第二章 03 探し求めたもの
「……突然すみませんでした。失礼します」
「また違ったね」
「そうだな。どいつも俺の記憶にある顔と違う。けれど、確かにこの近くにいるはずなんだ」
休憩を終えてから大分時は経っていた。
握りしめた小さなメモ帳は、既にたくさんのバツ印で埋め尽くされている。バツが重ねられていない家は、もう残り三件となった。
「いくら祓い屋として活動してない家があるっていっても、これだけ祓い屋って名乗る人がいたら、妖怪は住みにくいだろうね」
「……元々、妖怪はこの世界にいるべきではないのだろう」
「そうかもしれないけど……祓う必要ってどこにあるんだろう?」
「さあな。祓い屋が皆、お前たちのような帰し屋になれば、妖怪も平和に過ごせるのかもしれない。が、世の中そう上手くはできていないようだ」
時雨は目を細めて遠くの方を見つめた。
誰かを思い慕っているようなその視線は、見ているだけで胸が締め付けられそうになる。紅葉は視線に潜む心情が気になって仕方がなかったが、なるべく踏み込まないようにそっと顔を背けた。
「なあ、紅葉」
「へ?」
嫌がる様子も躊躇う様子も、そしてあの見下した雰囲気もなく、初めて時雨に名前を呼ばれた。あまりに突然のことに、拍子抜けした間抜けな声を上げてしまう。
「お前は俺を町に帰すことが仕事なんだよな?」
「そ、そうだけど?」
「……だったら、俺がこれからしようとしていることに対して口出しするか?」
紅葉は時雨の言っている意味がいまいち理解できていなかった。単なる帰し屋ならば邪魔をするな、とでも言いたいのだろうが、目の前の妖怪が今後することというのが全く予想できない。それは少なくとも、善と呼べるものではないはずだ。
「……時雨が何をするのかによる。何をするつもり?」
「答えるつもりはない。だが、できることなら、俺が何をしたとしても止めないでほしい」
冷静でとても静かなで、捉えようによっては穏やかな口調と声色。
しかしその声とは相反して、彼から発せられる殺気はどんどんその憎しみを燃え上がらせていた。
一瞬紅葉の体がびくりと震えるが、爆発しそうなほどに燃え上がるその殺気は、明らかに紅葉に向けられたものではなかった。
その殺気をなるべく感じ取らないように意識しながら、メモ帳に刻まれた手描きの地図に指を這わせる。次に目的地としていた祓い屋の家は、木々が生い茂る、薄暗く狭い地面を辿った先に、ひっそりと建っていた。
目の前の開かれた門の横には、『草壁』と書かれた大きな表札が掲げられている。
「草壁さん、か。随分住みにくい場所だなあ……これじゃあ気軽に買い物にも行けないよ」
紅葉がそう呟くと同時に、少し後ろに佇んでいた時雨の殺気が、突然爆発するように燃え盛った。嫌でも感じ取ってしまうその気配に、紅葉は勢い良く後ろを振り向く。
「し、時雨……?」
「ここだ、ここにいる。俺の探している祓い屋が、この家にいる。……あの時と同じ気配だ。間違いない」
祓い屋に会ったことで彼が何をしでかすか分からない。教えてくれるのなら別だが、今の彼にそれを求めても、きっと無駄なことだろう。ならば最後まで目的を達成させず、諦めさせて町へ送れないだろうか、と紅葉は密かに考えていた。その計画は、残り三件というところであっけなく崩れ去ってしまった。
とりあえず、門の周辺にインターホンと呼べるものがないため、玄関まで行こうと門の内側に一歩踏み込む。
そのときだった。
開かれた門の間に、青白い閃光が走る。
「――ッ!?」
慌てて避けようと体を捻らせるが、圧倒的に閃光が体に迫るスピードの方が上だ。
誰かが自分の名を呼ぶ声と、突如受けた背中への衝撃と共に、紅葉の視界は黒で塗り潰された。
いつからそうしていたのだろう。紅葉は仰向けに寝転がったまま、上空で揺れる木の葉と青空を瞳に映していた。
