第三章 03 遠い心
翌朝。もう学校に向かわなければならない時間ではあるのだが、未だに寝込んでいる紅葉を見舞ってからにしようと、理人は彼女の部屋の戸に手を掛けた。
念のため一言だけ声をかけ、ほとんど音を立てずに襖を開けると、布団から、鼻から上だけを覗かせた紅葉がうっすらと目を開ける。
「悪い、起こしたか?」
「ちょっと前から起きてたし、大丈夫」
「具合どうなんだ?」
「んー……昨日とあんまり変わらないかな。情けないよね、ちょっと歩き回っただけでこれだもん」
「お前、昔から春はよく風邪ひいてたし、俺は不思議に思わなかったけど」
「そうだっけ?」
紅葉はとぼけたような笑顔を浮かべる。元気そうに振舞ってはいるものの、やはり声はいつもより弱弱しく、その表情もどこか気怠そうだ。頬も全体的に朱が抜けていない。
「九里には休むって伝えておく。あ、あと何か欲しいもんあるか? 帰りにでも買ってくるけど」
「いいよ、気遣わなくても。あ……ほら、もう行かないと遅刻するんじゃない?」
紅葉に追い出されるような形で、理人は和室を後にした。彼女にはああ言われたものの、帰りにプリンでも買ってこようかと思いながら家を出た。
それから昼休みまでは、特に何事もなく平穏に過ぎていった。
しかし、五時間目の終了間際、肩から背中に向かって滑るようにずしりと重い感覚が圧し掛かる。もはや日常茶飯事のそれは、近くに妖怪がいる証だった。
一時間ほど経過しても、背中の重みは消えてはいなかった。普段なら気配を感じたかと思えば一度消え、また現れたりするものなのだが、今日の気配は長いこと同じ場所に留まっている。何となく分かってはいた。あの二羽、もとい二人が近くに居続けているということを。
放課後の喧騒には目を向けず、まっすぐ教室を出ると、狙ったようなタイミングで隣のクラスから五十鈴が顔を出した。彼女は小さな笑みを浮かべ、理人の肩を叩いて呼び止める。
「これ、今日渡されたプリント。提出期限近いのもあるから、一応、今日紅葉に渡してもらってもいい?」
綺麗に揃えられた何枚かのプリントを差し出される。理人が受け取るのを見ると、五十鈴は思い出したように口を開いた。
「それと、紅葉の分の授業のノートはとっておいたから、安心してゆっくり休んでって伝えておいて」
「おう、了解。……今更だけど、お前すげえいい奴だよな。紅葉のことすごく考えてくれてるし」
「理人くんに勝てる気はしないよ」
からかうように五十鈴は小さく笑った。しかし、すぐにはっとして真顔に戻る。
「……と、あんまり長話しない方がいいよね。今日も烏さんに用事があるんだもんね」
「気づいてたのか」
「まあね。昨日の可愛い烏さん……と、もう一人いたけど」
笑いながら、五十鈴は廊下の窓から校門付近に視線を向けた。
「あ、おかえりなさいませ、理人兄様」
「遅い!!」
校門まで来ると、五十鈴が言っていたように、二つの影が佇んでいた。相も変わらず黒い羽をゆっくり上下させながら、満面の笑みを浮かべる漣と、その横で苛立ちの表情を浮かべる夕暮だ。気配を感じ始めたときから、ずっとこの場所に立っていたのかもしれない。
理人は疲労を込めた溜息を吐きつつ、二人を人目に付かない昨日の社へと誘導して行った。
「結局どうすることにしたわけ?」
「それが、まだ決まっていなくて」
「は? 決まってから来いって言っただろ?」
「だって……兄様ったら、ちっとも私の話を聞いてくれないんですもん」
ぷくっと頬を膨らませて、漣は拗ねるように顔を背けた。
どうやらこの兄妹喧嘩なんだかよく分からない争いは、理人が考えていたよりも単純に解決できるわけではないらしい。深刻な争いではないにしろ、どちらも面倒で頑固な意思を持っているせいで、状況が不動だ。
「だから、俺はお前を心配しているんだぞ! どうして分かってくれないんだ!」
「心配なんていらないって言っているじゃありませんか! 兄様は私を子ども扱いしすぎなんですよ」
「兄が妹を気にかけるのはおかしいことなのか? ごく当たり前のことだろう。それに加えて、こんな汚らわしい人間ごときを“兄”と呼ぶとは……」
「理人兄様は汚らわしくなんかありません!!」
そう叫ぶと、漣は静かに目を伏せ、理人の方を振り返った。
「昨日からずっとこんな調子なんです。理人兄様、どう思いますか?」
どうと聞かれても、と、困ったように、ちらっと夕暮に視線を移す。悪意があったわけではなく、ただ見ただけなのだが、一方の彼はギロリと理人を睨みつけてきた。
苦笑しつつ壊れかけた床に腰を下ろす。
「俺は、どっちの言い分も理解できる」
「ふん、曖昧な回答だな」
「実際そうなんだから仕方ないだろ。妹のことが心配だっていう気持ちも分かるし、それでも、いつまでも下に見られたくなくて、心配されなくても大丈夫だって、伝えたくなる気持ちも分かるんだよ」
「理人兄様……」
「どちみち、このままこの世界に居続けたらお前たちは死んじまうからな。最終的には町に帰すつもりでいるけど……帰ったところでその面倒な言い争いが収まるとも思えないしな」
たとえ漣が夕暮と離れたいと言って、この世界に残りたがったとしても、それは叶えられることではないだろう。残ったところで、彼女の末路は死以外に何もない。
