第三章 01 漆黒の羽
悪鬼の妖怪を町に送り帰した、その翌日。
紅葉の朝は、当然というべきなのか気分爽快なものではなかった。一つの別れの寂しさが胸に残る中、歩き続けた疲労は未だに全身を襲い、追い打ちをかけるように、僅かだが体温も上昇していた。
悲鳴を上げる体を無理やり動かし、騒がしい教室の戸を開ける。同じクラスの生徒たちは喧騒の中を漂い、誰一人として紅葉の方を振り向かなかった。
その中で唯一、まるで別世界にでもいるかのように涼しい顔をして微笑む少女が一人。
「おはよう、紅葉」
「おはよう」
紅葉が来るのを待っていた、という様子で、彼女は片手をひらひらと動かした。
紅葉が着席するなり、五十鈴は丸く大きな琥珀色の瞳を紅葉に向けて言う。
「大丈夫? 昨日はびっくりしたよ。急に休むなんて言うから」
「え?」
「朝、理人くんが私の所に来てね。理人くんも驚いてたよ。ま、事情は察してたみたいだけどね」
「う……ごめん」
いいよ、と五十鈴は笑った。
「五十鈴が携帯持ってたら、私も好きなときに色々連絡できるのに。もしかして五十鈴の親って厳しいの?」
「え、何で? そんなんじゃないよ。私にはまだ必要ないかなって思って」
五十鈴は携帯を所持していなければ、他の連絡手段を絶対に人に教えないし、放課後も掃除当番のとき以外は、ほぼ無駄話をせずに学校を出る。それでいて頭脳明晰で常に学年トップに落ち着いている彼女を知るクラスメートたちの間では、彼女の親が教育熱心で厳しい、という噂が生まれていた。
「噂は嘘なのかな……」
「ああ、それなら私も聞いたことあるよ。でも皆が言ってるようなことはないし、安心して」
言いながら、五十鈴は琥珀の視線を窓の外に向けた。ぼうっと遠くを眺める透き通るような琥珀色が、光に照らされて水面のように煌めく。
ほんの少しの間真剣な顔をしたかと思うと、困ったように眉の端を下げて笑ってみせた。
「また何か近くにいるなあ」
「妖怪?」
「そ。……ま、危険な感じはしないから大丈夫だと思うけどね」
紅葉はふっと笑って空を眺めた。
微かに感じられる妖怪の気配の中を、真っ黒な鳥の群れが羽ばたいて行くのが視界に入った。
昼休み。
やっとの思いで女子の群れから這い出してきた理人は、弁当の包みとパックのジュースを手に、ふらふらと屋上へ続く階段を上った。
「たまには教室で飯食わせろっての……あれ?」
重く開いた扉の向こうに、普段いるはずの女生徒二人の姿は見えない。
携帯の時計に視線を移してみると、気づかないうちに昼休み開始から相当の時間が経過していた。
「もうこんな時間か。あいつら先に戻っちまったのかなあ」
深い溜息と共に、屋上の僅かなスペースに作られた日陰に腰を下ろす。ひんやりと冷たい床が心地良い。
学校内で救いとなる二人がいないのだから仕方ない。他にももちろん友人はいるのだが、今から教室に戻るのも気まずいというものだ。羞恥と喧騒で不快な気分になるよりましだというように、理人は一人で食事を開始すべく、弁当の包みを解いた。そよか特製の弁当は、冷めていても十分美味しそうに見える。
彼女に感謝しつつ、無言のまま両手を合わせる。いざ食べようとすると、目の前に真っ黒い羽がふわりと落ちてきた。
その瞬間。
「うわっ!?」
とてつもなく大きな羽音と共に、理人の頭上を一羽の烏が過ぎ去って行った。間一髪頭を下げたから良かったものの、あと少し遅ければ確実に顔面に直撃していただろう。烏に避ける気があったのかどうかは別として。
ぶつからずに済んで良かった、と安堵したのも束の間、再び五羽ほどの漆黒の鳥が、連なって頭上を通過して行った。まさかただの鳥に恐怖心を覚える日が来るとは思わなかった。
「何なんだよ……」
落ち着いて食事ができないことに対して苛立ちを覚え始める。
場所を変えようかと蓋を閉めた弁当箱を片手に立ち上がったとき、出来ればスルーしたかったものが視界の端に映った。
