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第二章 04 悪鬼

「紅葉……?」


 突如紅葉の手が添えられたことに驚いたのか、時雨の構えた手から力が抜ける。

 家の中に入って行った草壁も、自身に向けられた殺気が一瞬だけ一気に弱まったことを不思議に思ったのか、廊下で一度立ち止まり、こちらを振り向いて眺めていた。


「駄目だよ」

「離せ。あいつは俺の師を祓った人間だ。報いは受けるべきだろう」

「違う! ……憎いのは当たり前。でもここで手を出したら、時雨もあの人と同じになっちゃうよ。……そんなの、絶対駄目」


 紅葉の静かな説得を聞き、時雨は小さく鼻で嗤った。


「綺麗事だな。お前は自分の師が殺されでもしたとき、簡単に殺した相手を許せるのか?」


 答えを出すまでに一秒もかからない。そんなことができるはずもない。孤立していた紅葉を受け入れ、我が弟子として、そして我が子のように愛情を注いでくれた。彼と出会っていなければ、今の紅葉はいないのだ。


「……きっと許せない。けど、憎しみから生まれるものなんて何もない。それに、時雨にはあの人を殺せないよ」

「何故そんなことが言える」

「時雨は優しい妖怪だから」


 紅葉が言い切ると、時雨は大きく瞬きをした。


「お前に何が分かる。ほんの少しの時間、行動を共にしただけだろう」

「うん、まだ分からないことの方が多いよ。でも、時雨が優しいことくらい、私にだってちゃんと伝わってる」


 震える声を必死に抑えようと喉に力を込める。極力、廊下の奥からの草壁の視線には気づかないふりをした。今は周りのことなど考えていられない。目の前の妖怪を、愚か者にしないために。紅葉はただ、時雨の瞳をじっと見つめていた。

 紅葉は手を重ねたまま、突き出されていた時雨の手を下ろした。彼は全く抵抗しなかった。


「こんなところで手を汚したりしないで。あんな人のために、時雨が手を下す必要なんてない」

「……しかし、生かしておくのも許せない。あいつのせいで、俺は、たった一つの拠り所を失ったんだ。かつて荒くれ者だった俺を見放さないでいてくれた、大切な、大切な場所だったんだ」


 時雨の顔が歪んだ。ぎゅっと力が込められた目尻には僅かに皺が寄り、瞳が潤んでいる。食いしばった歯の隙間から息が漏れる。憎しみと、自分に対しての悔しさと、ただただ純粋な悲しみが込められたものだった。項垂れたような彼の姿からは、心なしか、草壁に対する殺気が静まりつつあった。

 それを感じ取ってか否か、紅葉は一度大きく息を吸い込み、最後の説得であるというように言い放つ。


「帰ろう。ここで戦って、もしもその恨みを晴らしたとしても、時雨の師匠は喜ばない」


 時雨の目が一瞬見開かれた。

 しばしの沈黙の空間の中、ずっと廊下からこちらを気怠そうに眺めていた草壁が、再び、ゆっくりと玄関へ姿を現した。

 それを待っていたかのように、俯きながら時雨が彼に問う。


「……師は、もうここにはいないのか?」

「さあな。祓った妖怪のことなんていちいち覚えていられない」

「……やはり、最低な人間だ」

「何とでも言うがいいさ。何だったら、お前をその師のもとへ送ったっていいんだぞ?」


 草壁は微かに嗤い、着物の中に手を忍ばせたかと思うと、そこから取り出した一枚の紙切れを時雨に向かって突き出した。

 それは一見、帰し屋が妖怪を町に帰すときに使う札と大差ないように見える。しかし、書かれている崩れた文字が異なっていた。妖怪を町に帰すどころではない。ただ彼らを痛め付け、最悪祓ってしまう、紅葉たちのそれとは真逆の札だ。

 草壁が本気ではないと頭では何となく分かってはいるのだが、紅葉は反射的に背の後ろへ時雨を押し込み、両手を広げて立っていた。見ないようにしていた男の目を、射抜くような真っ直ぐな視線で見つめる。