ゆっくりと起き上ると、背中と頭に若干の痛みが残っていたが、それ以外に特に異常はない。どうやら掠った閃光と地に投げ出された衝撃で、僅かな時間意識を失っていたようだ。
「あ……時雨ッ!?」
辺りを見回すと、門の傍で、肩を抑えながら横たわる時雨の姿が映った。微かにだが、痛みに呻くような声が漏れている。
よく目を凝らすと、抑える指の隙間や背中から、煙のような、はたまた湯気のようなものが立ち上っていた。
「時雨、時雨! 大丈夫……!?」
「……ッは、ぐう……一応は……」
「ごめんね……私のこと、庇ってくれたんだね」
「庇ってなんかいない。勘違いも甚だしいな」
苦しんでいるにも関わらず、彼の態度は相変わらずだった。憎たらしいと思っていたはずの態度だったが、今だけは、紅葉に安堵をもたらしてくれる。
時雨曰く、先ほどの青白い閃光は、草壁家に張られた結界らしい。本来ならば人間には反応しないものなのだが、近くにいた時雨の気配と異常なまでの殺気に反応してしまったらしく、紅葉が巻き込まれる形となってしまったようだ。
「その体で大丈夫なの?」
「……平気だと言っただろう。この程度大したことはない。幸いなことに門の内側に来れたわけだし。ま、“眠”には近づいてしまっただろうがな」
“眠”というのは、人間界に長く留まり続けることによって発症する、所謂妖怪にとっての病気のようなものである。とは言ったものの、“死期の合図”のようなものだ。妖怪にとっては生きる源である町に帰れば、けろっと治ってしまうのだが、放っておいたまま人間界に居座ると、間もなく妖怪としての死を迎えてしまう。静かにその姿形が消滅してしまうのだ。
「絶対、死なせたりなんかしないよ」
紅葉が時雨の手を握ると、彼は嫌がる素振りも見せずにゆっくりと立ち上がった。焼けたような肩と背中が痛々しいが、本人の言うように平気らしい。
玄関前で時雨の体を軽く支えつつ、インターホンを鳴らす。居留守でも決め込んでいるのか、なかなか人の出てくる気配がしない。
もう一度インターホンに指を伸ばしかけると、急に扉が音を立てて開いた。
着物を纏った男性が、そこに現れた。
「侵入を許したか。やはり足りないな」
挨拶でもなければ誰なのか尋ねるものでもない、独り言の第一声。
紅葉の想像よりも遙かに若い。二十代も後半を迎えたばかりといったところだろうか。顔は穏やかなのだが、声質がどこか尖っている。
「こ、こんにちは。私、古屋敷家の帰し屋で、代永紅葉といいます」
「古屋敷……あぁ、稜冶さんとこの。こんな邪悪な妖怪を連れて、一体何の用だ」
紅葉はちら、と時雨へ視線を移した。用事があるのは彼であって紅葉ではないのだから、当然の行動である。
「えっと……こちらの妖……時雨が、貴方を探していて」
「ほう、何の用だ。悪鬼」
「悪鬼?」
「気が付かなかったのか? こいつは正真正銘、悪鬼という妖怪だ、お嬢さん」
確認をとるように再び時雨へと視線を移すが、時雨はふいっと顔を背けた。
別に隠したかったわけではないのだろう。しかし、あまり知られたくはなかったのかもしれない。悪鬼という名前を嫌っているというわけでもないだろうが、その名前に良い印象を抱く者などいないはずだから。
時雨は殺気を絶やすことなく、静かに口を開いた。
「紅葉。巻き込んで悪かった。俺はこいつが言うように、悪鬼という妖怪だ」
正直、時雨が何の妖怪だったとしても紅葉にはどうでもよかった。悪鬼だろうが、もっと、ずっと卑劣で邪悪な妖怪だろうが、時雨は時雨に違いないからだ。
「で、何の用だ」
祓い屋の男は、迷惑そうな顔で問う。
一方問われた時雨はすぐには答えずに、自らの体を支える紅葉の手をさりげなく払い退けた。
「手を出すなよ」
「……え、ちょ、ちょっと……時雨、何をする気なの?」
