ブレックファスト・クラブ
折角マイページを作ったのに、作品があまりにも増えないのが申し訳なくて、過去の二次創作作品からオリジナル小説に編集しなおせるものを選んで、書き直した作品をのせることしました。そういう事情からかなり大ざっぱで粗の多い作品ですが、大目に見てやってください。
こんな裏技でも使わないと、半年に一回ぐらいしか更新しなさそうで(汗)
そんなものでよければ、感想お寄せください。
冬の朝の冷気は凶器になる。通勤ラッシュ直前の、眠りから冷め切ってないようなオフィス街を、真知子は見えない針から逃げるように急いだ。それらは彼女の頬と鼻先を、艶もなく真っ赤にしていく。彼女は自分の吐く息の白さに驚き、その度に、敬一に少しずつ恨みを抱いた。
出張中の夫と電話で話したのは昨夜のことだった。ねえ、私ってあなたの何なの? 出張ばっかりで、顔も見られない。私は毎日、あなたの戻らない部屋を意味もなく掃除してるのよ。デートすらしてもらえなくなるなら、結婚なんてしなきゃ良かったわぁぁ……自棄酒でベロンベロンになってたとは言え、我ながら青臭い醜態をさらしてしまったものだ。思い出すと顔から火が出そうになるが、効果はてきめんだった。真知子のすすり泣きに流石に慌てた敬一は、じゃあ明日デートしよう、と言ってきた。
「明日の朝一の新幹線で戻る。朝の八時に待ち合わせよう」
真知子はぽかんと口を開けたまま、敬一の言葉を聞いていた。夫は早口で場所を伝えると、そそくさと電話を切ってしまった。
あんな電話をしてしまった自分にも責任がある。そう言い聞かせながら頑張ってベッドから這い上がったが、玄関で冷気にさらされたとたん、敬一への不満が復活してしまった。忙しいのは仕方がない。出勤前にわざわざ時間を作ってくれたこと自体感謝すべきだと言うのも判っている。ただ、短い時間だけ相手してやれば文句を言わないだろうというような扱いが、どうしても気に入らなかった。
指定された店は、敬一の会社の傍にある小さな喫茶店だった。一時期のブームでチェーンのカフェが林立するはるか以前より営業してる、切り株のような風体の店だ。真知子は溜息をついた。東京ステーションホテルで朝食とでも言うのならまだしも、得体の知れないこんな店で誤魔化されるのかと思うと情けなくなる。飾らないところが敬一の美点だが、久しぶりのデートぐらい虚勢を張ってくれてもいいではないか。
店を覗くと、窓越しに手を振る敬一が見えた。真知子は諦めて店の中に入っていった。ドアを開けた瞬間、バターの溶ける微かな匂いと、コーヒーの豊かな香りが、彼女の鼻腔を刺激した。
「寒かったろ?」
「寒いなんてものじゃないわよ」
真知子は恨みがましくならないように言ったつもりだったが、敬一は叱られた子犬のような顔になった。
「俺だってびっくりしたんだぞ。夕べ相当酔ってたろ。別れるだの自殺するだのめったなこと言うなよ。こっちの心臓こそ止まりそうだよ」
そんなこと言ったかしら?真知子は内心冷や汗をたらした。
「でも、どうしてこの時間なの?今夜は家に戻れる予定でしょ?」
「それは……」
敬一が説明しようとしたその時、二人のテーブルに、敬一が注文しておいた朝食が運ばれた。
真知子は圧倒された。
目の前に置かれたのは、コーヒーがなみなみと注がれたマグと、バスケットいっぱいのクロワッサン、それだけだった。虚飾のかけらもないそのメニューに、真知子はしかし、ある種の破壊力を感じた。マグとバスケットから立ち上る湯気は香ばしくて芳醇で、空気の色さえ変えてしまいそうなほど濃厚だった。見た目のインパクトも抜群。普段ならメインの脇に添えられている彼らが「俺らが出てきて、何が悪いの?」と言わんばかりに中心を陣取っている。真知子の中のあらゆる負の感情が、一瞬にして溶けていった。
「すごい……」
真知子が呟いた。敬一はまず食べてみろと促した。
想像ははるかに上回る美味しさだった。
まず、前歯でかりっと噛んだときの歯触りと、鼻にツンと来る香ばしさがたまらない。次に、奥歯で噛み締める度に口の中全体に広がるバターの風味に、脳髄が溶けそうなほど幸せになる。そして最後にごくんと飲みこんだときの、喉ごしのよさといったら……!
