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第五章 04 リミット

 時計の短針が、ちょうど九に向いた夜。

 湯気の立つ頭にタオルを被せ、やれやれというように理人は畳の上に腰を下ろした。いつもヘアピンで止められている異様に長い前髪は、雫を垂らしながら鼻に張り付いている。

 ふと、襖の向こう側から声がかけられた。


「理人、入っていい?」

「どうぞ」


 ゆっくりと開いた襖の奥から、少々不機嫌そうな紅葉が姿を見せた。とは言え、心の底から怒りが生まれているというわけでもなく、ただ、何となく腑に落ちていないといった表情だった。

 紅葉は襖を閉め、その傍に腰を下ろした。


「ねえ、今日のあれ、どういう意味? 五日でどうする気なの?」

「……俺が場所変えるって言ったとき、お前たちだけ先に行かせただろ。俺、店の前で騒いじまったから、花屋の人に謝りに行ってたんだ」


 そう言うと、紅葉は一瞬はっとして、すぐに申し訳なさそうに俯いた。

 確かに、幸いにもあの場に客は居なかったし、通りがかった人間も居なかったように思うが、智帆の大声も含めて、騒いでしまったのは迷惑だったことだろう。そこまで気が回らなかったことに気付き、紅葉は肩を落とす。

 しかし理人が言いたいのはそこではなく、そのときに出会った花屋の女性に聞いた、とある情報である。


「智帆、五日後に引っ越すんだと」

「え……? え、や、だって、智帆ちゃんは何も言ってなかったよね?」

「智帆は引っ越すことを知らないらしい。あいつが絡まれてるのを知って、両親引越しを計画したんだと」


 娘を良い意味で驚かせるために。することの規模が大きいだけで、娘想いの良い両親なのだと思う。しかし今、妖怪と友人となっている智帆にとって、そのサプライズはプラスの面だけではないはずだ。


「そんな……嫌だよ。二人が喧嘩したままお別れなんて、絶対嫌」


 真っ直ぐな視線で紅葉は理人を見据えた。

 ついさっきまではむくれていたというのに、既に理人のしたいことを理解している。似たような境遇の中で共に過ごしてきたからこそ為せるのかもしれない。理人はほんの僅かに笑みを零した。


「俺だって嫌だ。だから五日でどうにかする。結局あいつ、智帆のお守り拾ったまま返してないしな」

「お守り、棄光が拾ってくれたんだ……良かった」


 紅葉の中の棄光が、ほんの少しだけ良いイメージに変わったことが、その穏やかな笑みから見て取れた。




 翌日の放課後。

 二人は智帆の家の前に立っていた。無機質な白い壁が、智帆と二人の間に厚い隔たりを築いている。

 対するパステルカラーの小さな花屋に立ち並ぶ花の香りが、二人の鼻をくすぐった。

 理人の指は何の迷いもなく智帆の家のインターホンを鳴らしていた。一方人見知りの紅葉はと言うと、智帆ではなく面識のない両親が二人を迎えたときの言葉を搾り出すのに精一杯だが、いつまで経っても辺りはしんと静まり返っている。

 もう一度、執拗にインターホンに指を伸ばす理人を阻止すると、ちょうどパステルカラーの壁から、花屋の女性がひょっこりと顔を出していた。なるべく声量は抑えていたつもりだが、隣まで聞こえてしまっていたのだろう。


光田(みつだ)さんに用事があるの?」

「光田、さん? あ、えっと……この家に住む女の子に用があって」


 一瞬光田という名前に戸惑ったが、智帆の苗字で間違いないだろう。

 外見的に、茜より四、五歳年上と見られる花屋の女性は、店の外壁と同じく柔らかな色のエプロンをはためかせて二人の方へ歩み寄ってきた。引越しのこともそうだが、どうやら智帆の一家のことをよく知っているようだ。隣家なのだから当然かもしれないけれど。


