第一章 01 始まりの朝
小鳥の囀りが朝の訪れを告げる。昨日と何も変わらない朝だが、それは穏やかでとても心地良い。
しかしどうやらこの物語の主人公の一人である少女は、そんな穏やかさすらも感じることは出来ないようだ。少女は自室から飛び出したかと思うと、転がるように階段を駆け下りた。向かった先は、朝食の美味しそうな匂いを漂わせる台所である。
「あ、紅葉ちゃん、おはようございます」
「おはよう、そよちゃん!」
紅葉と呼ばれた制服姿の少女は、棚からコップを、冷蔵庫から麦茶を取り出してなみなみと注いだ。
これが、この物語の主人公の一人であり、この古屋敷家の帰し屋である。名を、代永紅葉。そして、朝食の支度をしながらにこやかにその光景を見守るのが、古屋敷家家事担当。名を、風戸そよかという。
そよかは支度の手を止めることのないまま、麦茶に口を付ける紅葉に告げる。
「紅葉ちゃん。茜さんと理人くん、呼んで来てもらっていいですか? 多分裏庭にいると思うので……」
「うん、分かった!」
半分ほど麦茶を飲み干すと、紅葉は小走りで裏口へと向かった。
「理人、茜姉ちゃーん」
「おー、紅葉おはよう。そろそろ朝飯の時間かな?」
紅葉が裏庭に向かうと、満面の笑みを浮かべた背の高い女性と、竹刀を片手に地面に座り込む少年が目に入った。少年の肩は忙しなく上下に揺れ、明らかに生易しい稽古をしていたわけでないというのが分かる。
毎朝ではないけれど、この家ではこういうのは良くある光景である。
「何だ、もう疲れたのか? 理人は相変わらず体力ないなあ」
「っせー……茜姉の体力が、人間離れしてるだけだっての……」
「いやいや、これくらいを無表情で熟せるレベルにならないと、帰し屋としてはまだまだかな」
にやりと腹の立つ笑みを浮かべ、からかうように笑いながら少年の背中をバシバシと叩いているのが、古屋敷家の帰し屋の一人で、武道の師匠でもある女性。名を、古屋敷茜。そして、すっかり疲弊しながらも抵抗しようとしているのが、この物語の二人目の主人公であり、帰し屋である少年。名を、結城理人という。
真っ白なタオルが紅葉の手から離れ、二人へと渡る。理人はタオルを受け取った瞬間、それに顔を埋めた。
「そよちゃんが朝ご飯作ってるから、早く準備して来てね。茜姉ちゃんもちょっと身なり整えないと、また師匠に怒られちゃうよ?」
「おう」
「参ったなあ。了解了解!」
紅葉が台所へ引き返すと朝食は全て用意されていた。良い匂いが部屋の中を満たす。そよかの料理は誰もが絶品と認めるほどのものだから、朝から腹の虫が鳴くのも仕方ないというものだ。
先ほどまで姿がなかった男性が一人、椅子に座って新聞を広げている。
「師匠、おはよう」
「おはよう紅葉」
挨拶を返しながら新聞紙を畳むのは、古屋敷家の帰し屋としての師匠。加えてこの家の主。名を古屋敷稜冶。紅葉と理人には常に師匠と呼ばれ、慕われている。二人とっては、尊敬するべき師匠であり、父親でもある男性だ。
「おはようございます、師匠」
「おじさんおっはよー!」
台所に姿を現したのは、制服に身を包み、伸びきった前髪をピンで留めた理人と、稽古中とは打って変わって丁寧に髪を結い上げた茜だった。朝稽古をしてから登校、または出社するという生活を昔から頻繁に送っていたお陰で、紅葉含めたこの三人は早着替えにも慣れてしまったようだ。
とは言ったものの、帰し屋としての仕事は、ほとんど紅葉と理人に回されるようになった。もちろん、稜冶と茜も帰し屋であることに間違いはなく、二人も各々その仕事をしてはいるのだが、今の稜冶は、以前生死を彷徨うほどの怪我を負ってしまい念のための療養中であるし、茜についても仕事がある為に、妖怪と接触する機会も二人と比べて少ないのだった。
「そういやお前ら、札持ってるのか?」
「え? 私、もうなくなったから新しいの欲しいって……」
