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第四章 02 届かない声

「おかえり。思ったより早かったな」


 理人はそう言うと、猫のように丸まっている夕炎を揺さぶった。夕炎はもぞもぞと体を起こし、眠そうにしながらも寝てしまったことに対して自己嫌悪を示している。紅葉が戻るまで、どうやら理人が何度か起こしていたが、その度に睡魔に負けてしまっていたようだ。

 

「図書館行く前に五十鈴に会って……」

「よく了承したな。九里、図書館はいいのか?」

「今日閉館日だったから大丈夫だよ。それに……」


 五十鈴は理人から視線を外し、横でしつこく自己嫌悪に浸り続ける夕炎に視線を移した。

 紅葉は暑さに苦しんでいるというのに、その顔はとても涼しげで、汗腺というものが存在しているのか疑いたくなるほどである。

 通学用鞄を社の床に横たえ、五十鈴はゆっくりと夕炎に近づいた。

 

「えっと……夕炎さん、で、いいんだよね?」

「……ああ」

「私は九里五十鈴。祓い屋でもなければ帰し屋でもないけど、協力させてもらってもいいですか?」

「もちろんだ、感謝する」

「……それと、気配だけで判断して申し訳ないんですけど、かまど神……ですか?」


 五十鈴の問いかけに、夕炎はこくりと頷いた。

 かまど神。妖怪というよりは、単純に神と表現する方が良い気がする。火を扱う場所に祀られる神であり、家畜や家族を守る守護神のような存在であるとされる。

 紅葉は一歩踏み込んで、うつらうつらとしている夕炎に尋ねた。 


「どうして言ってくれなかったの?」

「聞かれなかったからな。水はいらない、と言ったが」

「……ああ、あれってそういうことだったんだ」


 夕炎は耐えられなくなった、というように大きく息を吸い込み、欠伸をした。

 妖怪の病であるとはいえ、そんな子どものような彼の姿に小さく微笑みながら、五十鈴は首を傾げた。

 

「それで、夕炎さんの探してる妖怪っていうのは」

「……龍燈(りゅうとう)


 ぽつりと呟く。五十鈴も、自らの記憶に刻みつけるように、同じようにその名前を呟いた。

 龍燈は怪火の一つであり、主に海の近辺に現れるものだ。

 五十鈴は念のためということで龍燈の名前を尋ねるが、夕炎はゆっくりと左右に首を振ってみせた。彼曰く、彼の捜している龍燈には名前というものがない。詳しく言うと、龍燈自身が名を捨ててしまい、“龍燈”以外の呼び方がないのだという。自身以外の同じ種族との区別を敢えてなくすために、そうしたのだと説明された。


「……協力するって言って、こんなこと言いたくはないんですが……海にいるはずの龍燈さんがこの世界に留まり続けて、正常な状態を保ってるかどうかの保証はできません」


 心底申し訳なさそうに五十鈴が俯くと、夕炎はぱっと顔を上げて、五十鈴をフォローするように言った。


「それは覚悟の上だ。向こうにいたときにも、海に似たような場所で過ごしていた。……だから尚更心配なんだ。どんな状態だっていい。とにかく、早く見つけてやりたいんだ」


 項垂れる夕炎に向かって笑みを浮かべると、五十鈴はそのままふっと目を伏せて小さく頷いた。


「五十鈴。ここから気配探すの?」

「うん、そうだね。二人と同じ、いつも以上に神経研ぎ澄ませるだけなんだけど……少し時間かかるかもしれない」


 すうっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。何度か深呼吸を繰り返し、紅葉たちから少しだけ離れた場所に立った。静寂の中、音の鳴らない小さな鈴飾りが風に揺れている。

