第八章 薬草園の午後
翌朝、私はエリアスに会いに行った。
約束はしていなかったが、医務室の扉をノックすると、彼はすでに起きていて、小さなデスクで何か書き物をしていた。
「来ると思っていました」
「昨日もそう言いましたね」
「きみが来ない方が不思議なので」とエリアスは書き物の手を止めずに言う。「座ってください。紅茶を淹れます」
「いえ、結構です。さっそくですが——」
「毒の出所を調べたい、でしょう」
私は口をつぐんだ。
「レオン殿下から話は通っています」エリアスは顔を上げて、眼鏡を押し上げた。「昨夜、使いが来ました。ローゼンベルグさんに協力するようにと」
「……行動が早いですね、殿下は」
「いつもそうです」エリアスは立ち上がり、壁の棚から一冊の薄いノートを取り出した。「これを」
受け取って開く。細かい字でびっしりと書かれた、症状の記録。日付、被害者の名前、症状の種類、発症までの時間——三ヶ月分の記録が、丁寧にまとめられていた。
「よくこれを作れましたね」
「記録することしかできなかったので」エリアスの声が、少しだけ沈んだ。「医者として、情けない話ですが」
「そんなことないですよ。これがなければ何もわかりませんでした」
ノートを読み進めると、ひとつのパターンが見えてきた。
「被害者の多くが——北棟の厨房を利用しています」
「気づきましたか」エリアスが頷く。「南棟の候補者たちは専用の厨房を使っていますが、ソフィアさんの朝食は当日の混乱で北棟から運ばれていました」
「ルチアさんのときは?」
「入宮直後は、全員が北棟の厨房を使っていました。今は候補者専用になりましたが、それ以前の話です」
「北棟の厨房に、何かある」
「おそらく。ただ——」エリアスは少し躊躇してから続けた。「厨房の直接調査は難しい。候補者が立ち入れる場所ではないし、調理スタッフは警戒します。成分は私が分析しますが、現場の匂いはきみにしかわかりません」
つまり、私が行かなければならない、ということだ。
「厨房への裏口はありますか」
「薬草園を通れば北棟の裏に出られます。今日の午後、候補者の自由時間があります。庭の散歩という名目で」
「わかりました」
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午後の薬草園は、思っていたより広かった。
医薬用の植物が整然と並び、名札が立っている。ラベンダー、カモミール、セージ——慣れ親しんだ名前が続く中、私の足は自然と歩幅を遅くした。
母もここに立ったことがあるのかもしれない、と思ったら、なんとなく急げなくなった。
北棟の裏口を探しながら、棚の間をゆっくり歩く。そのとき——
「こんなところで何をしている」
振り返ると、白い外套だった。
ヴァルターが、薬草園の入り口に立っていた。
「散歩です」
「嘘だ」
否定が早い。
「……北棟の厨房を確認しようとしていました」
「一人でか」
「エリアスさんから経路を聞きました」
ヴァルターが無言でこちらへ歩いてくる。私の横に並んで、そのまま北棟方向へ進み始めた。
「……ついてくるんですか」
「案内する」
それだけ言って、もう前を向いている。
私は少し間を置いてから、その隣に並んだ。
薬草の列の間を並んで歩く。会話はない。でも不思議と、沈黙が苦ではなかった。
ヴァルターが足を止めたのは、薬草園の中ほどだった。
彼が立ち止まった棚の前には、見慣れない葉が並んでいた。小さな白い花、細長い葉、特徴的な形——
「ネムリソウ」
ヴァルターが言った。
「一般的な眠り草とは種が違う。入眠を促すだけでなく、長期間少量を摂取し続けると記憶に作用する」
「記憶に?」
「判断力の低下、時間の感覚の歪み。症状が出るのが遅いから、毒だと気づかれにくい」
それはルチアに使われたものと——一致する。
「ここに生えているんですか、普通に」
「薬草として管理されている。本来は鎮静剤の原料だ。ただ」ヴァルターは葉を一枚だけ指先でそっと触れた。「摘み取られた痕がある。最近」
私も葉の根元をよく見た。確かに——茎が短く切られた形跡が、数本分ある。
「いつ気づいたんですか」
「昨日」
「昨日……ということは」
「茶会の後に確認した」ヴァルターは視線を葉から外さずに答えた。「茶会の眠り草の成分と、ネムリソウの成分が近かった。同じ株から取られた可能性がある」
「ルチアさんのときの蓄積型もこれだと思いますか」
「おそらく」
ということは——後宮内の薬草園が、毒の供給源になっている。外から持ち込む必要はない。誰でもここに来ることができて、誰でも摘み取れる。
「殿下はなぜ、私にこれを教えてくれるんですか」
ヴァルターがようやく私の方を向いた。金色の瞳が、真っ直ぐに見てくる。
「私はレオンが任じた審査員だ。あいつが動くなら、私も動く」
「でも私に教える義理はないはずです」