屋上の端の方に並ぶ、いくつかの真っ白なベンチ。そのうち一つのベンチの足をぎゅっと握り、身を隠すようにしゃがみ込んでぷるぷると震える“それ”。雨に濡れ、行き場を失った子犬を思わせる。
「あー……」
確認するまでもなく、それは妖怪だ。
理人の視線に気づいたのか、びくっと肩を震わせて、より一層小さく縮こまる。それでも隠しきれずに白いベンチからはみ出て見える、真っ黒いもの。先ほどの烏たちを連想させる、漆黒の翼がそこにはあった。
露骨に嫌な顔をしつつも見逃すに見逃せなかった理人は、ゆっくりとそのベンチに近づく。見た目臆病そうでも実際凶暴だった妖怪はそれなりに見てきているため、自然と警戒心が生まれていたが、十秒も経たないうちにそんな警戒は無駄だと分かった。
「なあ」
「ふあッ!! はいッ!?」
目の前の少女は大きく震え、声が裏返りながらも叫ぶように返事をした。
「いや、そんなに怯えなくても」
「……す、すみません。あ、あの、私のこと、み、見えるんですか……?」
「一応帰し屋だからな」
「か、帰し屋、様……? じゃあ、烏たちの話は本当だったのですね」
少女は勝手に納得したように頷いた。それでも一向に立ち上がろうとはしない。それに加えて、理人は先ほどから彼女を眺めているのだが、彼女の方は、一度も理人の姿を直視しようとはしない。
「で、お前何なんだ」
「何なんだ、といいますと……?」
「何者か、どうしてそんな所にいるのか、ってこと」
理人がそう尋ねながら隣のベンチに弁当箱を置き、自身も腰を落ち着かせる。それと同時に、少女も申し訳なさそうに徐に立ち上がった。
漆黒の翼と、同じ色をした袴と長いツインテールが揺れる。真っ赤に燃える瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。小柄で細身なその外見に、少し尖ったことを口にすれば喚き始めそうな表情。本当に小動物のような少女だ。
彼女は指先を絡め、もじもじとしながらも口を開く。
「あ、あの、私の烏たちが言うこと聞いてくれなくて……一生懸命追いかけたら、その、貴方のお邪魔をしてしまっていたようで、ご、ごめんなさい」
「あの烏、お前のなのか?」
「一応は……。使いになってもらおうとしたんですけど、なかなか上手く操れなくて」
「……なるほどな。お前、鴉天狗か」
少女はこくりと頷いた。
どうやら凶悪な妖怪ではないらしい。むしろ妖怪にしては素直すぎるような気もする。顔を朱に染めて未だに自信なさげに佇むその姿は、一見するとただの人見知りの少女だ。過去の紅葉の姿が、ぼんやりと重なる。世の男は、こういう異性を守ってやりたいと思うものなのかもしれない。
「……なみ」
「ん?」
「わ、私、漣って、いいます……」
何も聞いていないのに自分から名乗り出た。さらに、結われた長い黒髪が床に付くほど深々とお辞儀をするその姿は、一般人が考える妖怪とは似ても似つかないだろう。理人自身も実際、ここまでのうっとおしいほど礼儀正しい妖怪はほとんど見たことがない。
「あ、ああ、俺は結城理人。で、漣。いきなりで悪いんだけどさ」
「は、はい!」
「お前のこと、できることならこの場で町に帰したいんだが……」
理人は制服のポケットから札を取り出した。それを見た漣は、一度肩をびくりと震わせたかと思うと、無言のまま小さく俯く。
理人はてっきり、これくらい素直な妖怪なら、これまた素直に聞き入れてくれるものだと思っていた。しかし、現実はそう上手くいかないようで、漣は沈黙の後に意外な返答をした。
「それは、嫌です」
「は?」
「え、うあ、あの……別に、帰るのが嫌なんじゃなくて、その、今すぐ帰るのが嫌っていうか、ええっと……」
