第六章 医務室の秘密
試験が中断になった午後、私は自室に戻らなかった。
他の候補者は各々の部屋に引き取っていったが、私にはどうしても確かめたいことがあった。廊下を一本折れ、侍女に医務室の場所を聞いて歩くこと五分——白い扉の前に着く。
ノックすると、エリアスの声がした。
「どうぞ」
中に入ると、簡易ベッドに赤みがかった茶髪の令嬢が横になっていた。顔色はまだ悪いが、目は開いている。エリアスが傍らの椅子に座り、脈を取っていた。
「ローゼンベルグさん」エリアスが顔を上げる。「来ると思っていました」
「具合はどうですか」と私は令嬢に声をかけた。
「……少し、楽になりました」令嬢が静かに答える。「ありがとうございます。助けていただいたそうで」
「気づいただけです。お名前を聞いてもいいですか」
「ソフィア=ヴォルフ。侯爵家の娘です」
ソフィア。覚えた。
私は椅子を引いてベッドの反対側に座り、エリアスを見た。
「お話できますか。少し」
「何を」
「前の住人のことです」
エリアスの手が、ほんの一瞬止まった。
「……それは」
「さっき廊下で聞こうとして、レオン殿下が来て話が途切れました」私は続ける。「エリアスさんが知っていることは明らかです。教えてもらえませんか」
静寂。エリアスは視線をソフィアに落とし、それから私に戻した。
「ソフィアさんも知っておくべきかもしれません」と私は言った。「今日倒れたのは、無関係じゃないかもしれないので」
長い沈黙の後、エリアスは眼鏡を押し上げた。
「……名前はルチア=ディアス。子爵家の娘でした」
でした、という過去形が、空気を重くした。
「三週間前まで、この後宮入り選定に参加していました。六人目の候補者として」
「六人目?」私は眉を寄せた。「今は五人のはずでは」
「ルチアさんは、選定の途中で脱落しました。正式な理由は『体調不良による辞退』でしたが」エリアスは声を落とした。「実際は——倒れたんです。候補者の中で、最初に。原因不明の睡眠薬中毒で」
ソフィアが息を呑む音がした。
「回復はしたのですか」と私は聞いた。
「はい。今は実家に戻っています。でも」エリアスは少し間を置いた。「彼女の部屋は、あなたに割り当てられた部屋です」
やはり、そうだった。
「ベッドの脚の裏に、薬草の欠片が残っていました」私は言った。「ルチア=ディアスの体内に入ったものと、同じ成分ですか」
「おそらく」
「今日のソフィアさんの件も、同じ犯人だと思いますか」
「成分が違います」エリアスは首を振った。「今日のものは即効性で少量。ルチアさんのときは蓄積型で、数日かけて体に積み重なるタイプでした。使い方が違う——」
「つまり」私は言葉を引き取った。「今日の件は、模倣か、あるいは別の誰かによる別の目的の犯行か」
エリアスが静かに頷く。
「ローゼンベルグさん、あなたは本当に薬商の娘なんですか」
「そうですよ」
「そうは見えない」
そのとき、扉が開いた。
ヴァルターだった。
白い外套のまま、無言で入ってくる。エリアスを一瞥し、ソフィアを確認し、それから私を見た。
「なぜここにいる」
「ソフィアさんの様子を見に来ました」
「そうじゃない」ヴァルターは私の前に立った。「試験が中断になったあと、きみは廊下にいた。その後すぐここに来たな。なぜだ」
「……気になることがあったので」
「エリアスに何を聞いた」
エリアスが「ヴァルター殿下」と静かに口を挟んだ。「私が話しました。ルチアさんのことを」
ヴァルターの金色の瞳が、エリアスに向く。無言の圧力——でもエリアスは怯まない。慣れているのかもしれない。
「知っておくべきだと判断しました」とエリアスは言う。「ローゼンベルグさんは、ルチアさんの部屋に入っています。標的になる可能性がある」
沈黙。
ヴァルターが私を見た。その金色の瞳の奥に、何か——焦りに近い感情が、一瞬だけ揺れた気がした。
次の瞬間、彼は私の左手首を掴んだ。
「っ」
「脈を確認する」
また診察だ。親指が手首の内側に押し当てられる。体温が高い。
「今朝の朝食後、気分の変化はあったか」
「ありませんでした」
「頭痛、眠気、味覚の異変」
「どれも」
「昨夜から今朝にかけて、部屋で異変は」
「ありませんでした。昨夜確認済みです」
ヴァルターが手を離した。
「……異常なし」
その呟きは昨日と同じ言葉なのに、今日は少し違う響きを持っていた。安堵、という感情が——あの無表情の下に、かすかにある気がした。
「ひとつ聞いていいですか、殿下」
「何だ」
「ルチア=ディアスが倒れたとき、真っ先に気づいたのは誰でしたか」
ヴァルターは少し間を置いた。
「私だ」
「そのとき、どんな匂いがしましたか」
今度の沈黙は長かった。金色の瞳が、まっすぐ私を見ている。
「……甘い匂いだった」
「薬草系ですか」
「そうだ」
「私の部屋で嗅いだものと同じですか」
ヴァルターが、かすかに目を細めた。
「なぜそれを知っている」
「到着した日に確認したので」
長い沈黙。
それから、ヴァルターは初めて——本当に初めて、微かに息を吐いた。呆れとも、驚きとも取れる、人間的な吐息。
「……きみは何者だ、ローゼンベルグ」
「薬商の娘です」
「そうは見えない」
エリアスとまったく同じ言葉だった。
ソフィアが、ベッドの上で小さく笑う声がした。三人が一斉に彼女を見ると、ソフィアは口元を手で押さえながら、
「すみません……思わず」と言った。「なんか、ここだけ空気が違くて」
確かに。医務室で毒の話をしている集団の中で笑える人間は強い。
「ソフィアさん」と私は聞いた。「今日の朝食、何か変わった味はしましたか」
「……そういえば」ソフィアは少し考えて、「紅茶が、少し甘すぎた気がしました。砂糖を入れていないのに」
エリアスとヴァルターが、同時に視線を交わした。
「朝食のポットに混入か」とエリアスが呟く。
「個別配膳の場合、狙い撃ちができる」ヴァルターが続ける。
二人の会話を聞きながら、私は頭の中で組み立てていた。
ルチアは蓄積型の毒で数日かけて倒された。ソフィアは即効型で選定試験の当日に倒された。犯人が同じなら、目的が変わっている。同じなら——方法の変化は何を意味するか。急いでいる? それとも、試している?
だとすれば、次の標的は——
「ローゼンベルグ」
ヴァルターが呼んだ。
「はい」
「今夜から、部屋の鍵を二重にかけろ」
「……はい」
「朝食は必ず鼻で確認してから口にしろ」
「元々そうしています」
「そうか」
彼は短くそれだけ言って、踵を返した。扉の前で一瞬止まり、振り返らずに、
「……倒れるな」
そのまま出ていった。
医務室に静寂が戻る。
エリアスが眼鏡を外して目頭を押さえながら、「あの人が他人にあんな言い方をするのは珍しい」と呟いた。
「そうなんですか」
「殿下の語彙に『倒れるな』は通常ありません」
ソフィアがまた笑った。今度は私も、少しだけ笑った。