「智帆ちゃんなら、お客さんが来ても出ないわよ」

「あの、親御さんは……」

「お父さんはまだ会社でしょうね。お母さんはついさっき出掛けたわ。……でも不思議なのよね。家に独りになるときは、いつも私のお店に来るんだけど」


 独りで留守番させるのが心配で、普段なら花屋に預けるところを、今日は来ていないということらしい。そうなれば、必然的に家の中に彼女はいるはずなのだが。

 念のため、理人がゆっくりと戸に手を掛けるが、それはぴくりとも動かなかった。


「私もあの子に構えなくなると思うと、少し寂しいものがあるわね。からかわれてるの、よく見かけていたし。とりあえず、お母さんが帰ってきたら、貴方たちのことを伝えておくわ」


 二人は顔を見合わせ、頼んでいいものか、とも思ったが、このまま何もしないで帰ってしまえば現状は何も変わらないと考え、とりあえず自分たちの名前だけを伝えてその場を去った。




 その翌日の放課後も、次の日も、二人は開くことのない扉の前に立っていた。

 紅葉と理人が訪れていたということは智帆の両親に伝わっているはずなのだが、当然ながら引越しの準備に追われているのと、タイミングも悪いようで、いつ訪れても両親は不在であった。やはり、二人を迎えてくれたのは智帆でも、その両親でもなく、心配そうに眉を下げた花屋の女性と、まるで牢屋のように少女を閉じ込めている無機質な壁だけだった。

 四日目、やっと両親が二人の前に現れたが、申し訳なさそうな顔をした母親が告げたのは、智帆は何故か塞ぎ込んでしまっていて、二人に会いたくはないと言っている、ということだけだった。




 五日目。つまり棄光を町に帰す約束の日。

 授業を一通り終えた二人は、普段はすぐに姿を消す五十鈴よりも早く、頑丈な校門を潜り抜け、駆け出した。向かう先は他でもなく、智帆の家である。


「結局最終日まで、智帆にも棄光にも会わなかったな」

「どうする? 大丈夫なの?」

「荒療治かもしれないけど、お前もこのままは嫌なんだろ」

「うん……智帆ちゃんに教えたいんだ。棄光が智帆ちゃんの味方だってこと」

「じゃあ昨日言った通り。いいな」


 紅葉は力強く頷いた。

 公園前を通過しようとしたそのとき、既に見慣れてしまったあの姿が、視界の端を掠めた。途端に、地面を蹴っていた理人の足が止まる。


「紅葉、智帆の方任せる」

「え、う、うん!」


 再び駆け出す紅葉の姿を横目で見送り、理人は息を整えながらゆっくりと公園へと踏み込んだ。

 白いベンチに腰掛ける、大柄なミイラ姿。力なく膝に置かれた手には、やはりあの鮮やかな赤色が映えている。

 理人が名を呼ぶと、彼は何も変わらない鈍い動きで顔を上げた。包帯だらけでどんな顔をしているのか分からないが、何となく、いつにも増して表情が暗い気がする。


「……お前か。約束だ、俺を帰せ」

「智帆に会いに行くぞ」


 濁った銀色の瞳が、気怠そうに理人を見上げた。


「聞いていなかったか? 俺の話」

「智帆、今日引っ越すらしい。このまま別れるつもりか」

「知っている」


 何の迷いもなく棄光は言った。


「二週間ほど前に智帆に聞いた。あいつは自分が引っ越すということを知っていた」


 棄光が言うには、智帆は両親が引越しの話をしているのを偶然にも耳にしてしまったらしい。両親が何を思ってそれを計画したのかも知ってしまっていたから、幼いながらに気を遣い、何も知らない振りをしてはいるが、それでもやはり大事な友人には伝えていたようだ。


