王の決断と寵姫の覚悟
「本当に、戦に行くの?」
枕を背もたれにして上体を起こし、擦れた喉を震わせる寵姫は、なんとか王を留めようと手を伸ばしたようだが、ベッドの上に伸ばされていた肘が弱弱しく浮いただけ。
枕元に腰掛ける王は寵姫の冷たい右手を掬い上げると、太ももに引き寄せ、まるで温度を分け与えるかのごとく両手で包み込み、少しでも血が巡るようにと手の甲を擦る。
先日、寵姫は生後半年の息子と共に、あろうことか王宮から誘拐されかけた。
取り返しのつかない事態になりかけたなどとは知らず、柔らかな毛布にくるまれきょろきょろと父親譲りの碧い目を動かす気楽な息子は、隣で臥せる母親の機転で無傷で済んだが、悪あがきに出た狼藉者どもは寵姫だけでも連れ去ろうとした。
その際に嗅がされた薬が多すぎたのか体質に合わなかったのか、寵姫は数日間意識不明に陥り、無事喋れるまでに回復しても、未だ多くの筋肉は弛緩と麻痺に苛まれている。
夕闇に忍び足で紛れ、ぐったりする寵姫を担いで逃げる影を見つけた瞬間には、逆流した血が頭から吹き出そうなほどの怒りに襲われ、剣も携えずに二階の窓から飛び降りていた。
鬼も裸足で逃げ出すだろう形相の王はものの数秒で間合いを詰め、人相の判別が困難になるほどの剛拳でもって不届き者どもを殴り飛ばしたが、それでも未だ溜飲は下がらない。
隣国と結託して誘拐を手引きしたのは、寵姫の出産に耐え切れなかった国内貴族出身の妃とその親族。
立派過ぎる反逆罪だと当主もろとも刑場に並べれば、「隣国はウォガール王の血を絶やすためなら、どんな計画でも練るだろう」と呪いの言葉を残した。
最後の置き土産として吐いた嘘であれば鼻で嗤ってやるのだが、あながち冗談でもないと、寵姫が寝ている間の調査で判明したから暢気に笑ってなどいられない。
寵姫が寵姫となって半年と経たずに、王は「別に子が産まれずともこの女は手元に置いておこう」と思うくらいには彼女のことを気に入っていた。
それ故に王子が生まれた今となっては寵姫のいない生活など考えられない。
そんな唯一無二の存在を狙う者がいるならば、寵姫に手懐けられ行儀よく躾けられたと囁かれて久しい獅子も、その本性を目覚めされるというもの。
寵姫が全回復する前に離れるのは忍びないが、大義名分の整った今隣国を叩いておかなければ刃が向けられ続けるのは、この女と息子だ。
例え国一番の護衛を付け、終始自分の傍に置いたとしても、一瞬たりとも気が抜けないだろう。
いや、そんなことをすれば不穏分子を掃除し終えるよりも先に、窮屈さに嫌気を差した寵姫が王宮から出て行くのが先かもしれない。
それを回避するために諸悪の根源を潰し、二番煎じを試みる者に脅しをかけるというのは最善の策だ。
しかし庇護欲をそそる弱った寵姫に縋りつかれ、「戦争をするな」ではなく「戦争に行くな」と乞われば、王の決心は崩れずとも綱渡りをしているかのごとく気持ちは揺れる。
「……王?」
誘惑にしか思えない問いかけを依然と聞こえないフリでやり過ごそうとしたが、やはり寵姫には自分の意を知った上で送り出してもらおうと腹を括った王は、労わるように撫でた頭の輪郭に沿って指を滑らせ、緩やかなカーブを描いている毛先を弄る。
「王の寵姫に手を出したのだから、王の命を狙ったも同然、黙ってなどいられるわけがない。あの国は少々痛い目にあったところで、これからもちょっかいを出して来るだろう。今までも目障りだったが、ここらで潰しておくのがちょうどいい。そのためにも獅子王が前線に立つ必要がある。……いや、そのためにこそ生まれた獅子王だ。――この戦が終わるのは、あの国が歴史からその名を消した時」
「でも、追い込まれたら、なりふり構わず手を尽くすはず。いくらウォガールの獅子王でも、そう簡単には……」
小手先での説得はむしろ逆効果だろうとありのままを伝えて諭せば、体調が悪くとも寵姫はいつものように明快な切り替えしを披露する。
「そうだとしても、数年の辛抱だ。少々時間はかかるが戦って負けるはずがない。ウォガールの国力と獅子王の脅威を目の当たりにした後は、悪戯にじゃれつこうなどと考える国もなく、お前も息子もこの国で安泰に過ごせる」
心配そうな寵姫が力を込めたのか、掌中でほんの少し震えた指先をしっかりと握り返す。
寵姫が襲われるや隣国に宣戦布告を受けて立つと表明し、そのための出陣準備は寵姫が目覚める前に整え終っていた。
後は王が王宮を立つのみという状況では、どんなに後ろ髪を引かれても今更止めることは例え寵姫の頼みでもするつもりはない。
その意思の固さが伝わったのか、寵姫は小さく溜息を吐いた。
「……傷一つです」
「なに?」
「剣でも、矢でも、王に敵の切っ先が届いたなら、寵姫は死んでしまいます。――どうか、ご無事にお戻りください」
祈るように、瞳を隠した寵姫の頬に、王は唇を寄せた。
「そう珍しいことを言うな。早く帰りたくて功を急いてしまう」
癖になりそうなむず痒さに微笑しながら、まるで壊れ物を扱うように、けれど寵姫の存在を肌に刻み込むように、ぎゅっと抱きしめる。
子どもが生まれた後も王が寵姫に胸の内を言葉にして伝えたことはなく、寵姫も王に向かう特別な感情を形にしたことはない。けれど王はこのままの暮らしが続くのだろうとどこかで高を括っていた。
そして出がけに笑った寵姫の言葉を軽んじていたわけでも、忘れていたわけでもない。
――しかし、それから二度暦が新調された頃には、ウォガールは対戦国を崖っぷちにまで追い込み、劣勢を極めながら降伏すら許されない相手は恥も外聞もなく手段を選ばなくなる。
そんなある夜、王は真夜中の陣営に忍び込んできた刺客に怪我を負わされた。




