あやまちの夜-倉橋真澄&吉良咲月-
――咲月――
ざあざあと音が響いている。暗い室内。……私は何をしていたんだっけ。思い出すためにも、電気をつけなくちゃ。
そう思うのに、なぜか足は動かない。まるでカーペットに貼りついてしまったみたい。動け、動け。遠くでごおんごろごろと雷の落ちる音がする。……停電したんだっけ?
雨の日は昔から嫌いだった。外で遊べなかったから。私は、いや、私たちはいつも外で遊んでいた。だから雨の日はいつも気分が沈んでいた。それにあの日、柚希が川に落ちた日。あの日以来、私は雨の日が本当に嫌いになった。この雨音すらも聞いていたくないぐらいに。だからいつも布団に潜っているのだ。そうだ、布団だ。なのになんで私は今、こうして立っているんだっけ?
その時、雷が瞬いた。
部屋の中が白黒に照らされる。
いつも通りの部屋。
……違った。
私はそれを見て、
「……ぁ」
悲鳴をあげた。
悲鳴は誰に届くでもなく、水音に掻き消されていく。
――真澄――
咲月にとって慎が憧れの対象だったように、俺にとっても慎は憧れの存在だった。いや、もしかしたら咲月よりも俺の方がずっと心酔してたかもしれない。そう思ったことも多かった。
身近に自分よりも恐ろしくできのいいやつがいるというのはなかなか窮屈だ。それはいつだって比較されてしまうってことだから。俺も、咲月も。俺らはいつだって「慎くんを見習いなさい」と言われながら育ってきた。
……まぁ当然だよなぁ。テストをすれば学年一位、スポーツテストは運動部並み以上の記録を出すし、悩み事の相談を受けることもしょっちゅうで、慎を知る人は誰もがあいつを尊敬してた。
そんな慎に対して咲月は少しの恋しさを含んだそんな尊敬をしていたと俺は思っていたし、逆に俺は少しばかりの嫉妬や卑屈さを混ぜ込んだ感情を抱え込んでいた。
率直に言えば、咲月を取られると思っていたんだ。
慎が俺たちのことをどう思っていたかはよくわからない。
難しいことを考えるのが好きだったから、笑顔の中に変な感情を隠してたとしてもバカな俺たちにはわからなかったかもしれない。何にせよ俺と咲月の仲を取り持ってくれたり、俺たちは慎に感謝してもしきれない。
慎と幼馴染やっていてよかったことは数え切れないほどあるし――それはほとんどが宿題の助けを借りるとかの情けないことだった――それはきっと慎も同じだろうと思っている。
だから俺は、慎に辛いことがあったら何があっても力になろうと決めていた。そして、今がその時だ。
俺はそう思いながら顔を上げる。
いつも見慣れた慎の家は、まるで慎の心を映し出したかのようにどこか空虚だ。
俺はいつものように、逃げ出したくなりそうになる自分を叱りつけてチャイムを鳴らした。
「おはようございます、真澄さん」
しばらくして出てきたのは慎の妹の仁菜ちゃん。制服を着ているから、きっとこれから部活に行くんだろう。仁菜ちゃんが出かけた後だと俺は慎の家に入れなかったから、危なかったと胸をなでおろす。
「おはよう仁菜ちゃん。これから部活?」
「はい。真澄さんはお見舞いですか」
「あぁ」
「ありがとうございます。兄も喜ぶと思います」
お互いに決まりきったような会話。慎は本当に俺の来訪を喜んでいるのだろうかと、ふと思う。
……慎の考えてることなんて俺にはわからないけどな。
そう思いつつ、加波家の玄関に入る。仁菜ちゃんは逆に外へ。
「いってらっしゃい」
「いってきます。お留守番、お願いしますね」
「了解」
あまり音をたてないように2階に上がる。これまでに何度も来た加波家が、それでも今はこうして静かなのがあまり信じられなかった。
階段を上がって右の突き当り。慎の部屋の扉をノックする。
「慎ー、いるかー?」
返事はない。いつもの通りの日常に、俺は嘆息する。
