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第八章 01 ひだまりの猫

 とある休日の昼下がり。

 どこからか歩いてきた理人は、人目も気にせず道の端でうずくまっている紅葉を見つけた。


「悪い、待たせた」

「ん、おかえり。用事の方はもう大丈夫?」

「ああ」


 用事というのは、華渉に向けて最後の別れを告げることだった。彼女がこの世で生を終えたあの日から数日経過した今、再び丘を登り、大木の傍に小さな花束を供えたのだ。それと同時に、少なくともしばらくの間は丘に近づかないことにした。もちろん、華渉のことも、あの数日の出来事も忘れる気は更々ないけれども。

 徐に立ち上がった紅葉の腕の中では、何か灰色の毛の塊が蠢いていた。


「それ、何だ?」

「えへへ、可愛いでしょ」


 そう言って、もぞもぞと動いた灰色の中から覗いた金色の光が、理人の姿を捉えた。

 それは、丸々とした一匹の灰猫だった。ふてぶてしい面構えで、大人しく紅葉に抱かれている。可愛いというよりは憎たらしさを感じる猫だった。不意に、首元で輝く水色のプレートが目に入る。


「飼い猫じゃんか、離してやれよ」

「え? ああ、本当だ」


 気づかなかった、と紅葉は笑って猫を解放した。一方の猫はやれやれといったように一度体を震わせて、その場でごろりとお腹を見せて寝転がった。コンクリートが温かいらしく、間抜けな顔で眠り始めている。近くの民家から、恐らく自分を探しているのであろう少年が出てきたことにも気づかずに。


「呑気でいいよな」

「あはは、そうだね。そろそろ帰ろうか」




 二人が揃って古屋敷家に戻ってくると、一番最初に目についたのは、しゃがみこんだりジャンプしたり、はたまた地面に手を這わせて頬を擦り寄せ床下を覗き込む、古屋敷家家事兼癒し担当風戸そよかの姿だった。

 紅葉が恐る恐る声をかけると、一瞬はっとして立ち上がり、何事もなかったかのように、あの見るものを癒す笑顔を浮かべるのであった。


「おかえりなさい。すみません、ちょっと探し物をしていて」

「探し物? じゃあ手伝うよ、何探してるの?」

「ありがとうございます。えっと……ちょっと、猫ちゃんを……」


 話しながらも視線を彷徨わせながら、そよかは落ち着かなげに説明を始めた。玄関の掃除をしていたら黒猫が迷い込んできて、しばらくの間庭をうろうろしていたので何か餌でもと思い一度家の中に入ってから再び外に出てくると、その猫が姿を消していたということらしい。