 紅葉と理人はそれを見守りながらも、さりげなく辺りの気配を探し、夕炎も、次々に襲いかかってくる睡魔を払い除けつつ、じっとそれを眺めていた。




 どれほど時間が経過しただろうか。

 琥珀色の瞳が揺れ、僅かに開いた唇の隙間から、一気に息が漏れ出した。これまでの集中力はどこへやら、五十鈴は脱力し、ぐっと伸びをする。

 

「んー……それっぽい気配なら見つけた」

「本当!?」


 ぱあっと輝く紅葉に対し、五十鈴は制するように片手を突き出した。


「確信持って言えるわけじゃないよ。それに、何だか気配の場所が……」

「どうかした?」

「紅葉と理人くんの家辺りだと思う」


 一瞬にして空気が凍りつく。

 それもそのはず、今日は稜冶も茜も用事があって、家にはいないはずなのだ。残された人間の安否が気になる。


「近、すぎない?」

「最近この辺りを彷徨ってたのかもね。それで今はたまたま、古屋敷家にいるんじゃないかな。……あ、いや、本当に龍燈さんか分からないんだけど」

「分からないって……」


 五十鈴は微かに唸り声を上げながら、静かに目を細めた。


「龍燈さんらしき気配は確かにそこにあるよ。けど、人の気配と混じってる」

「そ、それって、もしかしてそよちゃんが……!」


 五十鈴は小さく頷き、鞄を引き寄せ肩に掛ける。何か思い当たる節があるとでも言いたげに、くるりと夕炎の方を振り返った。


「夕炎さん、行きましょう。もしかしたら龍燈さんは、人間に憑依している可能性があります」

「まさか……龍燈はそんなことをする奴ではない」

「確かに、元の龍燈さんはそういう妖怪ではないかもしれません。けれど、もしも正常な状態ではなかったとしたら、憑依するのも絶対にあり得ないと断言できません」


 五十鈴は淡々と続けると、制服のスカートを揺らしながら踵を返し、社を離れようと足を進めた。

 紅葉と理人も慌ててその背を追いかける。夕炎も真っ赤に染まった足を地に付けた。痺れるような痛みを堪え、鉛のように重くなったそれを引き摺りながら、大切な友人との再会を果たすため、三人の後を追った。




 ざっくりとした目的地は古屋敷家周辺ということになっていたのだが、五十鈴が「あっち」「こっち」と先導していくうちに、あっという間に本来の目的地へと辿り着いた。

 やはりというべきなのか、そこは紅葉と理人が見慣れた家である。

 家を出たときには何もない普段通りの我が家だったというのに、今、玄関の前に立って感じる気配。確かに妖怪の気配がすぐ傍にあった。それも、穏やかなものではない。

 