「……時雨は、私が責任持って町に帰します。手を出さないでください」


 若干の怒りを滲ませながらの紅葉の発言に、草壁は満足げに札を懐へ戻した。

 紅葉はすぐに意識を時雨に切替え、彼の袖を弱い力で引いた。


「……分かっている。もういい、お前に従おう」

「ありがとう」


 紅葉は草壁に向かって軽く一礼すると、時雨の手をとってその場を離れた。この場所から一刻も早く、時雨を引き離したかった。こんな場所に、こんな人間に、彼に関わりを持ってほしくはなかったのだ。

 一方、その姿を見送るように玄関に立ち尽くしていた草壁の後ろには、いつの間にか人影があった。


「帰し屋の娘ですか。好機だったのでは?」

「……そうだな。しかし、今はこの件を口にできる状況ではなかった。情けない主だと笑うか?」

「主様を笑うなどおこがましい。私たちにとって、貴方が絶対。貴方の選択に口を挟む者などいないでしょう」


 静かな言葉に、草壁の口元は歪ながらに緩んだ。


「確かに、今はそうだな。……胡蝶、結界を張り直しておいてくれ」

「……承知」




 紅葉と時雨は、しばらく無言のまま歩き続けた。今来た道を振り返ることもなく、ただひたすら、草壁の家から離れるために。憎しみの根源から時雨を遠ざけるために。

 気づくと目の前には、昼過ぎに立ち寄ったあの社が現れた。どうやら時雨の手を引きながら無我夢中で歩いているうちに、正しい道を外れてしまったらしい。それでも一応あの家から離れたと分かり、紅葉は足を止めた。


「道を外れたときに、どこに行くのかと思ったぞ」

「外れたときに言ってよ」

「何度か名を呼んだが聞こえていなかったようだな」


 二人は壊れかけた床に腰かけた。

 再び訪れる沈黙。時間が止まったかのように思わせるその沈黙を破ったのは時雨だった。


「……すまなかったな」

「いや……私も、無理に連れ帰ってごめん。私なんかが踏み込むべきじゃなかったのかもしれない」

「そんなことはない。お前が居て良かった。草壁が本気でなかったとしても、下手をすれば祓われていたかもしれない。……師を祓った張本人の姿をこの目に焼き付けることができただけでも、十分だ」


 知らぬ間に、時雨が背負っていた殺気はすっかり消え失せていた。

 彼はふっと顔を上げ、静かに目を閉じた。

 

「お前の言った通りかもしれないな。憎しみからは何も生まれない。我が師もそんなことを言っていた気がする」

「……良い師匠を持ったんだね」


 目を丸くさせ、紅葉の方へ視線を向ける。きょとんとした表情をしていたが、彼はすぐに頬を緩ませて頷いた。その顔が妙に幼く見えてしまい、紅葉も思わず声を漏らして笑う。

 こんな顔をする妖怪が、邪悪なわけがない。紅葉は時雨にそう告げた。草壁に対して殺気を放っていたことは事実だが、実際に殺すか傷つけるかするつもりだったのかは分からない。彼はただ、自分の居場所が失われた悲しみに沈んでしまっただけなのだ。その悲しみや恨みを晴らすために、祓い屋を見つけ出すことを、自身の生き続ける理由としてしまっただけなのだろう。


「……本当に、勘違いが激しい人間だな」

「あながち間違ってはいないと思うんだけどなあ。時雨の手、妖怪なのにあったかいし。」

「それは関係ないだろう」

「ま、とにかくね、私は時雨のこと、すごく優しい妖怪だと思ってるよ」


 勝手にしろ、と時雨は顔を逸らした。悪態をつきながらも、彼は微笑んでいるように見えた。

 穏やかな空間の中に二人は身を沈めた。お互い言葉を発していないものの、その沈黙に気まずいなどと思ったりはしなかった。むしろその反対で、今はこの沈黙が何とも居心地の良いものだと考えていた。

 時間は分からないが、恐らくもう授業は終わっている頃だろうか。

 歩き回って疲れきり重くなった体のせいで、僅かながら眠気を感じる。うつらうつらとしながら隣を見ると、時雨もどこかぼうっとしていた。しかし、そんな自分の状態に気づいたのか、彼は一度肩を震わせると、両手で体を押し上げ、地に飛び降りた。


