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嵐の夜 -宝城柚希-

「……ッ、宝城か?! 悪ぃ一つだけ聞かせてくれ! そっちに咲月は行ってねぇか!?」


 電話口で彼がそう、切羽詰まった様子でがなるのを聞きながら、アタシはなんとなく猛烈に嫌な予感がしていた。

 それはそう、嵐が来る前に関節の付け根が痛むような――そんな不確かで、でも確実に来る悪夢の予兆のような。

「……来てないわ」

「……っそうか。もしそっちに行ったら引き止めておいてくれ! 悪いな!」

 ぶつっ、と切れた携帯電話は寂しそうにツーツーと鳴るだけで、アタシは彼の言葉をそれ以上聞くことはできなかった。だけどそれだけで、なにが起こったか把握するのは簡単だった。

 要するにまた喧嘩したのだ、あの二人は。それで咲月がこの雨の中を逃げ出して、倉橋が心当たりを当たっている、と。

「バッカじゃねーの」

 ――柚希、言葉づかい。

 ここにいないのに彼の言葉は明瞭だ。その口調は幾ばくかの調子の悪さをにじませてこそいたが。

 そう、アタシは慎の調子が悪いことに早くから気づいていた。悪い夢を見て眠れないんだと笑う彼が、ちらちらとアタシと咲月を見比べるのにも。気づかない倉橋は、きっと慎に助けを求めるだろう。そう考えた瞬間アタシは、さらに悪い予感に襲われた。

「咲月なら……、慎の家かアタシん家か、後は河原か」

 咲月が倉橋と喧嘩した時に行きそうな場所は、それぐらいしか思い当たらなかった。

「河原じゃなきゃいいけど……」

 不安に急き立てられるように、アタシはレインコートを羽織る。こんな時には悪い予感が当たるんだ。アタシはそれを痛いほど知っていた。物事はどうやっても、悪い方悪い方へと転がっていくことを。


『咲月へ ちょっと買い物に出かけるから、もし来たら勝手に入ってなさい。鍵はポストの中  柚希』


 書き置きをポストに貼り付けて、鍵も中に入れる。

 この雨の中で入れ違いだけは避けたかったから。河原までは慎の方が近いけれど、 できれば先に着きたかった。

 びゅうびゅうと強い雨が吹き付けてきて視界が悪かった。

 強い風に足を取られそうになることも一度や二度ではなかったけれど、咲月の安全を確認しなくては、慎の安全を確保しなくてはという強迫観念に突き動かされてアタシは足を進めていった。




「……宝城は……、……さ……」

 あれはいつの日だったか、珍しく敵意を剥きだしにしない椎名がそう話しかけてきたのは。

「なによ」

「もしあいつらを……、……慎を救うために自分の命が必要だったら……、……差し出せる?」

 ふざけた問い。でも、椎名の表情は決してふざけてなんかいなかった。

 アタシは。

「慎のためなら差し出せるわ」

 なんでもないことのようにそう言って、

「……でもね」

「……」

「咲月と倉橋を救うためには手を出さないわ。あくまでそれは慎を救うためだから」

 椎名は満足そうな、それでいて不満げな顔をしながらアタシの話を聞いている。彼にとっては、咲月も倉橋も、慎を害するだけの存在なのだ。

「そして、そんなことになる前に、慎の心は奪ってみせる」

 それが、アタシなりの決意だった。

「……そっか」

 頷く椎名に、アタシは逆に問いかける。

「でもなんでそんなこと聞くのよ」

「……俺は、いざ……ってときまで、……生きてられるか……わからないし」

「相変わらず不景気ね」

 胸元で服を握りしめる椎名を、できるだけ見ないようにしながらアタシはそう言った。

 ――慎の前では絶対に苦しまない。

 けれど、椎名の病弱さはそのところ急激に悪化していた。ともに行動することが多いとはいえ、素人目のアタシでも気づいたのだから、慎も気づかないはずがない。

 けれど。

「……気づかれないなら、……そっちの方がいい……」

 慎はこのところ、ずっと調子が悪そうで。

「……俺は」

 少しだけ訪れた沈黙を破ったのは椎名で。

「……あいつらを助けようとは思わないけど、……宝城に、任せる……」

「椎名、ちょっと何言って……!」

 あの時、夕日に隠れた彼の表情は、きっと笑っていたんだと思う。

 椎名はそのあとすぐに倒れて、その場はすぐに回復したものの寝込みがちになっていた。今日もきっと寝込んでいるのだろう。

 だから、いざとなった時に慎を救えるのは、今はアタシしかいないのだ。




 ごうごうと、氾濫する川の音が聞こえてくる。

 普段は散歩やジョギングで賑わうこの河原もあちこちに土嚢が積まれ、近づくのは危険なようだった。

 ここじゃなければいい、それならアタシも少しだけ安心して帰れる。

 ……だけど。クソッタレな神様はそんなアタシのちっぽけな願いすら、この手のひらから奪い去って行く。

 見えたのは、ずぶ濡れの青いコートだった。背の高さも、コートの色も。

 アタシが見間違えるわけがない。

 それは加波慎の後ろ姿に、間違いなかった。

 だけど、駆け寄ろうとしたアタシの足は、その直前で止まってしまう。何か様子が変だった。

 慎はいつもより俯いているように見えたし、座り込んでいる咲月の様子も変だった。二人とも、何かに落ち込んでいるような。

 ――慎が失敗したの?

 それはアタシにとって、最もなって欲しくない展開だった。慎の説得で動かなかったなら、彼より付き合いの深さも時間も違うアタシが、咲月を連れ戻れるとは思えなかった。

 ――本当にそれでいいの?

 アタシは、決めたんじゃなかったのか。慎のためなら何でもすると。だから、俯いている二人に向かって思いっきり声を出す!


「咲月! 慎!」


 ――そしてそれは、どうしようもない間違いだった。

 

 アタシの声が届いた瞬間、咲月が嬉しそうに顔を上げて、慎が怯えたようにこちらを振り返って、そして二人同時に凍りついた。

 アタシの知らないところで何があったのか、知りたい気持ちはあったけれど、それよりも早くこんなところから避難することが必要だった。

 アタシが駆け出そうとした瞬間、ゆらりと咲月が立ち上がった。その表情は幽鬼のように蒼白で、冷え切ったからか足元もおぼついていないのが遠目からでも明らかだった。

 そしてそのまま、彼女の躯が傾いでいく。増水した川へと向かって。

 

 

 

 あとはもう、ただ無我夢中だった。

 

 

 

 川に落ちる寸前に、二人の顔を見た。

 何が起こったのかまだ理解していない咲月と、

 悔しそうに、でもあきらめきれずに手を伸ばす慎と。

 

 アタシは、慎のためになれただろうか。

 

「自分ばかりを責めすぎないで、慎」

 その言葉が果たして、彼に届いたのかどうか。確認する間もなく、アタシの躯は水に飲み込まれていく。

 さらなる絶望が始まることなど、アタシには知りようがなかった。

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