「最高だわ」
彼女は瞳を潤ませながらつぶやいた。快感そのものだった。
「これだけで充分メインデッシュね。卵もベーコンも、何も要らないわ」
「出張先から社に直行する朝は、必ずこれを食べるんだ。マチコにも食べさせたいって前から思ってたんだけど、ここのクロワッサン、朝しか出してなくてさ」
敬一は恥ずかしそうに言った。真知子の夫は、とても誠実な男だった。敬一と知り合った頃は、この男と結婚することになるとは夢にも思わなかった。彼女の当時の恋人は、敬一と正反対のタイプの男だった。勿論誠実で優しかったが、真知子と同じように“形”を大事にする男だった。
付き合ってる最中、今朝の敬一と同じように、朝食を利用したデートに何度か誘われたことがあった。曰く「欧米では、朝食会とか、朝食を利用した会議なんてのを良くやってるらしい。僕らも朝食会をやってみようよ」彼は朝早くにホテルの最上階のレストランを予約し、彼女にマッシュルームソースのかかったポテトオムレツやマーマレードジャムを添えたマフィン等を食べさせた。朝日の輝く中でのデートは確かに素晴しかった。一日の仕事が終わった後で夕食に付き合うのとは違い、新鮮な心と身体で食事を楽しむことができた。朝食デートに誘われる度、彼に大切にされているんだと真知子は実感した。しかし彼女が選んだのは、きらびやかなイングリッシュ・ブレックファストではなく、目の前の、クロワッサンとコーヒーだけという粗野な朝食だった。形を取り繕うこともしない、誠実なことだけに特化した敬一を、彼女は生涯の伴侶としたのだ。
突然真知子は、おぼつかない気分になった。クロワッサンのひと噛みひと噛みから溢れるバターの風味が慈悲のように甘くて、切なくて、仕方なかった。自分は、敬一の誠実さに値する存在ではないかもしれない。そんな不安に、押しつぶされそうになった。
「気分が悪いの? 二日酔い?」
敬一が心配して覗き込んできた。真知子は押し殺すような声で、小さく言った。
「実はね、私、会社でいじめに遭ってるの」
真知子の告白に、敬一は言葉を失った。彼女は続けた。
「私は、職場の誰よりも優秀よ。上層部もみんな認めて頼りにしてくれる。ただ私……一人、怖いオバさんパートがいて、その人に目をつけられているの。挨拶もしてもらえなくて、電話も回してもらえなくて。他の女子社員はそのオバさんが怖くて、誰も私の味方なんかしてくれない。私今、オフィスに居場所がないの。今までどうにか親しくなって一緒に仕事ができるようにって努力してきたつもりだけど、駄目だった。もう、どうすればいいのか判らないの……」
耐えられなくなった真知子の瞳が、じんわりと熱くなった。
これは決して男には判らない、女世界特有の縦社会構造だ。女子会社員に最も必要なのは、エクセルのスキルやブラインドタッチ技術ではない。社交性と話題の豊かさ、そして集団の長の特性を見抜き、そいつの気に障らない振舞い方を即座に会得できる環境対応力だ。真知子は仕事に対して貪欲なあまり、知らずに長に対する礼儀を欠いてしまっていたらしい。しかも運の悪いことに、マチコは長の好物のワイドショーネタに全く興味がなかった。
「ごめんね、ケイちゃん。こんな話しちゃって。ごめんね……ごめんね……」
二人の間に、束の間沈黙が流れた。出張の多い敬一に余計な心配をかけたくなくて今まで黙っていたのに、たったひとつのクロワッサンで努力が無駄になってしまったと思うと、益々自分が嫌になった。いっそクロワッサンを喉に詰まらせて窒息死してしまいたい。
