第三章 02 兄妹喧嘩
「お前、律儀だな」
「律儀? 何のことですか?」
昼休みの怯えようはどこへやら、漣はにこにこと微笑みながら理人を迎えた。見方によっては嬉しそうに見えるのが謎だ。
自ら町に帰ることを望む妖怪ならまだしも、帰ることを望まない妖怪が、ご丁寧に再び帰し屋の前に現れるなんてありえないに近い。だから理人も、普段通りに、口では“来い”と言いながら、後で漣を捜し出して話を聞こうかと思っていたのだ。
「理人様が来いって言ったんじゃありませんか。……もしかして、ご迷惑でしたか?」
「い、いや、手間が省けて良かった」
理人が鞄を肩に掛け直しながら言うと、漣は羽をゆっくり上下に揺らしながら笑った。
「それで、話というのは……」
「ここではできないから、ちょっと付いて来い」
少々時間が遅くなったとはいえ、部活に入っていないと思われる生徒が昇降口に佇んでいるのが見えるため、理人は場所を移そうと道を外れた。大体の人間には、理人が独り言を呟いているように見えるのだから仕方がない。
漣を連れて、細い枝を掻き分け進んだ先にあるのは、屋根が崩れかけ、柱が腐った社だった。
剥がれつつあるがまだ無事らしい床に腰を下ろす。
「この町には、随分とたくさんの社があるんですね。飛び回っているときにもいくつか見かけました。でも……」
「そこに神は宿っていない、だろ?」
「はい」
「それでもここの人間は、社を壊すのが怖いんだとよ。こんだけ廃れりゃ壊れたも同然なのにな」
戸惑うようにぽつんと立ち尽くしていた漣を適当に隣に座らせる。
話を開始しようとしたとき、授業中はどうにか静かに眠っていた腹の虫が、緊張から抜け出したように一気に騒ぎ出した。徐に鞄からすっかり冷え切った弁当箱を取り出し、蓋を開ける。
「悪い。食いながらでもいいか?」
「え? は、はい」
返事をされるや否や、箸を手に取り次々と仄かな温かみも感じられないおかずを胃に押し込める。味にはさほど変化はなく、いつも通り美味だ。
「で、どうして帰りたくないなんて言うんだよ。ここにいたって、お前の死期が早まるだけなんだぞ?」
「……そうなんですか? よ、妖怪って死ぬものなんですか!?」
「知らないのか?」
「ま、全く。私はただ、こっちの世界で自立を、と思って……」
「自立?」
ぴたりと箸の動きを止めて隣を見ると、漣ははっとして顔を上げる。困ったように首を傾げながら指を絡ませて、しどろもどろになりながらも言葉を紡ぎ始めた。
「え、えっと……私、兄がいて、夕暮っていうんですけど」
「その兄貴が、お前に自立しろとでも?」
「いえ、その逆で」
へにゃりと苦笑してみせる。それに合わせたように黒い翼は床にぺたりと横たわった。
「あの、兄様は心配性といいますか、私を気にかけすぎていて……」
「いい兄さんじゃないか」
「いえ、度合いが酷くて……私と少しでも離れるだけで、わーわー騒ぐような人なんですけど」
理人は即座に心の中で前言撤回した。同時に、まだ会ったこともない漣の兄に、シスコンというレッテルを貼り付ける。
恐らく、その兄からしてみれば大切な妹を相応に可愛がり、大事にしているだけなのだろうけれど、妹にとってみれば、暑苦しく妹離れのできていない兄という扱いになってしまうのだろう。
「それで、私は心配なんかいらないってことを見せつけるために、自立しようと思ったんです」
「で、気が済むまでは帰りたくないってわけか」
漣は小さく頷いた。
漣がこの世界で一人暮らしをしたところで、過保護な兄が簡単に彼女の自立を許すかどうかは分からないが、理人は大方事情を把握した。
兎にも角にも、彼女に兄がいると知った今、町に帰すのなら夕暮と一緒の方がいいだろう。その前に兄妹を話し合わせる必要がありそうだが、兄を捜さなければ何も始まらない。
「今シスコ、じゃねえや、兄貴はどこにいるんだ?」
「……え、えっと、分かりません。姿を本物の烏に変えて、あちこち飛び回っているみたいです……。たぶん、私のことを監視しているんだと思います」
「ストーカーか」
身震いしつつ再びおかずを口に運び始めると、もう自分から話すことはなくなったらしい漣が、まじまじと理人の横顔を眺めていた。
「何だ?」
「へっ!? あ、う、すみませ……」
