第七章 王子の取引
部屋に戻ったのは夕刻だった。
ドレスを脱いで部屋着に着替え、昨夜シリルが置いていったグラスを片付けて、窓の鍵を確認して——一通りの点検を終えると、どっと疲れが出た。
天蓋付きのベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。
初日から三日で、茶会への眠り草、候補者一名の毒、前の住人の失踪——いや、帰宅——そしてヴァルターの「倒れるな」。
盛りだくさんにもほどがある。
ノックが聞こえたのは、そのときだった。
また夜の訪問者か。シリルかと思って、
「どうぞ」
開いた扉の向こうにいたのは、黒髪の王子だった。
「……レオン殿下」
「入っていいか」
昨日の茶会ではアリアと目が合ってすぐに立ち去ったのに、今夜は自分でここに来た。それだけで何かが違うとわかる。
「どうぞ」
レオンは一人で来ていた。護衛も侍従もいない。静かに扉を閉めて、室内を見回す。窓、鍵、テーブル——ヴァルターと同じ順で確認している。兄弟だな、と思った。
「座ってください」と私は言った。
「立ったままでいい」
「ならば私も立ちます」
少し間があって、レオンは椅子に座った。私も向かいに座る。
群青の瞳が、まっすぐ私を見ていた。
「単刀直入に話す」
「助かります」
「きみをここに入れたのは私だ」
部屋の空気が、静止した気がした。
「……もう少し詳しく聞いてもいいですか」
「きみの父親の借金の相手——金を貸した商会は、私が手配した」
頭の中で、事実が音を立てて組み変わっていく。
借金のカタに枠を押しつけられた。その借金の相手を、レオンが用意した。つまり——最初から、私がここに来るように仕組まれていた。
「……理由を聞いても」
「きみの鼻が必要だった」
レオンは続ける。
「三ヶ月前から、後宮の関係者が断続的に体調を崩している。候補者だけじゃない。侍女、料理人、一名の近衛騎士。いずれも原因不明の症状で、医務室が把握しているだけで七件。表に出ていないものを含めれば倍以上だ」
「エリアスさんは知っていますか」
「彼が最初に気づいた。だが医者の目では、症状の因果関係を証明できない。成分を特定できても、誰が・どこで・どのように仕込んだかがわからない」
「それを嗅ぎ当てられる人間が必要だった」
「そうだ」
私は少しの間、黙って考えた。
「なぜ私ですか。王都に薬師や医者はたくさんいます。私より優秀な人間が」
「きみの母親のことを知っているか」
想定外の名前が出て、息が詰まった。
「……母は、私が幼い頃に亡くなりました」
「亡くなる前、王宮の薬師をしていた」
知らなかった。父から聞いたことがなかった。
「きみの毒感知の能力は、母親からの遺伝だ。同じ体質の記録が王宮に残っている。探すのに時間はかからなかった」
母が王宮の薬師だった。その体質を私が引き継いでいる。それをレオンは知っていた。
「……だから『また、か』だったんですか」
レオンが、わずかに目を細めた。
「きみの母も——そういう人間だったと、記録にある。気づかなくていいものに気づく人間」
しばらく、私は何も言えなかった。
母の話を、父は一度もしなかった。王宮の薬師だったなんて。なぜ辞めたのか、なぜ父と結婚したのか、なぜ若くして死んだのか——何も知らない。
「取引を提案する」
レオンが静かに続けた。
「きみにはこのまま選定に残ってもらう。その間、後宮内の毒の出所を追ってほしい。きみが得た情報はエリアスを通じて私に届ける。代わりに」
「代わりに?」
「父親の借金は消す。そして——母の死因を教える」
心臓が、一拍だけ大きく跳ねた。
「……母の死因を、知っているんですか」
「知っている」
「それは」私は声が震えないように気をつけながら言った。「自然死ではない、ということですか」
レオンは答えなかった。
答えないこと自体が、答えだった。
私はゆっくりと息を吸い、吐いた。
頭の中を整理する。利用された。仕組まれた。母の死に何かがある。そしてこの王宮の中に、今も毒を撒いている誰かがいる。
怒りは——ある。ある、けれど。
「ひとつ確認させてください」
「何だ」
「殿下は今、私の前に来ました。それはつまり、私をある程度信頼しているということだと思います。でも私があなたを信頼する理由は今のところありません」
レオンは黙って聞いている。
「信頼できる理由を、ひとつ教えてください」
長い沈黙。
レオンが立ち上がった。私も反射的に立つ。
彼は私の前まで歩いてきた。群青の瞳が、近距離で私を見下ろす。
「三日前、きみの部屋の前に人を立てた」
「……護衛ですか」
「そうだ。気づかなかっただろう。目立たない格好をさせていたから」
「なぜ」
「ルチアの一件の後、次の候補者が狙われると予測していた。その部屋に入る人間を守る必要があった」
私は少し言葉に詰まった。
「それは……私が来る前から?」
「きみが来る一週間前から」
つまり、私が来ることを知った時点で、もう護衛を配置していた。枠を仕組んでおきながら、守ることも考えていた。
「倒れるなとヴァルターに言わせたのも殿下ですか」
レオンが、かすかに視線を逸らした。
「あいつが自分で言った」
「でも頼みましたよね」
「……言ったかもしれない」
それが答えだ。
私は一度だけ、深く息を吸った。
「わかりました」
「承諾か」
「条件があります」
「聞こう」
「私が動く範囲と方法は私が決めます。無茶な命令はしない。それと——」
「それと?」
「母のことは、全部教えてください。取引の最後じゃなく、わかった時点で随時」
レオンがしばらく私を見て、
「いいだろう」
と頷いた。
それだけ言って、彼は扉へ向かう。
出ていく前に、一度だけ振り返った。
「……名前で呼んでいいか」
唐突な問いに、一瞬戸惑う。
「アリア、と」
「……どうぞ」
「アリア」
確認するように、一度だけ呼んだ。それから群青の瞳が、ほんの少しだけ——本当に少しだけ、柔らかくなった気がした。
「よく眠れ」
扉が閉まる。
私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
母が王宮の薬師だった。母の死に、何かがある。私はその娘として、この場所に呼ばれた。
利用されている。それは間違いない。
でも——知りたい。
それもまた、間違いない。




