第二章 01 憎しみの気配
「そういえば、昨日大丈夫だった?」
昼休み。開放感溢れる屋上。
弁当の包みに手を掛ける紅葉の横で、膝を抱えて座る五十鈴がそう尋ねてきた。
「何が?」
「妖怪だよ。いたんでしょ?」
あぁ、と軽く返事をしながら包みを解く。桃色の弁当箱がその色を覗かせた。
五十鈴の言う妖怪とは、十中八九、樹芝という名を持った樹木子のことなのだろう。
「まあ、ちょっと危なかったような気もするけど、大丈夫だったよ。今回は妖怪が自分で我に返ってくれたから良かったかな」
「……そっか。良かったね」
五十鈴が小さく笑って膝に顔を埋めると、ちょうどそのとき、重い音を立てて、屋上の扉が開いた。
「よっす」
「理人、また逃げて来たの?」
「まあな。ていうか、もうそれ聞かなくても分かるだろ」
うんざりした様子で、理人は紅葉の横に腰を落ち着かせた。
どうやらこの時間は理人にとって苦痛らしい。彼に恋心やら憧れやらを抱くキャピキャピとした女子生徒たちが、一緒に昼食の時間を楽しもうと声をかけてくるらしいからだ。
それが元で教室に居づらくなった理人が、毎日のように屋上にいる紅葉と五十鈴のところに逃げてくることは少なくなかった。いや、寧ろ今ではほぼ毎日のように逃げて来ている。
「理人くん、ほんと大変そうだね」
「もう慣れた……って言えればいいけどな。さすがに疲れるわ。九里は? また弁当持ってきてないのかよ」
「お腹空かないしね」
五十鈴は少々困ったように、眉を八の字に曲げて笑った。
紅葉が彼女と昼食時間を過ごすようになったのは、一年生の、ちょうど夏に入るか否かという時期だ。その頃から既に、五十鈴は弁当というものを持って来ておらず、購買で食べ物を入手することもなかった。
ふと、つい数秒前まで笑顔だった五十鈴が、抱えた膝の上に顎を乗せ、静かに目を伏せていた。
「どうかしたの?」
「……またちょっと、近くにいるかもしれないね、妖怪」
「まじかよ」
「あ、えっと、あくまで勘ね」
そう言って再び五十鈴は笑顔を見せるが、彼女がこんな風に言うときには、大体本当に妖怪がいるものだ。
「面倒なことにならなきゃいいけど」
「紅葉と理人くんならきっと大丈夫だよ。ただ、今度のは、一筋縄ではいかないかもしれないね。上手く言い表せないけど……ある意味すごい気配だよ」
そう言ったきり、それ以降五十鈴は妖怪については口を閉ざす。妖怪のことなどなかったかのように、何が楽しいのか二人の食事風景をただ眺めていた。
照りつける太陽の下、昼休みはあっさりと終わりを告げる。
五十鈴が早々に帰路につき、残された二人は並んで帰り道を歩いていた。
「九里が言ってた妖怪、本当にいると思うか?」
「どうなんだろうね。でも、五十鈴の言ってることって大抵当たってるから……」
そうなんだよな、と小さく呟いて、理人は溜息を吐く。
二人は今、ほとんど妖怪の気配を感じていない。周りに妖怪がいないわけではないと思うが、変化したり身を隠したりしていて、気配を感じにくくさせているものが多いようだ。
それもこれも、全ては祓い屋から身を守るためなのだろう。
もうすぐ古屋敷家に到着する、という所で、紅葉の足が止まる。
「どうかしたか?」
「……理人、あの人何かおかしくない?」
小声でそう告げ、視線だけでその“おかしなもの”を伝えた。
前方にいる後ろ姿しか認識できないそれは、和服に、僅かに薄めの赤色をした髪。見た目だけなら人間であったとしてもおかしくはない。けれど、その気配からは、確かに妖怪のものを感じ取ることができる。
「五十鈴が言ってた、一筋縄じゃいかないって、あの人かな」
「可能性はあるな。妖怪の気配より、憎悪っつか……殺気みたいなものが勝ってる。何の妖怪か分かるか?」
