第九章 舞踏会の隣
三日後、正式な通知が来た。
「王宮晩餐会を行います。候補者の皆様は礼装にてご参加ください。国王陛下、第一王子殿下、その他王宮関係者が列席されます」
晩餐会。
つまり、本物の貴族社会の場だ。
私は通知を手に、しばらく固まった。礼装なら一着ある。でも問題は服装じゃない。作法だ。薬商の娘が王宮の晩餐会に出席する作法なんて、習ったことがない。
ノックもなく扉が開いた。
「聞いた?」
ミレイユだった。金髪を揺らしながら入ってきて、私の顔を見てにやりとする。
「青ざめてる」
「そんなことない……です」
「絶対してる。礼儀作法、知ってる?」
「……基本は」
「王宮晩餐会の基本は」
沈黙。
「……教えてもらえますか」
ミレイユは満足そうに笑って、椅子を引いた。
「二時間ちょうだい。全部叩き込んであげる」
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ミレイユの特訓は容赦なかった。
カトラリーの順番、グラスの持ち方、視線の向け方、立礼と座礼の違い、会話の作法——二時間で詰め込まれた情報量は、父の薬棚を全部暗記したときより多いかもしれない。
「なんでそんなに詳しいんですか」
「公爵家への嫁入りが決まっていたから」ミレイユは少し間を置いた。「前は、ね」
前は、という言葉の重さに、私は何も聞き返さなかった。
「ありがとうございます、ミレイユさん」
「ミレイユでいい」彼女は立ち上がって扉へ向かいながら、「敵に塩を送るのは性に合わないけど、作法も知らないまま場を乱されるほうが嫌なので」
ずいぶん正直だ。でもそれが彼女らしい。
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晩餐会の会場は、後宮の大広間だった。
シャンデリアの光が白大理石に反射して、眩しいほどに明るい。テーブルには銀の食器が並び、候補者たちは礼装で着席している。私のドレスは他より地味だが、ミレイユが貸してくれたネックレスのおかげで、かろうじて場に馴染んでいる……と思う。
上座に国王の姿があった。初めて見る。六十前後、穏やかそうな顔をしているが、疲れが滲んでいる。隣にレオン、その隣にヴァルター。審査員側のテーブルにシリルとエリアス。
席についてすぐ、シリルが遠くから手を振ってきた。
愛想がいいな、とは思うが振り返さなかった。
食事が始まる。
カトラリーを外側から使う。グラスは右手。姿勢を崩さない——ミレイユの声が頭の中で再生される。
順調だった。前半は。
問題は食後の歓談の時間だった。
候補者たちが席を離れ、室内を回りながら挨拶をする形式になった。私は動き方がわからず、壁際でグラスを持ったまま固まっていた。
と、隣に誰かが並んだ。
「飲み物は確認したか」
ヴァルターだった。
「はい、先ほど」
「そうか」
彼もグラスを持ったまま、前を向いている。私も前を向く。しばらく、壁際で二人並んで広間を眺める。
「……なぜここに」
「私も広間が得意ではない」
意外な返答だった。王弟殿下が社交の場を苦手にしている、とは。
「そうなんですか」
「挨拶をしに来る人間が多すぎる。適当にあしらっていると怒られる」
「……お気持ちはわかります」
「きみも苦手か」
「これが初めての王宮晩餐会なので」
ヴァルターがこちらを向いた。金色の瞳が、少し細くなる——珍しい表情だ。呆れでも怒りでもない。もしかして、笑っている?
「よく堂々としていられるな」
「父に言われたので」
「何を」
「死にたくなければ笑え、と」
一拍置いて、ヴァルターが小さく息を吐いた。
「……変わった父親だ」
「そうでもないと思いますよ」
そのとき、反対側の壁際に、見慣れない男の顔が見えた。
給仕の格好をしているが——動き方がおかしい。料理を運ぶでも下げるでもなく、テーブルの周囲をうろついている。視線が、食器ではなくグラスに集中している。
私はさりげなくヴァルターの袖を引いた。
「殿下」
「何だ」
「右奥、窓際の給仕の男性。三分前から同じ場所をうろついています」
ヴァルターの視線が、素早く流れた。
「……見えた」
「グラスを触っています」
「わかった。きみはここを動くな」
「一人で行くんですか」
「目立たず確認する。きみが動くと候補者が気づく」
それは正しい判断だ。私は頷いた。
ヴァルターがグラスをテーブルに置き、自然な足取りで窓際へ向かう。給仕の男が気づいてこちらを向きかけた——そのとき。
「ローゼンベルグ様」
シリルが横から現れた。
「踊りませんか」
「……今は少し」
「今でないと」シリルは私の手を取って、有無を言わさず広間の中央へ引っ張っていく。「目立ちましょう。ヴァルターが動きやすいように」
なるほど、シリルも気づいていたのか。
音楽が流れていた。私はシリルに手を引かれたまま、ダンスの基本——それもミレイユに叩き込まれた——を頭の中で必死に引っ張り出した。
「リラックスして」シリルが耳元で言う。「肩が上がってる」
「上がりますよ、こんな状況で」
「窓際を見ない。こっちを向いて」
シリルの手が背中に回る。引き寄せられて、距離が近くなる。
「……近くないですか」
「普通の距離だよ」
「嘘だと思います」
「半分くらい嘘」
翠色の瞳が、楽しそうに笑っている。こういうときでも飄々としているのが、シリルという人間だ。
二周目のターンで、窓際を視界の端に捉えた。給仕の男の姿が消えていた。ヴァルターの白い外套も見えない。
「……行きましたね」
「上手くいったんじゃないかな」シリルはそう言いながら、くるりと私を回した。「それより——踊れるじゃないですか」
「二時間特訓を受けました」
「ミレイユ?」
「なぜわかるんですか」
「あの子しかいないでしょう、きみに塩を送れるのは」
シリルが笑う。私も、少しだけ笑った。
曲が終わる頃、ヴァルターが広間に戻ってきた。私の隣に来て、シリルに一瞥をくれてから、静かに言った。
「男は外に出た。身元を確認中だ」
「グラスはどうでしたか」
「二つ、濡れた痕があった。別の液体を足された可能性がある。エリアスに回した」
「お疲れ様でした」
ヴァルターが、少し意外そうな顔をした——そういえば私、彼にねぎらいの言葉をかけたことがなかった。
シリルが面白そうに二人を見比べてから、
「俺の仕事は終わりですか」
「十分です」とヴァルターが言う。ぶっきらぼうだが、否定はしていない。
「そりゃよかった」シリルは私の手を取り、甲に軽く口付けるそぶりを見せた。「お疲れ様でした、アリア」
「それは必要ありませんよ」
「まあまあ」
手が離れる。シリルがすっと人波の中に消えていく。
残された私とヴァルターの間に、少しの沈黙があった。
「晩餐会は得意か」とヴァルターが聞いた。
「まだわかりません。今夜が初めてなので」
「そうか」
「殿下こそ、どうでしたか。広間が得意でないと言っていましたが」
「……まあ」
「まあ、というのは?」
ヴァルターは少し間を置いて、前を向いたまま言った。
「悪くはなかった」
それ以上は何も言わなかったが、私はなんとなく、その一言がどこに向けられた言葉なのかを、わかってしまった気がした。