「知らなかった。ごめん。マチコがそんな目に遭ってるなんて。本当に、ごめん」
「何でケイちゃんが謝るの?ケイちゃんがいたところで、何も変わりはしないわよ」
「マチコ、辞表出しておいで。今日付けで」
真知子は驚いて敬一を見た。彼はとても真剣な顔をしていた。
「そんな、無理よ。出したって、今日付けでなんて受理してもらえるわけないもの」
「いいから出せって。俺に辞めろって言われたって言えばいい。どうせマチコと関係のない会社になるんだから俺は気にしないよ」
「でも、そんなの逃げるみたいじゃない。私が負けたみたいじゃない。そんなことしたってあのオバさん喜ばせるだけだもの」
「じゃあどうするんだ? これから毎日泣きながら仕事に行くのか? そいつが定年退職になるまでずっと」
「だって、これがあのひとの思惑だったら? 私をやっと追い出せたって、手を叩いて喜ぶのよ。そんなの、悔しすぎるじゃない」
ふいに、敬一ははぁっと重たい溜息をついた。真知子はびくりとした。それは今まで彼が見せたことのない、冷たいしぐさだった。
「マチコはいっつもそうだな。形を気にしすぎるんだよ」
真知子の胸が、かっと熱くなった。敬一は続けた。
「勝ちとか負けとか、そんな問題じゃないだろ? 勿論マチコの仕事をくだらないとか思ったりはしないよ。でも、そんな命かけてまでしがみつかなきゃならない仕事じゃないだろ?」
「勝ちとか負けとか、そういう問題よ。今までだって、逃げちゃ駄目なんだって言い聞かせながら頑張ってきた。おかげで職場では、女子社員の中で私が一番信頼されてるようになった。このままがっちりしがみついて、あのひとより私のほうが会社にとって有益な存在だって証明し続けるの。今辞めたら、私、一生笑いものよ」
「いいじゃないか、笑いものだって。どうせマチコの耳には届かないんだ。笑いたい奴には笑わせておけばいいんだ」
「私は嫌。笑われるなんて。私の知らないところで誰かに軽蔑されるなんて、こんな屈辱ない。私には耐えられないっ」
悲鳴のように、真知子は言った。その時、右手に何かぐにゃりとした感触を覚え、我に帰った。
掌を見ると、クロワッサンがひとつ、手の上で潰れていた。折角の美しい光沢の茶色い表面が粉々になり、指の隙間からは、バターの脂分が血のようにじんわりと滲み出ていた。まるで、自分の心臓を握りつぶし、それを凝視しているような気分だった。真知子の中で何かが弾けとび、それは涙となって流れ出た。
「ごめん。こんなに美味しいクロワッサンなのに……」
涙が止まらなかった。職場でのことも、敬一を泣き場所に利用してしまったことも、全てが悔しかった。
メソメソ泣き続ける真知子を、敬一はただじっと見守った。その眼差しには、同情も慈悲もなかった。彼はただ、真知子の心に付けられた傷と全く同じものを、自分にも付けようとしていた。そんなことをしても何の解決にもならないと知っていながら、それでも彼女と同じ痛みを共有しようとしていた。真知子は思い出した。自分は、敬一のそんなところに惹かれたのだった。彼はどんな時でも真知子をなぐさめたりいたわったり、そんなことはしなかった。代わりに、真知子を理解しようとしてくれた。虚飾を知らない彼は、自分の感情を着飾る術すら知らなかった。
「やっぱ俺、マチコの気持ち判らないよ」
真知子が落ち着くのを待って、敬一は言った。