「一筋縄ではいかないだろうが、あいつはきっと幸せになれる。俺がいなくても、な」

「……未来を見たのか?」

「いや、俺の予想であり願望だ」


 そう言って目を細めると、棄光は静かに手を差し出した。小さな花の刺繍が施された手製のお守りが、包帯だらけの指から離れ、慌てて突き出された理人の手に落ちる。


「それは智帆に返しておいてくれ。……そして、俺を町に送れ」


 理人はしばらく黙ったまま立ち尽くすと、掌に乗ったお守りを、無言のままに押し返した。




 エンジンの止まった大きなトラックが、光田家の前に堂々と存在していた。

 家の中からは業者のものと思われる声と、荷物を運び出しているらしい音が聞こえるが、目の見えない智帆がその場にいるようには思えない。

 紅葉は足を止めた。幾ら人より体力があるからと言って、ここまで全力で走って来れた自分の足を褒め称えたい。

 辺りを見回していると、荷運びの様子を傍観していた花屋の女性が紅葉の存在に気が付いた。


「代永さん、だっけ? どうかしたの?」

「あ、あのっ……智帆ちゃん、今どこにいるか知りませんか……!!」


 女性は一度驚いたように瞬きすると、それなら、と紅葉を店の中へ招き入れた。

 ふわりと鼻孔をくすぐる香りに包まれた店の奥に、色とりどりの花に埋もれるように縮こまる智帆の姿があった。家の中にいてもするべきことがないからここにいるのだろう。彼女は浮かない顔で岩のように微動だにしなかった。

 紅葉は荒い息をどうにか整えながら智帆の前にしゃがんだ。


「智帆ちゃん」

「……紅葉、お姉ちゃん?」

「そうだよ。引っ越すんだってね。どうして言ってくれなかったの?」


 智帆は寂しそうに俯く。ごめんなさい、と消え入りそうな声で呟いた。

 紅葉や理人に話さなかった理由は、特にないらしい。真実としては、自身は知らないふりをしなければならないから、極力他には漏らさないでおきたかったという自然な思いから打ち明けられなかったのだろう。


「ちょっとだけ怖いんだ。お父さんもお母さんも、私のことを考えてくれてるのは分かる……でも、これから行く所は私が知らない場所だから。ここは事故に遭う前は見えてたから平気だったのに」


 何も知らない、闇の世界はどんなものなのだろう。きっとその場所に行けば、今の彼女の苦痛はなくなる。指をさされて笑われることもない。それでも、道も何もかも分からない、光も色もない場所は、全てが喜ばしいことばかりではないはずだ。

 智帆なら。どんなことがあっても笑顔で居られる強さを持つ智帆なら、きっと新たな場所でも大丈夫だ。その旨を紅葉が伝えると、彼女は小さく微笑んだ。


「……そんなことないもん。紅葉お姉ちゃんも理人お兄ちゃんもいない。それに――……」


 智帆は一瞬はっとして、紅葉から顔を背ける。


「智帆ちゃん、棄光に会いに行こう」


 智帆はゆるゆると首を横に振った。


「どうして?」

「だって、嘘吐きだから。それに、お母さんが妖怪には近づくなって……」

「嘘を吐いてたら、智帆ちゃんの友達じゃなくなっちゃうの? 妖怪でも人間でも、それはずっと智帆ちゃんの傍にいてくれた棄光なんだよ?」


 幼い少女に問い詰めていることに、心がズキズキと痛み始める。それでも目の前にいる少女が、このまま何の解決も果たせずに、唯一無二の友人と永遠の別れをしなければならない痛みに比べれば、こんなものどうってことはない。

 お節介かもしれないが、これは、帰し屋として、智帆の友人としての意地だ。

 紅葉は一度大きく吸い込み、最後の手段と言わんばかりに口にした。


「智帆ちゃん。今日ね、棄光もいなくなっちゃうの」

「……え?」

「別の町に行く……いや、帰ることになったの。本当に、このままお別れしてもいいの?」




「嫌だと言ったら?」

「……無理にでも帰してもらう」


 公園では理人と棄光が対峙し続けていた。

 棄光はゆっくりと頭に巻かれた包帯に手を掛ける。包帯の端を解き、見せびらかすように摘んで見せた。未だに彼にどんな能力が備わっているのかは分からないが、これは脅しである。