「聞いてないが」
紅葉がしまった、という風に苦笑すると、稜冶は呆れの表情を強め、湯呑に注がれた熱いお茶に口を付けた。
彼の視線が移った先の理人が慌てて通学鞄の中をひとしきり漁ってみるが、鞄のポケットの中に一枚の札があるのみで、他の場所には見当たらなかった。
「……お前らなあ。もっと早く言えっての」
「だっ、大丈夫だよ師匠! 帰りたいって言ってる妖怪には待ってもらうし、暴れてる妖怪なんかそこら辺にゴロゴロいるわけでもないし、ね! 理人もそう思うでしょ?」
慌てて笑みを浮かべる紅葉を横目でちらりと見ながら、理人は苦笑したまま小さく頷いた。本当はそんなに呑気な話でもないのだが、ここは紅葉に話を合わせるのが良いだろうと判断した。どちらにせよ、今からでは新しい札を準備してもらうのは難しい。
紅葉の向かいで朝食に舌鼓を打っている茜が、箸を止めて助け舟を出すように口を挟んだ。
「だってさ、おじさん。二人がこう言ってんだから、まあ大丈夫なんじゃない?」
「茜は物事を軽く受け止めすぎなんだよ」
こんなやりとりを数分続けた後、二人はそよかの作った朝食を平らげ、結局、妖怪を町に帰すために必要な札を貰わないまま家を飛び出した。
紅葉も理人も、稜冶の子供でもなければ、古屋敷の血筋に関連する人間でもない。紅葉は七歳の頃に児童養護施設から引き取られ、理人はそれよりも前、五歳の頃に起こったとある出来事が原因で稜冶に引き取られた。本来ならば、二人とも古屋敷の姓を名乗るべきなのかもしれないが、実生活の中で少々面倒なことになりそうだと判断し、本当の姓を名乗り続けている。
また、古屋敷家の主人である稜冶が帰し屋をしていることもあって、五年以上前からその稽古を受け続けている。初めは不安がっていた二人も、今ではすっかりそれを使命だと思い、妖怪たちを救うために日々奔走しているのだ。
――そう、今この世界には、妖怪が存在している。何十年か前まで、妖怪と人間の世界ははっきり分かれていたのだが、通称“あの日”を境に、妖怪たちはこの世界に流れ込んで来た。彼らを元居た世界に帰すのが、帰し屋の役目なのである。
そんなこんなで二人の前方に大きな学校が現れた。高めの校門と柵に囲まれたその学校こそが、二人の通う実月高等学校附属中学校である。
「紅葉、大丈夫か」
「ああ、うん。ちょっと」
校門前で理人が足を止め、それに続いて紅葉も歩みを止める。
本日は月曜日。週の始まりは、いつもこうだ。
無言のまま紅葉は申し訳なさそうに笑い、目を閉じて数回、深呼吸を繰り返した。
「お前も大変だよな。喋らないだけでクールキャラだと思われるなんて」
「……私が人と話さないのがいけないんだよ」
「今はそれでもいいかもしれないけど、いつか人付き合いって必要になるだろ?」
説教にも似たその言葉を受け止め、紅葉は小さく俯いた。彼女は他人との会話を苦手としていて、加えて極度のあがり症なのである。古屋敷家では別だが、学校では理人と、親友である女子生徒を除いては交流することがほとんどない。それ故いつの間にか、周囲の人物からはクールで近寄りがたいキャラとして見られるようになってしまったのだ。
周りにそう思われているなら、と、彼女自身も校内でクールを保つため、月曜日になるとリセットの意味も込めて校舎に立ち入る前に落ち着くことにしている。彼女にとってのこの一連の作業は、もはや儀式のようなものになっていた。
本当はちゃんと友人が欲しい。それでも、自然に周りに溶け込むには、中学三年生の彼女には少々遅かったようだ。
「そうだよね。いつまでも理人や五十鈴に頼ってちゃ駄目だよね」
「九里か……まあ、あいつはお前と一緒にいるのが一番楽しいんだろうから良いと思うけど」
「紅葉、理人くん」
まるで狙ったかのようなタイミングで背後から声を掛けられる。
