死にゆく寵姫と宰相の厄日
ウォガールは王の血筋を何よりも重要視するくせに、制圧した部族や他国との姻戚関係により国を大きくしてきた歴史故か、例え女の身分が奴隷でも王の子ならば問題ないと、母親の血筋には頓着しない国柄だった。
そのため、たとえ素性の知れない寵姫が産んだ子どもでも、獅子王の第一子なのだから次の玉座に座るのは周知の事実。
そんな王位継承者の育児にも、寵姫は自分の子なら自分で育てると、自身が王宮にいる間は乳母を雇わないと明言している。
暗に乳母を雇うなら役立たずの母親は出ていくとも取れる意思表示に、一言の文句もなく王や女官長が頷いたのは想像するに容易いだろう。
王子の世話を人任せにしたのは戦の発端となった事件後に寝込んでいた間くらい。
敵の刃が王を掠めたという、本来ならあまりご婦人には聞かせたくない報せを宰相が持って行ったのはおやつ時、それでも寵姫は肩に頬を寄せて眠そうにしている王子をあやしていた。
掻い摘んで前線での一悶着について話せば、低い声の寵姫は表情を曇らせる。
「王が…………、そうですか、相手国の将軍補佐が勝負を捨てて賊の真似事すら厭わなくなったとは……」
「しかしご安心なされ、大陸に名を馳せた手練れとはいえ、我らが陛下には不意打ちで一太刀浴びせるのが精いっぱいでした。その傷も戦に支障はないそうです」
目に見えて気落ちする寵姫を励まそうと努めて明るく言えば、「……それは良かった。ですが前線に使いをやります」と、彼女はすっくと立ち上がり、話しの合間に眠ってしまった王子をベビーベッドに横たえて、その額に口づけを落とす。
無事と聞いても心配で、何かせずには居ても立っても居られないのだろう、微笑しい限りだと宰相は書斎への道を譲る。
「はい、ご寵姫殿から見舞いの手紙が届けば、王の傷も瞬く間に治りましょう」
普通なら口八丁なご機嫌取りに聞こえるが、あの王であればあながち嘘にもならないと、王宮で働く者の大部分が同意するだろう言葉だった。
しかし、「何を馬鹿なことを」と当の寵姫はどこ吹く風と一蹴する。
そして――、
「死んだ女は手紙など書けません」
「は?」
「見舞いではなく、戦争相手の間者のせいで、寵姫が死んだと報せるのです」
確固とした決意の籠る言葉たち。どれも何かの聞き間違えだと願いつつ、けれど宰相の頭は鼓膜をすり抜けた言葉の意味を正しく理解しようとする。
両耳を塞ぐようにこめかみを押さえた宰相は、遂にガタがきたかと自身の耳や頭を叱っていたが、悪知恵を働かせる魔女さながらの寵姫にぺろりと剥がされ、いとも簡単に現実逃避を阻まれた。
「使いは……そうですね、王と共に前線にいる近衛長官にでも宛てましょう。王は自分が怪我すれば寵姫が死ぬことをご存知ですから、わざわざ伝える必要もないですし、長官ならうまく隣国の中枢にまで噂を流してくれるでしょう」
「な、何故そのような噂を?」
「あちらの国は混乱するんじゃないかしら。例えば王が意気消沈したと思えば油断して戦略を乱すかもしれませんし、王が激昂すると思えば一時引くでしょう。王の女が死ねば傷を負った王が一息つくくらいの時間稼ぎにはなります」
嘘でも寵姫に変事有りと陛下に知れれば、怪我を癒すどころか呼吸も忘れて駆け戻って来かねず、そうなれば傷などここぞとばかりに開いてしまうだろう。
内緒で事を運ぶのに依存はない。
しかし、元々からして勝ち戦、それによって変わるのは精々が決着までにかかる時間の長さ。しかも下手をすると、逆転に繋がる恐れも捨てきれない。聡明な寵姫にしては少々考えなしにも思える。
「好機と捉えられたらどうするのです?」
「正攻法で押され姑息な手に走ったような、元々ウォガールと互角に戦うには何においても劣る国が、今更王に正面から喧嘩を挑んで勝てるとでも? そんなもの、飛んで火に入る冬の蚊程度のもの。全軍前進させようものなら、懐への門を開いたも同然。むしろこのままずるずると長引かせ、奇抜な策略に出られた方が手に余るかもしれません。――そもそも前科が戦の発端なのですから誰も嘘だなんて疑わないでしょ、使えるモノは使いましょう」
くすりと笑う寵姫の雰囲気はいつになく腹黒い。
「寵姫亡き後の獅子王に同情する国も出てくるでしょうし、今回の事はそれなりの事情があったのだから、傘下になくともウォガールに歯向かわなければ獅子王の逆鱗に触れないかもと匂わせられます」
「あくまで噂でしょうな……」
まるで終戦後も寵姫は死んだままのような口ぶりに、王の居ぬ間、国を預かる宰相の背をひやりとした滴が垂れる。