「いや、別に謝らなくてもいいんだけど……腹減ってる、ってわけじゃないよな」
漣は慌てて首を左右に振った。理人の弁当を見ていたわけではないらしい。
こういう反応をする女子に見覚えがある。理人のことを好いているらしい女子生徒の中に、こういうタイプもいたような気がする。少し口を開くだけで顔を真っ赤にして、はっきり物事を言えなくなる姿が今の漣に似通っていた。
「兄様の話と違うなって思って」
「え?」
「に、人間は皆、とても恐ろしいものだと聞いていました。……でも、理人様はとてもお優しい方です。ちょっと意外でした」
漣はそう言って頬を緩ませた。
人間が恐ろしいものだと思っていたというなら、昼間の屋上で異常なほど怯えていたのにも納得がいく。割とすんなり心を許してくれたのは、理人が害を及ぼすような凶悪な人間ではないということを察したからだろう。祓い屋を除けば皆、害を及ぼすような人間ではないと思うが、それでも漣は、理人は特別優しいとでもいうように微笑んだ。
「今は兄様がいないので言いますけど、今は理人様が兄様に見えてきます」
「シスコンと一緒にされてもなあ……」
「しす?」
「こっちの話だ。気にするな」
理人は弁当を綺麗に平らげ、社の床から腰を上げた。
「あ、あの、理人様……私は、これからどうすれば……」
「どうするもこうするも、お前の気が済むまで俺は帰したりしない。つっても、眠にかかる前には帰したいところなんだけどな。もちろん、兄妹揃ってな」
漣は翼を僅かに広げ、音も立てずに地面に降り立った。
何か言いたげに薄く口を開くと、その瞬間、理人と漣の間に、トラックが走った後のような、いや、それよりももっと強烈な風が通り抜ける。
「きゃっ!!」
長く流れるような漆黒のツインテールが強風にさらわれる。
しかし、驚くほどその風は一瞬の出来事であり、すぐに何事もなかったかのように、夕方の空や木々は平和を告げていた。
「今の何だ? ピンポイントすぎるだろ」
「……もしかして」
「あ、おい、漣?」
顔に影を作りながら、漣はふらふらとした足取りで木々の奥へと進んで行った。理人の問いかけにも耳を貸さず、ただただ不安そうな、それでいてこの世の終わりのような顔をしている。
竹刀の入った袋を片手に、慌てて理人がその後を追うが、漣は少し進んですぐにその足を止めた。
目線にあるのはどこにでもいる、それこそ昼休みにも見た黒い鳥類。地面に足をつけた一羽の烏は、赤い目を怪しく光らせてこちらをじっと睨みつけていた。
「漣、これは……」
問いかけるが、彼女は何も答えないまま、目の前の烏をじっと見つめていた。真っ直ぐ切り揃えられた前髪の下、眉が僅かに寄せられる。
地の底から温泉が湧き出るように、突然烏の真下から竜巻が起こり、その黒い影を包み込む。
その一瞬の光景に目を奪われているうちに烏の姿は消え、代わりに男が一人。
風に揺れる黒髪、真っ赤な瞳、漆黒の袴と背中にぴたりと貼りつくように生える翼。体格と髪型以外は漣となんら変わりないが、理人を見る目は明らかに漣のそれとは違う。もっと鋭く、怒りを滲ませた瞳だ。
漣は唇の隙間から小さく息を漏らすと、消え入りそうな声で呟いた。
「……兄、様……」
ぐったりとした様子で理人は古屋敷家の玄関に飛び込んだ。
どさ、と鞄を投げ捨てるように置いた音に気付いたらしく、奥の部屋から茜がひょっこりと顔を出す。
「おかえり。酷い顔してんな」
「ちょっと妖怪に絡まれて……」
「へえ、ご苦労さん。後で話聞かせなよね」
「あれ……そういえば紅葉は?」
チョコの欠片を咥えながら、茜は器用に話した。
「今はそよかが看病してる。熱でぐったりはしてるけど、たぶんただの風邪だろうね。理人も気をつけろよ」
「……そっか」
「で、何があったんだよ」
夕飯後、向かいに座る茜はそう尋ねてきた。
彼女は、よく紅葉と理人の話を聞きたがる。それが今の楽しみだとか何とか言っていたこともあったが、恐らく自身が職場に勤めるようになって、あまり妖怪と接触しなくなったからなのだろう。今回もどこか楽しそうというか、あからさまににやにやしていた。
姉として、そして師匠として慕う彼女を見やり、理人はつい先ほどの出来事を話し出した。
「兄様……ってこいつがお前の?」