「タイミング悪いな。そよかしかいないってのに」

「……そよかさんは、妖怪と交流できないの?」

「見えるみたいだし交流はできるだろうけど、あいつは帰し屋じゃないからな。襲われたら対処できないはずだ」


 理人の説明に相槌を打ちながら、五十鈴は二階の窓を見つめた。

 僅かに遅れて来た夕炎は、三人を押し退けて慌ただしく古屋敷の玄関を開ける。


「龍燈! 龍燈、いるのか!? 返事をしてくれ!」


 形振り構わず、バタバタと家中を駆け回る。

 三人もその後に続き、家の中へ入ると、真っ先に階段の一段目に片足を乗せた五十鈴が夕炎に声を掛けた。


「夕炎さん、こっちです」


 彼女を先頭にして階段を駆け上がり、とある一室の襖に手を添える。紅葉の部屋と理人の部屋よりも奥の、何にも使われていない小さな和室だ。


「夕炎さん。この中にいる龍燈さんは、貴方の知っている龍燈さんじゃないかもしれない。もしそうだったら、夕炎さんの力も貸してください」

「……分かっている。当たり前だ」


 五十鈴はふっと柔らかく微笑んだ。友人を求めるあまりに興奮状態に陥ってしまった夕炎を、少しでも冷静にさせるために一言声を掛けたのだろう。彼女は一気に襖を開けた。

 畳が敷き詰められただけの部屋。薄暗く、定期的に掃除されていたとはいえ、若干の湿っぽさがある。

 その部屋の中央、長い髪をべたりと畳に這わせ、小さく縮こまっている人影が、ゆっくりとこちらに視線を移した。


「そ、そよ、ちゃん……?」


 流れるような黒髪の隙間から、きらりと澄んだ漆黒の瞳が覗く。そんな澄んだ瞳でありながら、表情は憎悪と悲しみに塗れていて、普段の温厚なそよかの面影はない。

 しかしそれは、紛れもなく、風戸そよかの姿なのである。


「そよちゃん!!」

「やめろ紅葉。下手に手を出すな」


 理人に止められ、冷たい汗が、紅葉の頬を伝った。

 隣で無機質な視線を送っていた五十鈴を押し退けるようにして、夕炎は、大切な友人との再会を果たすべく、畳の上に足を滑らせた。


「……龍燈、そこに、そこにいるのか!?」


 左右に体を揺らしながら、ゆらりとそよかが立ち上がる。夕炎に向けられているはずの澄んだ瞳には、困ったように微笑む夕炎の姿は映っていなかった。


『……離れろ』

「龍燈……?」

『私から、離れろッ!!』


 そよかのようでいて、そよかではない声が狭い和室に響き渡る。

 彼女は強い力で、自身よりも背の高い夕炎の体を突き飛ばすと、僅かに前のめりになって胸元を両手で押さえ始めた。その途端、真っ青な炎がその両手を包み込むように燃え上がる。

 悪霊に憑かれたかのように呻き出した彼女に、夕炎は彼女の言葉を無視して駆け寄る。小さな肩を掴み、その体を揺さぶる。


「りゅ、龍燈、聞こえるか? 私だ、夕炎だ!!」

『ゆう、え……?』

「そうだ、お前の友だ! 一緒に帰ろう。お前のことをずっと探していたんだ!!」

『……ゆう、え、ぐ、ぐあッ!!』


 一度大きく呻いたそよかは、いや、龍燈は、勢いよく畳の上に転がった。苦しみにもがき、喘ぎ、畳に爪を立てる。青い炎は飛び火したように体のあちこちで不規則に燃え上がり始めた。

 それを見ていた理人が、ぽつりと呟く。


「……おかしいな」


 五十鈴はそれを受けて、こくりと頷き、続ける。


「夕炎さんの名前を呼んだってことは、完全に自我がなくなったわけじゃないはず。夕炎さんが上手く語りかけてくれれば、離れてくれると思ったんだけど」

「……じゃあ、そよかから出ようとはしてるのか?」

「多分。自我があるからって、完璧に正常な龍燈さんだとは言い難いから何とも言えないけど」


 そよかが元々妖怪に憑依されやすい体質だということは、古屋敷家の人間ならば皆が知っていた。思えば、稜冶が彼女を帰し屋にしなかったのは、それも理由の一つだったような気がする。

 紅葉と理人も、実際そよかが憑依された場面に何度も出くわした。しかし、いつでも稜冶が対処していたため、適切な対応の仕方なんて知らないのだ。下手に手を出してしまえば、龍燈だけではなく、そよかも傷つけてしまうかもしれない。

 一体化しているが故に、青い炎でそよかの体が傷つくことはないだろうが、中の龍燈が苦しんでいるのは事実だ。稜冶の帰りを待つなど、悠長な選択肢は初めから用意されていない。


「どうしよ……このままじゃ、そよちゃんも龍燈も……!」


 一人狼狽える紅葉と、平静を装ってはいるものの、多少動揺している理人。どれだけ拒まれても龍燈を呼び続ける夕炎。その息苦しい空間の中、平静を保ちつつ微動だにせず、ただその光景をじっと眺めていたのは五十鈴ただ一人だった。

 親友を必死に呼び続ける声だけが、空しくその空間を漂っていた。


 

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