ぱたぱたと手を上下させながら漣は弁解を始めた。どうやら理人がつい発した疑問符付きの声を聞き、彼が怒っているとでも勘違いしたらしい。元々赤かった頬はさらに朱を濃くしてしまった。
一方の理人は特に怒っているというわけではなく、単に怯えた小動物的だった漣が、はっきり「嫌だ」と告げたことに驚いているだけだったのだ。
「う、と、とにかく、今はごめんなさい……ッ!」
「何か理由でもあるのか?」
ポケットに札を押し込みながら尋ねる。
漣は答えるべきか悩んでいるようで、黒髪のツインテールをぎゅっと握りしめながら真っ赤な瞳を濡らしていた。唇はぎゅうっと噛みしめられ、早々返答する気はないのだろうな、と、心のどこかで悟った。
そのとき、校内に単調な音が響き渡る。音楽とも呼べないそれは、五時間目開始五分前、つまり昼休み終了の合図だった。
「結局弁当食えなかった……」
「あ、あっ、ごっ、ごめんなさい!!」
「いや、お前が悪いわけじゃないけど……ま、いいか。漣、後で俺の所に来いよ」
「え?」
「まだ話は終わってないだろ」
理人の言葉に、勢いよく、且つ何度も繰り返して頷く鴉天狗の少女の顔は、どこか嬉しそうに見えた。
その日の放課後。
どうせなら帰し屋二人で漣を捜しに行こうかと、紅葉を迎えに行くために彼女のクラスに顔を出した理人は、当の本人の机周辺が妙に綺麗なことに気が付いた。紅葉の鞄も見当たらない。
不思議に思い首を傾げると、突然後ろから肩を叩かれる。振り返ると、そこにはにこやかな笑みを浮かべる五十鈴の姿があった。
「九里……? 珍しいな。いつもならさっさと帰るのに」
「今日の掃除当番代わってって頼まれて、さっきやっと終わったところ。それと、理人くんを探してて。丁度良かった」
「え、俺を?」
「あの子……紅葉、疲れが溜まってるのか昼休みに早退しちゃってね。それを伝えるために」
紅葉が昨日学校を欠席して何をしていたかということは、理人も知っていた。何の前触れもなく休むと言い出したということは、どうせ妖怪絡みなんだろうなとも察することができていた。一日中歩き回っていたのだ。疲労が溜まっていてもおかしくはない。早退したということは、昼休みに彼女たちが屋上にいなかったのも納得できる。
「了解。サンキュな、九里」
「どういたしまして。紅葉には、お大事にって伝えておいて。……ああ、それとついでなんだけど」
意味ありげに微笑み、何度か周りを確認すると、五十鈴は内緒話をするように声を潜めた。
恐らく理人のクラスの女生徒がいないかを確認したのだろう。続く理人に告げた言葉は、聞く人によっては誤解を生むようなものだった。こういう気遣いには、本当に頭が上がらない。
「さっきたまたま見かけたんだけど、校門前で待ってる子がいるよ」
「え?」
「勘だけど、あの子が待ってるのは理人くんだと思ってね。違う?」
可愛い烏さん、と五十鈴は小さく呟いた。確実にそれは漣のことで、五十鈴も妖怪だと分かっていて理人にこう言ってきたのだろう。彼女の顔は、どことなく楽しそうに見えた。
「違わない、と思う」
「ふふ、じゃあ早く行ってあげて。呼び止めちゃってごめんね。じゃ、また明日」
「あ、ああ。じゃあな」
楽しそうに手を振る五十鈴と別れ、理人は真っ直ぐ昇降口へ向けて歩いた。靴を履き替える時点で、確かに昼と同じ気配を感じる。
昇降口を出てずんずんと歩き、校門から一歩外に出ると、嬉しそうな声色で名が呼ばれた。
「り、理人様!」
振り返った先には、他校の男子に愛の告白でもしようという風に佇む袴姿の少女。これが制服姿の女子だったなら、何の不思議もない自然な光景だっただろうが、理人を待っていた少女の背からは、飾りでも何でもなく、本物の黒い羽が手のように伸びていた。
嬉しそうな声や輝く赤い目、理人の姿を見つけてぴょこぴょこと跳ねてくるその姿は、どこからどう見ても主人を待つ従順な子犬。彼女はいつの間にか、理人への警戒心など忘れてしまったようだった。