「首輪がなかったので野良だとは思うんですけど」

「また出て行ったんじゃない? 猫は気まぐれだし」

「むぅ……可愛かったのに。黒猫ってあまり見かけないじゃないですか。また来てくれると嬉しいんですけどね」


 思いの外落ち込んでいるらしく、苦笑しつつがくりと肩を落としたそよかは、玄関前に放り出されている箒を片手に、玄関と庭の掃除を再開した。


「見たかったなあ。ねえ、理人?」

「いや、俺は別に……」


 言いかけて、理人は勢いよく息を吸ったかと思うと、大きなくしゃみを放った。これといって豪快でもなく、どちらかと言えば女子のようなそれだった。


「お前、ちょっと離れろ」

「え!? ひっど!」

「……さっき猫抱いてたろ。たぶんそのせいだ」

「へ……って、もしかしてアレルギーだった?」


 若干潤んだ瞳を紅葉に向け、鼻を手で庇いながら理人は小さく頷いた。再び大きく息を吸い込んだ瞬間、反射的に紅葉は後退る。


「どうしてさっき言わなかったの?」

「っくしゅッ!! ……気づいたの大分昔だったから、もう平気だと思って」

「これじゃあ、黒猫との再会を望んでいいのかも分からないね」

「別にそよかが会いたいって言うならそれでいいんだけど。飼いたいとか言いだしたら反対する」


 言って、再び大きなくしゃみをした。気づいたのが幼い頃とはいえ、中学三年になった今でも重症らしい。

 一方のそよかは、箒を手に、熱心に掃除をしているかと思いきや、視線は未だに辺りを彷徨っていた。よほど諦めがつかないのか、無意識に黒猫の姿を探し回っていた。

 このときはまだ、紅葉と理人にも、そしてもちろんそよかにも、黒猫との再会がすぐそこに迫っているっということは知る由もないのであった。




 結局黒猫を見かけることもないまま数日が経過したが、そよかだけは依然として床下を覗き込んでみたり、餌で釣ろうとしてみたりしていた。

 そんなある日の放課後のことである。紅葉と理人が並んで校門を出ると、いつぞやの紅葉のように道端にしゃがみ込んでいる五十鈴の姿が目に入った。


「五十鈴?」

「……紅葉。あ、理人くんも一緒だね」

「何してんだ? こんな所で」

「世間話だよ」


 さらっとそんなことを言う五十鈴の手の下から、黒い塊がするりと体をくねらせて這い出してきた。真っ黒で綺麗な毛並み。ぴんと立った小さな耳。その姿を見た瞬間、光の速さで理人が後ろに飛び退いたのは言うまでもない。


「黒猫だ……! そよちゃんが探してた子かもしれない」

「紅葉の家の猫?」

「ううん、違うよ。そよちゃんは野良だと思うって言ってたけど」

「まあ……そうだろうね」


 複雑そうに笑ってから、五十鈴は人差し指で黒猫の頭を撫でた。一方の黒猫はというと、きゅっと目を細めてから呑気に顔を洗う仕草をし始めている。

 そんな姿を何となく見つめながら、そよかの元へ連れて行こうかどうしようか悩んでいると、ふと、違和感を感じた。何にかと聞かれれば、他でもない、目の前にいる小さな黒猫にだ。一瞬眉を八の字に曲げる紅葉に気づいたらしく、五十鈴は小さく微笑んだ。


「お、気が付いた?」

「……何か、おかしい」

「あえて言わなかったんだけどね。気づいたんならあとは二人に任せてもいいかな?」


 そう言いながら、五十鈴は黒猫の顎を軽く掻く。いかにも気持ちよさそうに尾をくねらせては地面にぱたぱたと叩きつけていたのだが、その揺れる尾を眺めていて、その違和感に気が付いた。

 

「しっぽ……分かれてる?」


 呟くと同時に感じる妖怪の気配。確実に、この黒猫は普通の猫なんかじゃない。見せつけるように揺れている尾は根元から二本に分かれ、それぞれがそれぞれに踊るように動き回っている。正真正銘、“猫又”という妖怪だった。

 

「猫又……?」

「ほら、気づきましたよ。ちゃんと妖怪のことを知っている人間がいるって、分かってくれました?」

「ふむ、まあいい」


 さも当然のように、猫は声を発した。はっきりとした人間の言葉。突然のことではあるけれど、妖怪と知った以上は特に驚く必要もない。これしきのことでいちいち驚いていたら、帰し屋としての仕事が務まらない。普通の野良猫だと思っていたなら、声を上げて驚いていただろうけれど。

 理人が、妖怪だと知って猫に近づいてくると、対照的に五十鈴はゆっくり立ち上がって手を挙げた。


「私はそろそろ行かなくちゃいけないから、あとはお願いできるかな?」

「え? ああ、いいよ」

「ありがとう。じゃあまた明日ね。黒猫さんも、さようなら」

「久しぶりに人間と話ができて良かったよ」

「私で良ければ、いつでも話相手くらいにはなりますよ。それじゃあ」


 五十鈴が笑顔で去るのを見届けると、紅葉は苦笑しつつ黒猫に話しかけた。傍から見ればおかしな光景だろうが、そんなことを気にしていたら妖怪と関わることもできない。とりあえず、だんまりを決め込んでいながらも後ろに理人が立っていてくれることが救いだ。