そもそも、それは帰し屋としての仕事を放棄することになるし、何より夕暮がそれを許可するとも思えない。
漣の兄は夕暮ただ一人だけである。そのことを再認識させるための第一歩として、理人は彼女に告げた。
「とりあえず、漣は俺のことを兄って呼ぶな」
「何故ですか?」
「俺はお前の兄貴じゃない」
「……嫌、です」
目元に暗い影を落としながら漣は呟いた。
理人の視界の端に、漣と同じように小さく俯く夕暮が映る。思いの外、彼自身も本気で気にしているのかもしれない。背の翼が大げさにしょぼくれたように下がってしまっているのを見ると、彼が意外にも繊細な妖怪であることが分かった。
「お前の兄貴は夕暮だけだろ。お前のことを一番大切に想っていて、一番守りたがってるのはあいつだけなんだよ。まあ、限度ってのはあるけどさ……ちゃんと受け止めてやってくれよ」
爽やかな風が、さあっと吹き抜ける。
漣は黙り込み、袖口から微かに見える拳をギリギリと握りしめていた。涙を堪えるかのように一度ぐっと歯を食いしばると、僅かに緩めた唇の隙間から、細々と言葉を紡ぎ始める。
「でも……それでも私は、いつまでも兄様に頼っていられない。守られてばっかりじゃ、私は……」
自身に言い聞かせるように、次々と言葉が漏れ出す。いつもの丁寧な言葉はどこかへ行ったのか、少しだけ砕けた言葉が異様な雰囲気を生み出していた。
明らかに様子のおかしい彼女の肩に、理人がそっと手を掛けようとしたそのときだった。
大きな羽音。木の葉が擦れる音。枝が揺れ、折れる音。木々たちの悲鳴。静寂が漂っていたその空間に、突然様々な自然の音が溢れる。
林の中に身を潜めていたらしい烏たちが、悲痛な鳴き声を上げて一斉に飛び立ったのだ。彼らは広い空に黒い斑点を描くと、あっという間に見えなくなった。
しかし、周囲のざわめきは一向に静まる気配がない。
「何だ……?」
「り、理人兄様、早くここを離れましょう」
「え?」
「妖怪です。すぐ近くにいます……!!」
咄嗟に漣は理人の制服の裾を掴んで逃げ出すよう促すが、帰し屋である以上、妖怪が怖くて引き下がることなんてできない。
「お前は夕暮と一緒にここを離れろ。俺は帰し屋だ。妖怪を帰さなきゃ、その意味がないだろ」
「で、でも、危険です!」
漣が必死な声で訴えるが、理人は逃げるつもりはなかった。
木の葉の擦れ合う音が一際大きく響き渡り、強烈な妖気を放つその正体が、木の枝を辺りに散らすように折りながら姿を現す。
一見蠍にも見えるそれは、日光に反射して光る大きな鋏を掲げ、真っ赤に燃えた瞳をこちらに向けている。
「……網切か?」
見るからに硬そうなその鋏に竹刀は太刀打ちできないかもしれないが、ないよりはましだというように理人はぐっと竹刀を構える。
ついでに帰すための札も隠し持った。本当なら問答無用で帰したくはないけれど、もし網切が正気を保っておらず、且つこちらを襲ってきたとしたら、そのときは無理に帰す以外に解決策を見つけるのが困難なのである。
網切は戦闘態勢に入った理人の姿を視界に入れると、大きな鋏をゆらりとかざして一度身を縮ませた。
空中を泳ぐように一気に体を伸ばし、理人目掛けて突っ込んで来る。しかしその速さは、見た目よりもずっと速い。
「はや……ッ!?」
鈍い音と共に鋏と竹刀がぶつかり、さすがに支えきれなかったその衝撃により、理人の体が数メートルほど地に投げ出される。
あまりの勢いに竹刀が折れてしまったのではないかとも思ったが、辛うじて唯一の武器と呼べるそれは無傷を保っていた。ほっと一安心する間もなく、それを片手に立ち上がる。
しかし、先ほどと打って変わってゆっくりと方向転換した網切の瞳に、もう理人の姿は映っていなかった。代わりに映っていたのは、理人の近くにいたはずの、怯えた顔をした小さな鴉天狗。
「漣、逃げろ!!」
「や……きゃああああぁッ!!」
振り下ろされた鋏を間一髪かわして転がる。
体は無事であるが、漣がいた場所には綺麗な長い黒髪の束が舞い落ちていた。見ると、漣の結われた長い髪が片方だけ、大分短くなっている。
「……う、ああ……」
逃げようにも恐怖から体に力が入らないのか、漣は立ち上がろうとしない。下駄は足を離れ、傍に転がってしまっている。足に力を入れようとするが、地面の上をずるずると滑るだけで、体を支える役目は果たせそうにない。
涙を滲ませながら出会ったときのようにガタガタと震え、ただただ網切の瞳を凝視している。
網切は、切るというよりも刺すというように、鋏を振りかぶった。
「漣っ!」
理人が走り出すよりも先に、彼の横を風が吹き抜ける。
直後、微かに聞こえた重い音。それが何を意味しているのか、理解するには少々時間を要した。
ようやく頭が回り始めたのは、漣の震える声が聞こえてからだった。
「に、にい……さ、ま?」
少し前まで無言のまま佇んでいた夕暮が、漣の前に立っていた。
目元は風に揺れる黒髪と、それによって作られた濃い影で見ることができない。けれど、妹の震える声に反応してゆっくり振り返った彼の口は、微かに息を漏らし、僅かに口角を上げた。
「夕暮……?」
理人も呼びかけてみるが、彼からの返事はない。
確実に分かることは、夕暮の体に、鋏が深く刺さっているということだけだった。