あの嵐の夜の日以来、俺たち幼馴染の仲は亀裂が入ってしまったみたいだった。慎は暗い顔をしたままほとんど部屋を出てこないし、咲月はヒステリックに騒ぎ出すことが多くなって、おまけに慎を毛嫌いしているようだった。
その突然の変わりようが俺には理解できなかったし、だからか咲月は俺のことも遠ざけようとして、結局あの日以来一度として3人揃ったことはなかった。
……正直言って、あまりいい気分ではない。
(あれからもう四か月か……)
胸の中でつぶやいたそれは、重苦しさと一緒に溜息として吐き出された。
「そろそろ元気出せよ、慎」
コンコン、と扉を叩く。慎は起きているのだろうか。
俺はそっとドアノブを回した。扉は簡単に開いた。
何度も来たはずの慎の部屋は、しかし見違えるほどに丁寧に掃除がされていた。きっと机の裏であっても埃はないんだろうなと俺は思う。 慎はそういう人間だし、ここだけで過ごすには時間が余りすぎる。
そして慎は、ベッドの上で布団にくるまっていた。寝ているのか、すぅすぅという微かな寝息とともに布団が上下している。
(そういや、慎が寝てるのを見るのはいつ以来だったかな)
慎はどんな時でも他人のためになら自分の睡眠時間を削るようなやつだった。
俺はどうしてかそれ以上、慎をみていられなくなって部屋を出た。ドアがきぃぃと音を鳴らして閉まる。扉を背に、ずるずると座り込んだ。ただ慎の部屋に来ただけだというのに、ひどく疲れ切っていた。
――咲月――
あの日、あの河川敷で泣いていたあの時。真っ先に来てくれるのは真澄だと思ってた。
誰よりも一緒にいた真澄が、私のことを見つけてくれると信じていた。誰よりもそばにいる真澄が、まっさきに。
でもあの時、やってきたのは慎だった。慎だけじゃなかった。柚希もそう。
真澄が来たのは、何もかも終わってからだった。そう、何もかも――。
私はきゅうと唇をかみしめる。何度もそうしてきたからか、薄くなったそれから血が出るのはあっという間だった。慣れてしまった地の味に、どうしようもなく泣きたくなって。あの時柚希に握られた左手首を祈るように抱きしめた。
あの日と同じように、ざぁざぁと雨が降っていた。
いつもより強く痛む手首を握りしめて、私は蹲った。
……遠くで呼び鈴が鳴った音がした。
――真澄――
結局俺はそのまま慎に話しかけるでもなく、ただ漠然とした解決策を考えながら過ごした。慎と違ってポンコツな俺の頭はもちろん、どれだけ考えようと応えてはくれなかった。
天気が悪くなり出したのは、お昼を過ぎた頃だった。そろそろ帰ろうかとも思ったが、帰ろうにも俺は鍵をかけられない。仁菜ちゃんの帰りを待つしかなかった。
びゅうびゅうと強い風が吹き始めて、すぐに雨が降り出した。
外が大荒れになるのを片目に見ながら、俺はここ数ヶ月、ずっと押し殺してきた小さな感情がふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
到底誰かに言うことはできなかった。それは俺たちの関係をきっと歪めてしまうんじゃないかと思っていたから。
でも、こうして何もできずに苦しんでいる俺に対して、慎も咲月も、何も教えてくれることもなく引きこもっているのだ。
俺が抱えるこの感情は、怒りだった。
きっと誰に言ったところで、俺は馬鹿だと罵られるだろうと思った。でも、俺たち三人はずっと一緒だったし、お互いのことなら誰よりもよく知っていた。苦しいことがあれば、誰よりも先に相談する仲だったんだ。
……なのに、咲月も慎も自分の殻にばかり引きこもっている。
雨はあの日と同じように次第に強くなっていった。
あの日。
あの嵐の日に。
宝城は川に落ちて、死んだ。
そしてそれ以降、咲月も慎も部屋から出てこない。きっと三人の中で、何かがあったことまでは俺もわかっていた。
なんで、誰も俺に相談しないんだ。
なんで、なんでだよ。
握りしめた拳は真っ白になって、まるで俺たち三人の関係みたいだと、どうしてかそう思った。