「黒猫さん、今から私たちの家に来ない?」

「君たちの家?」

「うん。ここ数日、ずっと黒猫さんのことを探している人がいて……できれば会わせてあげたいんだけど」


 簡単にそよかの容姿について伝えてみると、黒猫はすぐにぴんときたようで、髭を弄ぶように撫でながら小さく頷く。むくりと体を起こし、一度大きく震えると、何の躊躇いもなく一歩、また一歩と歩みを進めて行った。ゆらゆらと揺れる二本の尾は、まるで“早く行こう”とでも言いたげに、紅葉と理人が歩き出すよう促している。


「え、行ってくれるの?」

「まあ、行くだけなら構わないさ。今日は会合も、他のやるべきことも済んでしまったからね」

「会合……?」

「猫集会さ」

「そんなのがあるんだ」

「猫は気まぐれにあちらこちら移動する。情報を集めるにはうってつけな奴らなのさ」


 黒猫はそう言って、誇らしげに背筋をぴんと伸ばした。




「きゃあああああ!! 猫ちゃん!!」


 黒猫を連れて帰宅するや否や、プレゼントを待つ子どものように玄関から飛び出してきたそよかは、興奮状態のまま、ものすごい勢いで黒猫を抱き上げた。

 紅葉と理人がただ呆然とその光景を眺めている中、黒猫は少々面倒くさそうに目を細めながらも、一切喋ろうとはせずに普通の猫に徹していた。それでもやはり窮屈に思っていたのか、少しの隙ができた途端にそよかの腕からするりと逃げ出し、紅葉の足元へ避難してきた。


「そよかー? どこ行ったの?」

「あ……忘れてました。せ、茜さん! すぐ行きます!」


 家の中から聞こえてきた茜の声に、そよかはすぐに反応して玄関へ戻った。その際名残惜しそうに黒猫を見つめたり、手を振ってみたりするものの、当の黒猫はというと、そんな仕草には見向きもしないのであった。

 そよかの姿が完全に見えなくなったのを確認し、黒猫は小さな体を精一杯に伸ばして、気持ちよさそうににゃあと鳴いた。


「……何とも、見た目と中身の一致しない女だね」

「あはは……私も、そよちゃんがあんなに騒がしくなるなんて知らなかったよ。喋らないでいてくれてありがとう」

「ただの猫のふりには慣れている。それよりも、あの女は変だね」

「変? まあ、さっきは変だったけど」

「いや、そうじゃなくて……うむ、説明が難しいな」


 もう少し語彙力があれば、と、顔を洗う仕草をしながら言った。

 しばらくしても茜の方の用事が終わらないのか、そよかが外に出戻ってくる気配がない。それを感じ取ってか、黒猫は古屋敷の門を出ようとしていたが、この猫が妖怪であるということを思い出して、紅葉は慌てたように声をかけた。


「黒猫さん、帰し屋って知ってる?」


 猫の小さな歩みが、壊れかけのロボットのようにぴたりと止まった。


「ふむ、妖怪を町に帰す人間たちのことか。よく噂に聞くよ。それがどうかしたかい?」

「私たち……っていうか、この家は帰し屋の家なんだけど、黒猫さんは町に戻る気はない?」

「……帰れるものなら帰りたいが」

「じゃあ――」

「それよりも」


 黒猫が口を挟んできたことで、帰し屋の話題は半ば強引に一時中断された。大きな瞳をきょろきょろと動かし、紅葉と理人の前にすとんと座る。


「その、“黒猫さん”っていう呼び方はやめてもらえないかな」

「え、じゃあどう呼べば……あ、名前まだ聞いてなかったよね」


 紅葉が言うと、何を悩む必要があるのか、猫は目を細めて首を傾げてみせた。相当考えあぐねているらしく、耳はやや垂れ下がり、二つに分かれた尾は不規則に上下している。


「俺の名前はたくさんあるんだ。どれを名乗ればいいか迷ってしまうな。あちこちを転々としているから、人間たちが勝手に名前を押し付けていくんだ。首輪がないのをいいことにね」