「俺は」
最高潮と呼べるほどに殺気が燃え上がるのを感じる。許されるならばここから離れて、見て見ぬふりをしたい。そんな弱さに反発しているのか、それとも嘲笑っているのか、紅葉の足はぴくりとも動かなかった。
時雨はまっすぐに祓い屋の目を睨みつけながら言い放った。
「俺、この男に復讐するために存在している……!」
躊躇いもなく響き渡ったその叫びに、少し後ろに立つ紅葉の体は押さえ付けられているように硬直していた。
「……ふ、ふく、しゅう?」
「そうだ。俺はこいつに復讐するために来た。ずっと、こいつを捜していたんだ」
「な、なんでそんなこと」
時雨は複雑そうに一瞬眉を顰めるが、意を決したように、草壁を睨んだまま話し始めた。
「……俺の師は、この男に祓われた。ただ“そこにいた”だけの師を、こいつは、俺の目の前で祓ったんだ」
「え……?」
「師は何もしていない。人間を襲うこともしていないし、他の悪事だって、何も働いていない。それなのに、こいつは、嗤いながら師を……ッ!!」
血が滲みそうなほどにギリギリと拳に力を込める。鋭く伸びた爪が、皮膚に食い込んでいるのが目視できた。
呆然とただ立ち尽くすだけの紅葉にも、頭がおかしくなるほどの殺気と憎悪、そして過去の悲しみが感じ取れた。
「お前に話したら、きっと止められるだろうと思った」
「……だから、何も話してくれなかったんだね」
時雨は小さく頷くと、右手を男の顔の前にかざした。
「ふん、その手で俺を殺すか。悪鬼というのは、苦しみを与えずに殺すということはできないだろう。元は病を人にもたらす妖怪だからな」
「……すぐに死んでもらおうなんて思っていないさ。お前には長く苦しんでもらわなければ、俺の気が済まない」
時雨はそう言い放ってにやりと嗤った。それにつられるかのように、気だるそうにしながら、草壁も僅かに口角を上げる。
この二人は本気で殺し合う気なのだろうか。ならば今すぐにでも止めなければならない。紅葉は必死に思考を働かせながら、やっとの思いで、鉛のように重くなってしまった足を引きずった。
やめるよう、声を振り絞ろうとした、そのときだ。
「主様」
男の向こう側、つまり草壁の家の中から声が聞こえた。声の主の姿は見えないが、それはハスキーな声をした女性のようだ。
“主様”と呼ばれた祓い屋の男は、時雨から視線を外さないままそれに答える。
「何だ」
「……申し訳ありません、客人がいたとも知らずに。一度下がります」
「いい。そのまま続けてくれ」
「……今、宮園の者から連絡がありました。明日にでも一度、封珠を回収に来るそうです」
そう告げられると、草壁は小さく舌打ちをした。
「こっちは忙しいってのに……ハイエナもいいとこだな。…胡蝶、明日は俺に付け。それから、他の式には例の件を頼む」
「承知しました」
「……ああ、それから客人がお帰りになった後、結界の張り直しを手伝ってくれ」
「やはり足りませんか」
「仕方のないことだ。頼むぞ」
胡蝶というらしい女性は短く返答すると、廊下の奥に姿を消した。その背を横目で見送り、草壁は溜息に近いものを深く吐くと、再び気だるそうに時雨を見つめる。
「そういうわけだ。すまないがお前の相手をする場合ではなくなった」
「なっ!」
「……見逃してやる。俺の気が変わらないうちにさっさと帰れ。ちょうど帰し屋のお嬢さんもいることだしな」
「ちょ、ちょっと待て!! 俺の話はまだ終わっていない!!」
そう抗議する妖怪の声をまるっきり無視し、くるりと家の中へ背を向け、戸惑う時雨を余所に家の中へと入って行く。
一度唸り声を上げ、その背中に向かって罵倒とも呼べる言葉を浴びせると、強行突破でもしようというのか、時雨は伸ばした右手に力を込めた。
「時雨!」
気づくと紅葉は、その右手にそっと自分の手を重ねていた。