「義理の問題ではない」
「では?」
少しの間、ヴァルターは黙った。薬草の葉が、微かな風に揺れる。
「きみはここで倒れるべき人間ではない」
それだけ言って、また歩き始めた。
私はその背中を見ながら、少しだけ胸が締まる感覚を持て余した。
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北棟の厨房裏は、鍵がかかっていた。
ヴァルターが無言で鍵を取り出して開けた。持っていたことに驚いたが、何も言わなかった。
中は静かだった。夕食の準備はまだ始まっていない時間帯で、人気がない。私は鼻を利かせながら、棚、調理台、保存庫——一通りを確認した。
あった。
「引き出しの奥」と私は指さした。「さっきの薬草の匂いがします。乾燥させたものを、ここに保管している」
ヴァルターが引き出しを開ける。小さな紙包みが、調理道具の奥に押し込まれていた。中身は乾燥した草。薬草園で見たネムリソウと、同じ匂いがする。
「これを誰かが定期的に補充して、料理や飲み物に混ぜている」
「料理人の誰かが?」
「料理人か、あるいは料理人に紛れて厨房に入れる誰かが」
私たちはしばらく無言で引き出しを見た。
「証拠として回収しますか」と私は聞いた。
「まだだ」ヴァルターは引き出しをそっと閉めた。「動かすと警戒される。仕掛けた人間を泳がせた方が、上を辿れる可能性がある」
上。
黒幕が、この引き出しの奥よりもっと上にいると——ヴァルターも知っているんだ。
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夜、予想通りシリルが来た。
「お待たせ」と彼は例の笑顔で扉を開ける。今夜も手にワインではなく、焼き菓子の包みを持っていた。
「なんですか、それ」
「お土産。毒は入ってない——確認してもいいよ」
嗅いだ。本当に何もない。シリルは私が嗅ぐのを見ながら、楽しそうに笑っている。
「習慣になってきたね」
「失礼します」と私は受け取って、テーブルに置いた。「今夜のお礼は何ですか」
「今日、何をしたか教えてほしい」
やはり、そういうことか。
「薬草園を散歩しました」
「ヴァルターと一緒に」
監視されている、とは思っていたが——これほど筒抜けだとは。
「そうですが、どこで」
「見ていた」シリルは椅子の背もたれに腕を乗せて、足を組んだ。「きみとヴァルターが薬草園で立ち話をしているのを。なかなか絵になる二人組だった」
「覗きはマナー違反ですよ」
「ヴァルターに言われたセリフだ」シリルは笑う。「で、何を見つけた?」
「何も」
「嘘だ」
否定が早い。ヴァルターと同じだ、と思った。
私はしばらく考えてから、
「北棟の厨房で、乾燥薬草を見つけました。ネムリソウ系の成分です。おそらく毒の供給元」
「なるほど」シリルは頷いた。「ヴァルターはどうした?」
「証拠は動かさず、犯人を泳がせると言っていました」
「賢い判断だ」シリルは少し間を置いた。「私も同じ意見だけど——動かさない理由がもうひとつある、とは思わなかったかい」
「……どういうことですか」
「犯人が複数いる可能性」
シリルの翠色の瞳が、珍しく真剣な光を帯びていた。
「茶会の眠り草と、ソフィアさんへの経口薬が成分違いだったのは知ってる? 同じ素材でも、調合が違う。调合の知識が違う二人の人間が、同じ厨房を使っている可能性がある」
私は思わず身を乗り出した。
「それは……つまり、派閥が違う?」
「二つの勢力が、同じ後宮で別々に動いている。目的も被害者の狙いも違う」シリルは声を落とした。「一方はね、レオン殿下を廃して別の王族に王位を継がせたい一派だと思っている。候補者を潰すことで選定を長引かせ、王家を混乱させるのが目的だ」
「もう一方は?」
「わからない」シリルは珍しく、正直にそう言った。「もう一方の被害者パターンが、読めない。ランダムに見える。でも——」
彼は立ち上がり、いつものように私との距離を詰めてきた。テーブルごしに身を乗り出して、低く続ける。
「その中に、狙い撃ちにしたい人間がいるんじゃないかと思っている。他の被害はカモフラージュで」
「誰を」
「それを教えてくれたら、きみの母親の話を教えてあげる」
心臓が、冷たく跳ねた。
「……母のことを知っているんですか」
「レオン殿下が知っていることは、大体私も知っている」
シリルは微笑んだまま、一歩引いた。
「焦らなくていい。今夜はこれで充分。続きはまた——分割払いで」
扉が閉まる。
私は焼き菓子の包みを見つめたまま、頭の中を整理した。
二つの勢力。二つの目的。レオンが知っていることをシリルも知っている。そして母の死は——どちらかの「勢力」と繋がっている?
ひとつだと思っていた謎が、ふたつに割れた。
——転んでもただでは起きない。
父の声が、頭の中で聞こえた気がした。




