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第一章 04 樹木子

 樹芝と名乗った少女は、涙で濡れた顔をぱっと上げた。


「樹木子って、たしか……食人木だっけ」

「はい。私はその樹木子の分身のようなもので、あの日、私だけがこちらに落ちてしまって、本体の樹木子は町に取り残されてしまったんです」


 樹芝の言う“あの日”というのは、妖怪の町と人間界の間に道が開き、ほとんどの妖怪が人間界に送り込まれてしまった日のことである。

 樹木子というのは、見た目はただの樹木に過ぎない。しかし、死者の血を大量に吸ったことが原因で妖怪化してしまったために、常に血に飢えているという。妖怪として枝を広げたその木は、通り掛かった人間を捕まえては血を吸い、その美しい姿を保っていると言い伝えられていた。


「よくそれで妖怪の町で生きていられたな」

「……妖怪の町にいると、血は不要なんです。私たちにとっては、町自体は生きる源というか……町にいるだけで何不自由なく暮らせていたから」

「でもその生活の最中(さなか)にお前だけ町を離れたわけか」


 理人の言葉に、樹芝は小さく頷いて続けた。


「今までずっと平和で……私も木の傍らで眠るだけで良かった。それなのに、急に私だけこっちに来てしまって……」

「町にいない貴女が血を吸わないと、町の木が枯れちゃう?」

「はい」

「樹芝だっけ? お前、人間の血どれくらい吸ってきた?」


 理人が問いかけると、樹芝は困ったように目を伏せた。

 理人たちを襲っているときに目に光がく、我に返ったときとの態度に違いがありすぎることもあり、恐らくは人間を襲っているときのことはほとんど記憶にないのだろう。

 しばらくの沈黙の後、髪に巻き込んだ綺麗な色の木の葉を揺らしながら、樹芝は申し訳なさそうに肩を落とした。


「も、申し訳ありません、はっきり覚えてなくて……」

「一人の人間から大量に血吸ったりとかした?」

「人は何人も襲った……ような気がしますが、私が一度に吸える量はたかが知れてます」

「じゃあ、死ぬぐらいまで吸ったことはないのか?」

「恐らくは……死なせるほど大量に吸ったことはないです。一応、どれくらいの失血で人が死ぬかは心得ていますから」


 理人流の尋問を繰り返しているうちに、樹芝は落ち着きを取り戻していた。

 改めて指先を揃えて地に付け、深々と頭を下げる。


「私がしてきた悪行は許されることではありません。それは承知しております…が、どうか私を、町に……町の樹木子の元に帰していただけませんか」


 紅葉と理人はそんな樹芝を見やってから、一度顔を見合わせる。

 すると、尋問の延長なのか、すぐに理人が再び質問を投げかけた。


「なあ、今ここで俺たちがお前のこと見放したら、どうする?」

「理人、何言って……」

「私がこれまで必死になって、我を忘れてまで生きてきたのは町に帰るため……別の言い方をすれば、帰し屋様たちに出会うためです。もしここで見放されたとするならば、私は、こちらの世界で死を迎えることも厭いません」


 迷いのない、はっきりとした口調だった。これまでしてきたことが全て無に帰す可能性があるというのに、彼女はこれ以上、帰してほしいとせがむつもりはないらしい。恐らく、それで責任をとることができるのなら、という気持ちもあるのであろう。

 二人に向けられた瞳には全くと言っていいほど濁りがなく、見つめているだけで自分が考えていることを全て見透かされそうなほどに真っ直ぐなものであった。


「……理人」

「分かってるよ」


 理人の短い返事を聞くと、紅葉は目を細めて小さく微笑んだ。そのままゆっくりと立ち上がり、その場から離れ、近くにある小さな公園へと姿を消す。

 紅葉の背中が完全に見えなくなるのを待つと、理人は先程まで紅葉がそうしていたように、樹芝の傍に腰を落ち着かせた。

 ―――次の瞬間。


 パチンッ


 とても小さいけれど、破裂音に似たような音が響き渡った。

 理人が目の前に座る少女の額に、所謂デコピンというものをしたのだ。

 一方の樹芝は、突然のことに何が何だか分からないというように、額を押さえて目を丸くした。しかし、「痛い」とは言わなかった。


「俺のデコピン強烈に痛いって言われてるけど、すげえ、よく耐えたな。」

「……な、どうして、急に」

「別に罰なんて物騒なもの与えたりしないけどさ、人を傷つけた代償ってことで受け取っとけよ」


 恐る恐るといった風に理人を見上げる樹芝に、理人は優しく微笑みかけた。


「……理由が理由だし、お前だって辛い思いしてきたんだ。さっき戦ってるとき、俺もお前のことぶっ叩いたりしてるわけだしな」

「こんなんじゃ、お相子にもなりませんよ……?」

「いいんだよ。俺たちの役目は、妖怪に制裁を加えることじゃないからな」


 樹芝の澄んだ瞳から、熱い涙がぽろぽろと零れ始める。痛みで泣いているわけではない。自分が今までしてきたことへと後悔と、帰し屋の二人の優しさに対しての涙だった。

 顔をくしゃりと歪めて、声も出さずにただただ泣き続けるその小さな姿に、もう人を襲い続けていたときの面影はない。これが彼女の素なのだろう。顔や足、服についた乾いた血や傷は、一層似つかわしくなくなっていた。