「いいえ、王の許可もありますし、この際ですから徹底的にやります。――息子と離れ離れになるのは忍びないですが、これもいつか来る別れとわかっていたこと。私は草葉の陰から見守るために、さっさとどこぞに消えましょう」
何の事はないと至って淡々と言うのに仰天し、背を仰け反らせ飛び上がった宰相は思わず寵姫の腰に取り縋る。
「そ、それはなりませんっ、陛下の居ぬ間にそのようなことになれば天地を裂くほど激怒されます」
確かな身分はなくとも、獅子王の寵愛を受ける次代の母に、普段から敬意を持って接している宰相は、その人となりと才覚も王宮の女主人に好ましいと一目置いている一人だ。
いつもならあり得ない不敬さと馴れ馴れしさで寵姫に触れるのを王が見れば、相手がこんな老いぼれだろうと極刑を言い渡す時の表情で枯れ枝のような腕を払い除けるだろう。
後で知れて切り落とされなければいいが、いや、それで済めば安いものだと指に力を込める。
むざむざ寵姫を出て行かせたとあっては、自分の首が胴から離れるだけで済むわけがないのだ。
陛下が戯れに暴虐を好む性格ではなく、ここ数年獅子王の残虐性がなりをひそめているとわかっていても、絶対君主としての冷徹な残酷さも紛れもない彼の一部であり、必要とあれば一瞬の躊躇もなく獅子王の顔になるのだから、怖いものは怖い。
代わりなどいくらでもきく国中の役人と、やっと見つけた王に常春を与える一輪の花。そのどちらに天秤が傾くかなど、もはやウォガール王宮の使用人心得に刻まれつつある不文律。
「そんなこと、死ぬ身の私が知ったことではありません。戦勝祝いとでもかこつけて、若い美女でも与えて機嫌を取ればよろしいのでは?」
一歩間違えれば王国転覆の兆しだと、雨粒に打たれるように汗を浮かべる宰相の眼前で、寵姫は無情にも身を翻してしがみ付く腕からすり抜ける。
「そんな――、どうかお考え直しをっ、ご寵姫殿っ…………」
哀訴嘆願しながら追いかける宰相など視界の端にも入れずに、無慈悲にも後ろ手にぱたんと閉められた扉が鼻先に息を吹きかける。
ああ、絶望が忍び寄る音とはかくも軽いものなのか。
閉口する扉で鼻くらい挟んでいれば、寵姫ももう少し聞き耳を持ってくれたかもしれないなどと詮無いことを考えながら、宰相は扉の前をうろうろと歩き回る。
まるで刻一刻と死刑台へと登っていく気分だ。
宰相がこれまでの人生を振り返り、これからの辛酸まみれの余生に散々頭を悩ませ終えた夕刻頃、寵姫は一通の手紙を手に書斎から出て来た。
「数日もあれば近衛長官まで届くでしょうから、来週、息子の誕生日の翌日に死ぬことにしました。それまでに申し送りと引き継ぎをします。まずは明日の朝一番に主な者たちを集めてください」
「あら、まだいたの?」と言う顔で事務的に指示を出した寵姫は、そのまま廊下へと出ていく。
その後ろで足元に纏わりつく仔犬よろしくきゃんきゃんと宰相が声を荒げてもまったく動じず、裏庭で顔馴染らしき早馬を見つけた寵姫は、獅子王の封蝋を貼り付け封をした手紙を渡してさっさと送り出してしまう。
既に寿命が尽きた気がする老体に、それでも鞭打ち若い急使を追いかける。
間一髪、息もからがら辿り着いた厩で、まさに横腹を蹴られそうになっている馬の前に飛び出した格好のまま、幽鬼のごとき風貌で寵姫の手紙を寄越せと宰相は厳命した。
けれど寵姫にどんな弱みを握られているのか、はたまたどんな恩があるのか知らないが、馬上の使いはすまなそうに首を横に振るばかり。それならどうかなるべく遠回りして手紙を届けてくれるようにと懇願するので精一杯だった。
一国の宰相ともあろう者が指をくわえて眺めていることもできず、半日足らずの間に、体の節々どころか胃から頭からどこもかしこも痛む立派な満身創痍。
それからは連日のように、日々やつれていく宰相同様、戦々恐々とする国の幹部や王宮の使用人たちが、息つく暇なく彼女を説得しようとあの手この手で挑んだが、寵姫の死が覆ることは終ぞなく、前線にいるはずの王の勅命をもって寵姫の死亡が確定した。
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宰相を閉めだした後一直線に机に向かった寵姫は、さっさと前線にいる近衛長官に事の次第を書いた手紙をしたためた。けれど、堪えきれずに落ちた涙によって、書き直しを余儀なくされた紙がゴミ箱に何枚捨てられたのかは誰も知らず、また別の話。