「ここからじゃなんとも……」
二人は物陰に身を潜めつつ、少し離れた所からその後ろ姿を監視していた。
前方にいたその姿は、何度かきょろきょろと辺りを見渡し、ゆっくりとした足取りで曲がり角を曲がった。
「行くぞ」
「うん」
鞄のポケットから制服の袖口に札を移動させ、隠し持つようにしながらその後を追い、同じように角を曲がる。
しかし、そこに和服と赤髪の姿はなく、ただ真っ直ぐな道が開けている。
その代わりに、天に向かって伸びる大きな木の葉が、これでもかというほどにガサガサと音を立てた。その音も一瞬で終わりを迎え、何枚かの葉が地面に舞い落ちる。
「……逃げられたか」
「あの妖怪、もしかして私たちに気づいてた?」
「さあな。 逃げたってことは、そうなのかもな」
ずば抜けた身体能力を持つ者を追うのはやはり難しく、二人は何事もなかったかのように、自分たちの住む我が家へと足を進めた。穏やかな気配を醸し出さず、且つ姿を見失ってしまった妖怪は、無理に追い駆けるな、と、師匠である稜冶に言われているのだ。
小さな門を潜り、玄関の扉に手を掛けると、何も力を加えていないのにも関わらずその扉が開いた。
思わず肩を震わせ小さな悲鳴を漏らしかけるが、不機嫌そうな顔をしてこちらを見下ろす稜冶の姿を確認するなり、安堵の息を吐いた。
「あ……ああ、お前らか。妖怪かと思った」
「え?」
「ついさっき妙にでかい力を感じたんだ。だからてっきり、ここを襲いにでも来たのかと思って」
「……多分だけど、その妖怪ならもう逃げたと思うよ」
「は? ……とりあえず中入れ。そんでもって詳しく聞かせろ」
稜冶は親指を立てて、二人を家の中へと招き入れた。
「―――と、いうわけなんだけど」
二人はそれぞれ部屋着に着替え、普段、無断で入ることを禁じられている稜冶の部屋に招かれていた。
憎悪と殺気に満ちた、恐らく妖怪なのであろうあの姿のことを稜冶に話している間、彼は古く汚れた本をパラパラと捲りながら曖昧に相槌を打っていた。
「着物姿に薄赤の髪、それから憎しみに塗れた気配……。他に何か特徴は?」
「え、えぇっと……後ろ姿だけだったから他は……」
「特にこれといって妖怪らしい特徴はなかったと思います」
言葉に詰まる紅葉をフォローするように、隣の理人がきっぱりとそう告げる。
一方の稜冶は小さく唸りながら本のページを捲り続ける。紅葉と理人が実際に手に取って見たことはあまりないのだが、確か妖怪についての稜冶のメモがびっしりと書かれていたような気がする。
ほんの数秒沈黙が流れると、障子の向こう側から澄んだ声が響く。
「稜冶さん、失礼します」
「……そよかか。入っていいぞ」
障子がゆっくりと滑るように開かれ、盆の上に湯飲みと二つのコップを乗せたそよかが、部屋の畳に足を踏み入れる。
「お茶淹れてきました」
「おう、ありがとう」
「紅葉ちゃんと理人くんもどうぞ。ジュースで良かったですか?」
「うん! ありがとう、そよちゃん」
「サンキュ」
にこりと柔らかく微笑んだそよかは、一瞬にして真面目な顔になる。空になった盆を脇に抱えながら言った。
「あの、廊下でちょっとだけ聞いていたんですけど、赤髪で和服の男性なら、私も今日見ました」
「え?」
「えっと、今日お買い物しに行ったときに人混みの中に紛れているのを見たんですけど……雰囲気が違うのと、周りの人があまりその方に気づいてないみたいで、あ、妖怪なんだなって。目が合ったら走り去って行っちゃいましたけど」
そよかも紅葉たち同様に、どこからか稜冶に引き取られて古屋敷家へと身を寄せるようになったらしい。それ故になのか、そよか自身も妖怪を鮮明に見ることができるらしいのだが、ただそれだけで、帰し屋としての知識は全くといっていいほどに備わっていなかった。