「時雨?」

「もう、帰らなくてはな。すっかり眠くなってしまった」

「あ……そっか、眠が進行してるんだね」


 時雨は紅葉の真正面に立ち、胸元に手を当てた。


「もう復讐などする気にもならない。そんなことをしても、祓われた師が戻って来てくれるわけでもない。けれど、きっと俺が師を忘れさえしなければ、彼の存在が消えることはないはずだ。……ならば俺は生きよう」


 目を細め、笑顔でそう告げる。出会った当初の殺気は、その姿からは微塵も感じられなかった。

 眩しいほどの微笑みを目に焼き付けながら、紅葉は鞄を引き寄せ、ポケットから札を一枚抜き取った。

 時雨に倣って飛び降り、時雨の胸元にその札を貼り付ける。間もなくして、人間でいう心臓の辺りが、ぽうっと温かい光に包まれた。ぐにゃりと歪んだ空間が紅葉の手を引き込み、手を彷徨わせる暇もなく、すぐに冷たい感触が指先を掠める。

 手を体から引き抜くと、赤く燃える渦が描かれた珠が掌を転がった。


「じゃあ、帰していいんだね?」

「ああ、構わん」

「本当に、最後まで無愛想だなあ。それが時雨なんだろうけど」

「余計なお世話だ」


 紅葉はくすっと笑い、赤く輝く妖珠を両手で包み込む。少々力を込めると、それは簡単に弾け、そして跡形もなく消滅した。


「やっと……帰ることができるんだな」


 安心したように時雨は自分の体を見つめていた。

 足元から徐々にその姿が薄くなる。向こう側の景色がゆっくりと色を濃くしていった。

 紅葉はこの瞬間がたまらなく嫌いだった。もちろん、妖怪を送り帰すのが嫌なわけではない。それは彼らにとって幸せなことであるだろうからだ。しかし、深い思い入れがあろうとなかろうと、一度出会った妖怪には情が湧く。そんな彼らと別れるこのひと時が、紅葉は苦手だった。


「……なあ、紅葉」


 消えかかった時雨が突然口を開いた。


「こんなことを聞くのは変かもしれないが……お前は、妖怪が嫌いか?」


 尋ねられ、紅葉は考えることもなく口を開いた。迷いはしない。返事はただ一つだ。


「好きだよ、妖怪。嫌いになる理由なんかないもん」

「……そうか。それを聞くことができて良かった」


 時雨は安堵したように微笑みを返した。




 それから、気づくと紅葉の前にいた妖怪は姿を消していた。

 呆然としたまま、すっかり重くなり、痛みすら生じている体が地面に崩れ落ちる。

 思えば、半日も経たないうちに色々なことがありすぎた。頭の中もショートしそうなほどに記憶が詰め込まれていて、とにかく一件落着であるということしか分からない。ぼうっとした頭の中に残っているのは、別れ際の時雨の笑顔だった。

 祓い屋のことを敵だとまでは思ってはいなかった。彼らにとっては祓うことが仕事。彼らは彼らで、やるべきことをしているだけであると理解していた。しかし、今日初めて、その存在を心のどこかで軽蔑してしまった。

 ゆっくり立ち上がり、社の床に投げ出されたままの鞄を手繰り寄せる。

 帰路につけるのか危うく思われたが、はっきりしない意識のまま、鉛のような足を引き摺るようにして歩いて行った。




 古屋敷家の玄関を開け、理人はちょうど台所から姿を現したそよかに出くわした。


「理人くん、おかえりなさい」

「ただいま。紅葉帰ってる? 急に休むってメール来たからさ」

「さっき帰ってきたみたいですけど……すごく疲れてるみたいでしたから、今は構わないであげた方がいいかもしれません」

「……そっか。了解」


 真っ暗な和室。とりあえずといった風に敷かれた布団の上に、紅葉はぐったりと倒れ込んでいた。

 帰宅してすぐ死んだように眠ったものの、紅葉が無事に帰ることができたのは、彼女の耳に残っていた声のお陰なのだろう。

 その温かな声は、紛れもない時雨のものだった。姿が見えなくなるその直前、最後に彼が紅葉に告げた短い言葉。それは穏やかに眠る紅葉を包むように、いつまでもそこに残っていた。


「ありがとう、紅葉」


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