「だから、辞表を出せなんて簡単に言ったら駄目だよな。ごめんな。マチコの好きにすればいいと思う。でも俺だったら、毎日そんな気分で朝ごはん食べるほうのが、よっぽど嫌だけどなぁ」
頭をボリボリと掻きながら、敬一は言った。真知子は、彼を抱きしめたくなった。
「ありがとうケイちゃん。辞表、出してみる」
真知子は無理に笑って見せた。敬一は慌てた。
「いいよ、俺の言ったことなんか気にするな」
「違うの。私も本当は、心のどこかで会社を辞めたいって思ってたの。ただ、それが負けることになるみたいで、嫌だったの。だから多分、誰かに言ってもらいたかったんだと思う。負けじゃないよとか、負けてもいいんだよとか、そんなことを」
言いながら、敬一の言うとおりだと真知子は思った。女は元々形にこだわる人種だ。その中でも特に自分は異常なまでに形に執着する人間なのだろう。でも、これはこれで仕方ないではないか。今更どんな説教をされようと、それは一生変わることはないだろう。
真知子の無理のある笑顔に、敬一は苦笑した。
「面倒だな、女って」
「ケイちゃんには判らないよ。さっき自分でそう言ったじゃない」
二人は肩をすくめたと、遅まきながら朝食の時間とした。
夢のような食感と喉越しに、二人とも無言でクロワッサンを貪り続けた。競い合うように頬張るうちに、バスケットはあっという間に空になった。
最後の一切れをコーヒーで流し込むと、真知子は満たされたようにふうっと息を吐いた。
「ひとつ思い出しちゃった。昔観た映画だけど」
真知子は頭に浮かんだことを、そのまま口にした。
「『ブレックファスト・クラブ』って青春映画。問題児の高校生が五人、休日に学校に呼び出されて、“自分とは何か”ってタイトルで作文書かされるって話」
「何だそりゃ? 面白いのか?」
映画にまるで興味のない敬一はいぶかしげだ。
「面白いかどうかは別として、いい映画だとは思ったわ。全然共通点のない五人が、悩みを暴露したり、罵り合ったりしながら強い絆で結ばれていくの。無防備で、飾りっ気がなくて、痛々しくて、でも愛しい感じがしたわ」
「それのどこが“ブレックファスト”なの?」
敬一の素朴な疑問に、真知子も困ったように首をかしげた。
「実を言うと……私もそこのところだけは、どうしてなのか判ってないの。朝食を食べるシーンがあったわけでもないし。一度しか観てないから、もしかしたら何度か観込めばタイトルの意味も判るのかも知れないけど。ただ……」
彼女は言いかけて、口をつぐんだ。危うく、あの時の彼らの姿が、今の私たちと重なって見えた、なんて口走ってしまうところだった。それは敬一には言わなくてもいいことだ。
幸い敬一はこの話にまるで興味を示さなかった。彼は今の話題がなかったかのように伝票を引っつかむと、店を出る準備を始めた。真知子もそれに倣った。
「辞表、本当に無理しないで」
店を出ると、敬一が唐突に言った。
「俺はマチコが奥さんでいてくれるなら、どっちだっていいんだ」
「ありがとうケイちゃん。でももう大丈夫。それよりごちそうさま。クロワッサン、すっごく美味しかった」
「たまには朝ごはんでデートするのも悪くないかもな」
「でも、次は東京ステーションホテルがいいな。あんな素敵な場所に、一度入ってみたいの」
真知子は言ったが、敬一は何も応えなかった。二人は互いに、じゃあ頑張って、と声を掛け合うと、それぞれ別の方向に歩いていった。
高く上り始めた冬の太陽が、街の空気をほんのりと温め始めた頃だった。
ここまで読んで下さってありがとうございました。心より感謝いたします。