「他に何か分かるか?」
「いえ……何かを探しているようには見えましたけど」
「探してる?」
「辺りを随分気にしていたように思えます。それも、すごい剣幕で」
紅葉と理人が監視しているときにも、そんな感じだったかもしれない。やたらきょろきょろと落ち着かない風にしていた。
探し物、または人を探しているのは間違いないだろう、と二人は思った。それに同調するように、稜冶も静かに薄汚れた本を閉じる。
「ま、容姿とそれだけで妖怪を判断するのは難しいな」
「ですよね……」
湯飲みに一度口を付け、稜冶は深い深い溜息を吐いた。
「俺も一応調べてはみるが、とにかく今は注意するしかないだろう。いいか、軽い気持ちで下手に手出すんじゃねえぞ。久々にすげえ殺気だった。変に絡んで殺されかねないからな」
「う……そんな不吉なこと言わないでよ」
「余計な絡みしなきゃいいだけの話だ」
稜冶のその言葉を最後に、その議題は終了となった。
紅葉と理人の二人も、普段なら自分たちからお節介ともとれる行為をしているわけなのだが、あの殺気を前にして、しばらく待とうということで意見は固まった。
そんな矢先のことである。
翌朝。
「ったく、理人ってば、用事あるんなら先に言ってよね……」
ぶつぶつと愚痴を零しながら、紅葉は通学路を少し急ぎながら歩いていた。
いつもなら理人と一緒に通学するのだが、今はその理人の姿がない。用事があるというので早めに家を出たらしいのだが、そのことを紅葉に伝え忘れていたようだ。
紅葉は彼がいないことにも気づかないまま、しばらく玄関でその姿が現れるのを待っていた。彼が先に出て行ったということに気が付いたのは、普段家を出る時間を過ぎ、彼から謝罪のメールが届いてからだった。
「遅刻だけは免れますように……!」
忙しなく足を交互に動かしながら、鞄のポケットから携帯電話を取り出す。
太陽の光に照らされてほとんど真っ暗なその画面には、うっすらと羅列された数字が見えた。
「うわ、いつもならもうとっくに学校に着いてるよ。頑張ればギリギリ間に合うかなあ……」
携帯の画面に視線を落としたまま、より一層スピードを上げる。もはやそれは、“急いで歩いている”というよりも“走っている”に近い。
その速さを保ったまま、曲がり角を曲がったとき。
ドンっという音と共に、紅葉はコンクリートの地面に転がった。幸いなことに、手に握りしめていた携帯電話は落とさずに済んだようだ。
すぐ近くに人の気配を感じ、曲がり角で人とぶつかったのだと悟る。
とりあえずすぐに謝罪しなくてはならないと思い、混乱する頭を無理やり落ち着かせながら立ち上がった。
「す、すみません! ちゃんと前見てなくって……」
強打した腰を擦りながら、ゆっくりと目を開ける。映ったものは、いつかどこかで見たことがある色の和服だった。
「……え?」
思わず疑問符付きの声が漏れる。体温が急激に低下していくのが分かった。直前まで混乱していた頭の中で、嫌な考えばかりが駆け巡る。
できることなら顔を上げたくないところなのだが、ぶつかった相手を確認しなければ、それはそれで恐ろしい。いつまでもこうして頭を下げ続けるわけにもいかない。
既に腰の痛みはどうでもよくなり、恐る恐る体を起こす。ゆっくりと視線を上へと移した。
「あ」
風に揺れる薄赤色の髪。街中では滅多に見ないであろう和服姿。そして、こちらを見下すような真っ黒な瞳。
あのとき後ろ姿しか見えてはいなかったが、それでも分かる。この髪と、この服と、そして、背筋が凍るほどの殺気は、間違いなく昨日の妖怪だった。