どれほどの時間そうしていただろうか。
「あの……、これどうぞ」
俺は仁菜ちゃんの声で顔を上げた。いつの間にか帰ってきていたらしい仁菜ちゃんが手に持っていたのはホットココアのマグカップだ。
「あぁ、ありがとう」
右腕を出そうとして、その手ががちがちに固まっているのに気が付いた。ずっと握りっぱなしでうまく開きそうになかったから、仕方なく左手で受け取った。
また仁菜ちゃんにいい報告ができなかった悔しさと、それに気づいて選んでくれたであろうココアの甘さが胃の中でぐるぐると渦巻いて、俺の怒りごと吐き出してしまいたかった。
「……吐き出すかな」
「え?」
「いや、なんでもないよ。ちょっと咲月のとこにも行ってくる。またあとで戻ってくるよ」
俺は飲み干したココアのカップを仁菜ちゃんに預けると、ゆっくり立ち上がった。ずっと同じ態勢でいたからあちこちの関節がぎしぎしと軋む。右手をゆっくりとほどいて、そのまま自分の頬を叩いた。
「ココア、ありがとな」
あの日と同じ大雨の中、今度こそ3人の中を修復させるべく、俺は咲月の家に向かった。
呼び鈴を鳴らしてすぐに、咲月のお母さんが出迎えてくれた。
「いつもありがとうね、真澄クン。うちの子ったらずっと引きこもってばかりで……」
「いえ、こちらこそすみません……」
何に対して謝ったのかもわからない社交辞令をすませて、俺は2回の咲月の部屋に向かう。
咲月の部屋は閉め切られていて、あの日から俺は一度もこの中を見たことがなかった。お母さんの態度からしても、ほとんど出てくることはないんだろう。
俺は容赦なくドアを叩いた。
「おい、咲月! 中にいるんだろう!」
正直、俺は怒っていたのだと思う。どんよりとした空気が立ち込めているのに、耐えられなかったんだ。
だから俺は、その扉を開けてしまったんだ――。
――咲月――
そのあとすぐに、ダンダンダンと大きな音で階段を上ってくる音と激しいノックの音。
「おい、咲月! 中にいるんだろう!」
真澄の声に、私はぎゅうと蹲る。うるさい、うるさい、うるさい。
誰よりも私をわかっていないのに、誰よりも私をわかってるようにふるまって。
こんな真澄なんて、見たくなかった――。
「開けるぞ!」
怒鳴り声と共に、乱暴にドアが開かれた。肩を怒らせたように入ってきた彼は、あの日最後に見た彼よりもずっと大きく、恐ろしく見えて、私は思わず悲鳴をあげた。
「嫌ぁっ!」
「何が嫌なんだよ!」
ずかずかと私に近寄ってくる真澄はもう、あの日愛した幼馴染ではなかった。
「ほら、行くぞ!」
「い……、いやっ、離して!」
ぐいと私の腕を掴んだ真澄の力は思ったよりもずっと強くて、引きずられそうになった。だから、私は――。
――咲月――
ざあざあと音が響いている。暗い室内。……私は何をしていたんだっけ。思い出すためにも、電気をつけなくちゃ。
そう思うのに、なぜか足は動かない。まるでカーペットに貼りついてしまったみたい。動け、動け。遠くでごおんごろごろと雷の落ちる音がする。……停電したんだっけ?
雨の日は昔から嫌いだった。外で遊べなかったから。私は、いや、私たちはいつも外で遊んでいた。だから雨の日はいつも気分が沈んでいた。それにあの日、柚希が川に落ちた日。あの日以来、私は雨の日が本当に嫌いになった。この雨音すらも聞いていたくないぐらいに。だからいつも布団に潜っているのだ。そうだ、布団だ。なのになんで私は今、こうして立っているんだっけ?
その時、雷が瞬いた。
部屋の中が白黒に照らされる。
いつも通りの部屋。
……違った。
私は部屋に横たわっている、かつて真澄だったものを見て、
「……ぁ」
悲鳴をあげた。
悲鳴は誰に届くでもなく、水音に掻き消されていく。
「あ……、あぁ……」
私はそれを見ながら、ふらふらと歩いてたどり着いた机の上から、カッターナイフを取り出した。
私の記憶は、そこで途切れる。