら戸籍と働き口もくれてやる」
横柄な王の言葉にピクリと肩を震わせた少女は数回瞬きすると、「戸籍……」と呟き何かを考えるように目を閉じた。
娘にどれほどの教養があるかはわからずとも、王じきじきに処罰した謀反人に繋がる身元不明者に戸籍を与えるなど、おいそれとできるわけがないのはそこらの子供でもわかるだろう。できるのならばよっぽどの権力者、それこそ王くらいのものだ。
そして男はその時も今も、正真正銘、王であった。
信じるか信じないかは、女次第。別にどんな手段を使ってでも娘の首を縦に振らせようなどとは思わぬが、利用できれば儲けものかという、これまた気まぐれだった。
「そんな約束などせず、無理やり産ませればいいんじゃないの?」
瞼を開いて当然の疑問を口にした少女は、ひたと王の瞳を見据える。
「十月十日も寝ずの番をして、たかが妊婦を見張れと言うのか? 恨みを募らせ途中で子を殺されれば後味が悪い。無事生まれたとしても、腹に向かっていらん事を吹き込まれるくらいなら、餌で釣る。いまさら無職の女が家に一人増えたところで、痛くも痒くもないわ」
自嘲する王の言葉に耳を傾ける少女にはやはり気負いや畏れは見られない。
そういえば、人が自分の意思で王の目を見て気安く話すなど、いつ以来だろうか。
「たくさんいる奥さんの誰かに産ませればいいのでは?」
「ふん、どの女が子を産んでも問題になるのが問題なのだ。その点戸籍のないお前なら、しゃしゃり出てくる親族もいまい」
「あくまで私は誰でもないのね」
「俺の子を産むただの女だ。ただし誰かの子飼いに成り下がれば即首を切るがな」
そうなってしまっては元の黙阿弥、しっかりと釘を刺す。
次に娘が口を開く直前、決意の灯った瞳が煌めいた気がした。
「産んでもいいわ。ただし、殺されてもいいから、私は戸籍ともう一つ、あるものを望む」
「ふん、殺してしまってはこの約束の意味がないだろうが。――なんだ?」
「一度だけ王すらも平伏す命令がしたい」
「……そんなことが叶うと思っているのか?」
眉を顰めながらまたも剣の柄に指を這わせる王に、少女は微笑んだ。
「その命令が金品を要求せず、王位継承権や国の運営に関わることではなく、誰も殺さず傷つけないものだとしたら?例えば、居並ぶ臣下の前で私に土下座しろと王に言うよりも、そちらに損害がないことよ」
「…………ならば、かまわん」
そんなことを本当に命令されれば、王の矜持と威厳はズタボロとなるので、実際は王位をよこせと言われた方が、嬉々として女を切り捨てられる王にとっては害がない。
しかし、別に女が王の無様な姿を望んでいるわけではないとわかったので、是とだけ頷いた。