 そこに、公園に行っていた紅葉が姿を現した。


「ごめんね。ちょっとだけ、じっとしててね」

「え……?」


 頬を走る涙と、暗い赤茶色の血に、冷たく濡れたハンカチをそっと添える。ひとしきり優しく拭いてから、足に滲んだ血の汚れも拭ってやった。

 すっかり干からびている血は、そう容易く拭い去れるわけでもなく、顔にも足にも僅かに血が残ってしまった。しかし、その顔は出会ったときの狂気に満ちたような顔ではない。今では可愛らしい一人の少女にしか見えないし、実際にもそうでしかない。


「あ、う……ありがとう、ございます」

「人の血を吸って木の美しさを保っても、その血で自分の体汚しちゃったら意味ないもんね」


 紅葉も理人と同じように柔らかく微笑む。一瞬だけ二人の間でアイコンタクトが交わされ、紅葉はすっかり皺の寄ってしまった札を広げた。


「じゃあ、帰していいんだね?」

「……お願いします!」


 一度はっとして口を開け、小さく頭を下げた樹芝を見るなり、紅葉は彼女の服のから札を貼り付ける。

 さほど秒を数えないうちに、少女の腹部の辺りから温かい光が漏れた。


「……何、これ……」

「あんまり驚かないでね。痛くはないから」

「え、は、はい」


 光の燈った部分に指を触れさせると、突然その部分がぐにゃりと歪んだ。まるで、その部分だけ空間が捻じ曲がったように見える。手を滑り込ませれば、異次元にでも行けそうな、そんな空間の歪みだった。

 歪んだ腹部にぐいっと手を突っ込むと、手首から先だけをゆっくりと動かす。


「す、すごい……私は何も感じないのに」

「でしょ? もうちょっとだけ待ってね」


 何度か手を彷徨わせていると、冷たい何かが指先を掠めた。

 迷うことなくその物体を空間から引き抜くと、同時に光は消え失せ、捻じれた空間も元通り、少女の体の一部となる。

 引き抜かれた物は、ビー玉よりは大きめのガラス玉。透明な中に小さな若葉が映し出されている。


「それは?」

「これはね、“妖珠(あやかしだま)”って言うの」

「あやかし、だま……」

「妖怪の町から人間界に送り込まれた妖怪に付けられる印みたいなものらしくてね、元々町にいた妖怪には、誰にでも付いてるんだって」

「それを壊したら、妖怪は町に帰ることができるんだ」

「……って、全部師匠に教わったことなんだけどね」


 苦笑する紅葉をよそに、樹芝はほーとかへーとか曖昧に返事をしては心底感心しているようだった。

 

「それじゃ、壊すよ?」

「お、お願いします! それから……色々と、申し訳ありませんでした」


 するっ、と紅葉の指から妖珠が滑り落ち、コンクリートの上であっけなく簡単にその形を失った。かと思うと、辺りに散らばった破片は、霧か何かのようにふわりと空気に溶けていく。

 まるでそれと合わせるかのように、気づけば樹芝の姿も透け始めていた。彼女の背後にあったコンクリートの壁が目に映るほどに。

 自分の姿が曖昧に映り始めるのをただ眺める樹芝は、未だに信じられないというように口をぽかんと開けていた。


「すごい……私、本当に帰れるんだ」

「すぐ町に帰れるよ。樹芝、もう樹木子から離れちゃ駄目だよ?」


 紅葉がそう声を掛けると、樹芝はかあっと熱くなる目頭を軽く抑えながら、小さく頷いた。


「はいっ……! 帰し屋様、本当に、ありがとうございました…!」


 可愛らしい笑顔と共に、樹芝の姿は消えた。

 当然だが、妖怪が体験するようなことを二人は体験したことがないので、実際のところはよく分からないのだが、以前稜冶から教わったことが間違いでなければ、既に樹芝は町に戻っているはずだ。

 ふう、と息を吐き、両手を思い切り天へと伸ばす。


「くっはあーっ! ……終わった」

「一時はどうなることかと思ったけどな」

「ほんとだよ! 一瞬だけ、理人死んじゃうんじゃないかなって思った」

「悪かったよ。今回はちょっと油断してた。まぁでも、そんな簡単に死ねるかっつの」


 鞄と竹刀の筒を担ぎ、理人は悪戯っぽく笑った。

 

「頼りにしてるよ。あ、後で遊火の所に行かなくちゃね」

「そうだな。でもその前に師匠に札頼まなきゃ」


 オレンジ色に変わりかけている空の下、二人はいつもと違う帰り道を談笑しながら帰る。

 これが二人にとっての当たり前な日常である。妖怪との絡みがなければ、その姿はどこからどうみてもただの中学生だ。

 普通の日常に憧れたことがないと言えば嘘になるかもしれない。けれど、帰し屋の仕事を引き受けたことを後悔しているわけでもない。それはきっと、昔からそんな生活だったこともあるが、それとは別に、二人が何らかの形で妖怪に関わりたかったからなのだろう。

 コンクリートの上に伸びた影が遠ざかって行く。

 夕日に照らされて微かにオレンジに染まった一枚の葉が、二人を見送るように横たわっていた。

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