「本当の名前は?」

「分からない」


 紅葉は目を丸くした。少し離れて会話を聞いている理人も、僅かに眉をぴくりと動かす。それもそのはず、名前のない妖怪には会ったことがないのだ。幼い頃、稜治には、妖怪は“妖怪として生まれ変わったとき”には既に名前が与えられていると聞かされていた。以前出会った龍燈は自ら名前を捨てたらしいのだが、黒猫の態度を見る限り、それとはわけが違うらしい。“捨てた”ではない、“分からない”のだ。

 

「俺はただの猫だったときには名はなかった。妖怪になって、確かに名は貰ったはずなんだ。……けれど、ちょっとした事情で思い出せなくなってしまってね。今、自身を便宜するのに使えるのは“猫又”だけなんだ」

「思い出せないって……そんなこと」

「そうだ、名前だったな。今までは……タマやマイケルやキャサリン……ほとんどは異国風だったな」


 言い終えて、黒猫はふっと笑った。どことなく羨ましそうな瞳で二人を見上げ、達観したように言う。


「多すぎて困るが、それでも名前があるということは素晴らしいことさ。便宜上でしか意味のないものかもしれないけど、人生で初めての贈り物だからね。自分にしかない、とても重いもの。誰かと交換することもできない、仮にできたとしてもそれは偽りでしかないのだから」


 次から次へと雨のように降り注ぐ彼の言葉に、一瞬理人が表情を強ばらせたような気もしたのだが、黒猫と紅葉がそれに気がつくことはなかった。

 黒猫は軽く髭を震わせて、悪戯っぽい声色で言う。


「今はクロとでも呼んでよ。無難でいいだろう?」

「え……? あ、じゃあ、よろしくね、クロさん」


 まるで握手をするように、クロを仮名とした小さな黒猫は、紅葉の人差し指にそっと自分の肉球を押し当てた。




 その後、いつまで経っても理人がぼうっと突っ立っているのを見て察したのか、クロ(仮名)はいつの間にか人間の姿に変わっていた。割と長身の、すらりとした男性の姿。黒い和服を纏った彼の目は、猫の姿のときは大きく輝いているにも関わらず、今は糸目なのか細目なのか、とにかく開いているのかも分からない。


「クロさん、それ、半妖の姿?」

「いいや、一応は変化の部類だ。半妖だと耳と尾が隠せないからね。これならキミも平気だろう?」


 クロはふっと笑って理人を見やった。

 一方の理人はというと、小さく、ありがとうございますと軽く頭を下げた。心なしかその顔色が優れないようにも見受けられる。考えているのはクロのことではなさそうだ。他に何か引っ掛かる所があったのか、紅葉にも検討はつかなかったが、とりあえずは横目でみるだけにして気にしないようにする。


「それで、クロさんは町に帰る気はないの?」

「おや、まだその話を続けるか」

「当たり前でしょ。それが私たちの仕事なんだもん。黙って見過ごしたりできないよ」


 仕事か、とクロは呟いた。やれやれ、と袖を翻して天を仰ぐ。


「俺にも仕事はあるんだけどなあ」

「……けど、ここに居座り続けたら死んじゃうんだよ?」

「分かっているさ。“眠”というのだろう? ただ、今すぐでなくとも良いだろう?」

「まあ……うん、確かに症状が出てるわけでもないし……いや、でもなあ……」


 割と真剣に悩んでいると、クロも同じような仕草を見せた。こめかみを指でなぞり、そう時間が経たないうちに一度手をぽんと打った。何か悪戯を企んでいるような、それでいて嬉しそうな、無邪気な子どものような笑顔だ。


「ならばこうしないか」

「え?」

「俺はキミたちに妖怪の情報を与えよう。その代わり、町に帰すのを待ってはくれないか」

「妖怪の……情報?」

「そうさ。実はもういくつか仕入れているんだけどね。早めに帰しておいた方が良さそうな奴らもそこそこいたはずだ。どうだい? 交換条件としては悪くないと思うんだけど」

「……そこまでして帰りたくないの?」


 紅葉の質問に、クロは僅かに悲しげに、曖昧に笑ってみせた。どうやら、何が何でも帰りたくないわけではないと言いたいらしい。クロは開いているのかどうかも分からない目を軽く擦りながら、“探し物があるんだ”とだけ言った。


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