漣は返事をせず、驚きを隠せないといった様子で目の前の男を凝視し続けている。
しかし、見られている男の瞳に漣の姿は映らない。怒りばかりが募るその視線は、確実に理人だけを捉えていた。
「漣、この男は誰だ。人間じゃないか」
「かっ、帰し屋の、理人様、です……」
「お前、帰りたいのか?」
「ち、違います!」
男はゆっくりと漣に近づき、手を伸ばした。
一方の漣の体はびくりと震え、後ずさりの準備というように右足が一歩下がる。漣がぎゅうっと目を瞑った瞬間、彼女の肩ががしりと掴まれた。
「帰りたいならそう言ってくれよ漣っ!!」
「だっ、だから違うって言ってるじゃないですか!」
「何故よりによって男なんだ!? 帰し屋には女もいるだろう? お前が俺以外の男と並んで一緒にいるなんて……お前の兄様は悲しいぞ!!」
「に、兄様! 離してください!!」
怒りの視線はどこに行ってしまったのか、男は涙目だった。漣はそんな兄を見つめながら、容赦なく声を張り上げる。
少し離れた場所で、理人は置いて行かれたようにその光景を眺めていた。助けるべきだろうか、とも考えるが、兄妹喧嘩に出す手はないだろう。そもそもこれが喧嘩なのかどうかも危ういところだ。
「私は兄様とばかり一緒にいられません!」
「傷ついた! お前の兄様は心に深い傷を負ったぞ!!」
「そんなこと言って泣いたって無駄ですよ! 私は自立するって決めたんですから!」
「お前は兄と一緒にいて、何か嫌なことでもあるというのか!?」
「あります! 今この状況だってそうです!」
怯えていた小動物的少女はどこへやら、漣は言い争いで優勢だった。
実兄ということは夕暮という名を持つのであろう男は、漣から手を離し、代わりに理人を視界に入れると、ずかずかと詰め寄って来る。理人はぎょっとして後退りしかけた。
「お前か! 俺の可愛い妹を唆した奴は!」
「え、そ、唆した覚えはないんだけど……?」
「問答無用! 今ここでお前を殺してやるッ!!」
「はあ!?」
夕暮は元々白い顔を真っ赤に染め、懐から扇を取り出した。背から生えた翼と同じ色をしたそれを振りかざし、そのまま理人目掛けて飛び掛かる。
何が何だか分からないまま、反射的に理人は背負っていた筒から竹刀を抜き取り、思い切り夕暮の脇腹に叩き付けた。
「ぐはッ!!」
いともあっさり、夕暮がごろんと地面の上に転がる。
「あっ、悪い、つい……!」
「理人様、お強いのですね。本当の兄にしたいくらいです」
ぽかんと口を開けながら、漣は小さく拍手を送る。
夕暮はゆっくりと立ち上がると、やっちまったという風に竹刀を収める理人を睨み付けた。その瞳は相変わらず潤んでいて、怖さというものはほとんど感じられない。
「く……くっ、そお!!」
「おい漣、こいつ本当にお前の兄貴か?」
「残念ですが、正真正銘、私の兄の夕暮兄様です」
「あ、漣! 勝手にそいつと話すな!!」
喚く夕暮に、漣は真っ直ぐ向き直った。その赤い目には力強さが感じられる。
「兄様、言ったはずです。私は一人でも生きていくことができます。だから、私のことは心配しないでください」
「お前はいつになっても俺の大切な妹だ。心配するのが当然のことだろう!」
「兄様の心配は重いんです!!」
第二ラウンド開始のゴングが頭の中で鳴り響いた。再び兄妹喧嘩から置いて行かれた理人は、何も口出しせずにその光景を傍観するしかない。
正直なところ、夕暮の言い分も漣の言い分も分からなくもない、いや、むしろどちらもよく理解できるのだ。そのせいで、どう解決すればいいのかもいまいち見当がついていなかった。
「ほう、それでどうなったんだ?」
「……とりあえず、力業で言い争いは止めた」
「帰したのか?」
「いや、妹の方がどうしても帰りたくないって言うし、今日はそのまま解散」
最終的に、漣は理人のことを“兄様”と呼ぶほど慕い始めてしまい、一方の夕暮は終始理人を睨み続けていた。もはや嫉妬の塊だ。
本日は解散という形にしたものの、律儀な漣のことだ。近いうちに再会するだろう。そのときにはきちんと話し合い、兄妹揃って町に帰さねばならない。
小さくため息を吐き、白い天井を見上げる。
そのまま静かに目を閉じると、どこかで言い争いをする烏の声が聞こえてくるようだった。