肩辺りまでの髪と、頭に巻かれたリボン、他とは違う瞳の色。この少女は、今ちょうど会話中に名前の出た九里五十鈴である。穏やかな笑みを浮かべる彼女こそが、紅葉の親友であり、紅葉が校内で理人以外に恐怖心を抱かずに交流できる唯一の存在だ。
各々が彼女に挨拶すると、五十鈴は柔らかく微笑んだ。
「二人とも、おはよう。……そっか、今日月曜日だもんね」
「俺らにとっては恒例行事みたいなもんだよな」
「そうだね。全く、可笑しいよね。普段の紅葉はこんなんなのに」
「こ、こんなんって……もう、早く行こう。予鈴鳴っちゃう!」
紅葉は、からかうように笑いあう二人の背中を押し、大きな校門を潜った。
三年生の教室前廊下に足を運んだところで、二組の教室から数名の女子が飛び出して来た。
甲高い声でヒソヒソと話す彼女たちの目には、恐らく理人しか映っていない。
「さっすが理人くん、今日も大人気だね」
五十鈴が声を潜めて笑う。
理人は、容姿にも性格にも、そして成績にも非がなく、男女共に好かれるタイプだ。社交性はそこそこ、というより、特に申し分ない。紅葉とは正反対と言ってもいいくらいだ。
社交性とは少し異なるだろうが、彼に憧れ、または恋心を抱く女子生徒も多い。ちなみに紅葉と五十鈴は一組所属である。もし三人が同じクラスになっていたら、その仲の良さから妬まれていてもおかしくはないだろう。今まで問題なく良い友人関係を築けているのだから、恐らく、この関係は他の女子生徒の面々から許容されているのかもしれない。
「じゃ、また後でな」
「うん。えっと、何というか、頑張ってね」
「そっちもな」
理人は片手を軽く挙げると、重い足取りで教室へと入って行った。教室の中がどのような状況になっているのかはあまり知りたいと思わない。
残された二人も、自分たちの居るべき教室へと入って行く。紅葉の席は窓際の最後列。何の巡り合わせか、五十鈴の席はその一つ前であり、二人の席は前後に並んでいた。紅葉にとってはかなり助かる席順である。
「相変わらず凄いねえ、理人くんのモテっぷりは。私たちいつか後ろから刺されるかもよ」
「それは……妖怪より人間の方がずっと怖いね」
紅葉にとってはそうかもね、と五十鈴は苦笑した。
彼女はは二人の事情も知っている。恐らく校内の生徒で二人の複雑な事情を把握しているのは彼女だけだろう。
「今は苗字合わせなくて良かったと思ってるよ」
「そっか、普通なら古屋敷紅葉になるんだよね」
「うん。この辺りじゃ古屋敷って聞かないし、多分疑われるでしょ」
「そうかもね……っと」
五十鈴はふっと視線を紅葉から外し、窓の外を眺めた。澄んだ琥珀色の瞳はどこを映しているわけでもなく、ただただ一点で固定されている。
普通ではないその琥珀色の瞳について、仲良くなった当初尋ねたことがあるのだが、五十鈴本人は生まれつきだ、と言い続けた。その言葉が嘘か真かはさて置き、それ以来目については何も触れていない。仲が良いとはいえ他人だ。どこまでなら踏み込んでいいものか、紅葉には分からない。
「五十鈴、どうかした?」
その問いに曖昧に返事をする五十鈴だったが、今までも何度も同じようなことがあったために紅葉は大体を察することができた。さほど妖怪は見えずとも、妖怪の気配を知るだけなら、帰し屋である紅葉と理人より上かもしれないという彼女だ。こういう状態になったときは、近くに放っておいてはいけない妖怪がうろついている可能性が高い。
暫し沈黙し視線をあちらこちらに彷徨わせた後、五十鈴はふっと息を吐いてその目を紅葉に向けた。
「何か居るかもしれない。気を付けてね」
「やっぱり?」
紅葉が苦笑すると、五十鈴はリボンの根元に括り付けられた音の鳴らない小さな鈴を揺らし、頑張れ、と言わんばかりの満面の笑みを浮かべた。
札が一枚しかないという危機的状況の中、放課後に紅葉と理人が帰し屋としての職務を果たさねばならないことが決定した瞬間である。