「……お前は、力を使ったりしないだろ?」


 理人は慌てる様子もなく、まっすぐな視線をその手に向ける。


「そうだな、普段なら絶対に使いたくないものだ。しかし今は例外。町に帰るためならば、お前にこの力を使ってやってもいい」


 言いながら、どんどん包帯は解けていき、地面の上に渦を巻き始める。

 風に触れることを許されたその姿は、頭では理解していたものの、想像以上に衝撃的なものであった。

 額に大きすぎるほど大きな目がぎょろりと一つ。本来の銀の瞳の上に目が一つずつ。頬にも同じような銀の目が二つ。それぞれがそれぞれの方向を向いていたそれは、一斉に理人を凝視した。さらに解かれた手の包帯の下には、手の甲と掌に一つずつ、気味の悪い瞳が覗く。

 妖怪と接するのは鳴れているが、流石の理人の背にも悪寒が走った。

 

「……すげえな。正直気色悪いと思っちまった」

「随分とはっきり言ってくれるな」


 まあいい、と棄光はあの気怠そうな眼差しを理人に向けた。それでもそれは、何となく、とても強固な意志を纏ったものであった。




「でも紅葉お姉ちゃん、棄光は近づくなって言ったんだよ?」

「そんなの、棄光の嘘だよ。あいつは智帆ちゃんのことが大好きだし、智帆ちゃんもそうじゃないの?」


 智帆は驚いたように顔を上げた。

 紅葉はそれを見て穏やかに微笑むと、僅かに躊躇いながらも口を開く。それは、できれば思い出したくない幼少期の頃の思い出だ。古屋敷の家に来る前と、来てからの数年に渡る話。


「私ね、小さい頃虐められてたんだ。でも智帆ちゃんみたいに“慣れた”なんて言えなくて、いつも泣いてて弱虫だったの」

「嘘……紅葉お姉ちゃんが?」

「うん。でもね、優しい家族や唯一の友達だった理人に支えられて、今じゃ親友って呼べるくらいの友達も居る。だからね、友達って大事にした方がいいよ。棄光みたいに、傍に居てくれるってだけですごく幸せなんだから」


 優しく諭すような声に、智帆は再び俯いてしまった。

 花屋という避難場所と自分を繋ぎ留めるように、白杖を握る手に力を込める。まだここから飛び出す決心はついていないようだった。無理もない。あんな別れ方をして、会わずに五日。今更会いに行くのは辛すぎる。

 そのとき、紅葉の鞄から張り詰めた空気を裂くような軽快なメロディーが溢れ出す。


「もしもし、理人? え、ああ。うん、まだ……って、え? ちょ、理人っ!?」


 向こう側の声が途切れ、携帯はしんと静まり返った冷たい無機物へと戻った。

 声しか聞こえていない智帆は、不思議そうに首を傾げる。ただ、紅葉の息遣いが焦っているものであるということは分かった。


「棄光、今無理やり帰ろうとしてるんだって」

「え?」

「理人が頑張って引き留めてるみたいだけど……」


 紅葉は携帯を鞄の隙間から中に突っ込み、慌ただしくも優しく智帆の手に自分の手を重ねた。


「気持ちを無視して智帆ちゃんのこと無理に連れて行く気はないよ。けどね、もし気が変わったのならあの公園においで」


 智帆はぐっと奥歯を噛み締めて、壊れたロボットのようにかくんと頷いた。

 紅葉は小さく息を吐くと、鞄を二本の指に引っ掛けて、転がるようにパステルカラーの壁から飛び出し、花屋の女性に軽く一礼するとそのまま駆け出した。


「……棄光と……お別れ、なんだ」


 瞳に映ることのない花々に見守られている小さな少女の言葉は、誰の耳にも届くことなく、こじんまりとした空間の中に溶けていった。



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