第十章 十年前の毒
翌朝、エリアスから呼び出しがあった。
医務室に入ると、彼はデスクに広げた羊皮紙を指さした。昨夜のグラスの成分分析だ。
「両方のグラスから、同じ成分が検出されました」
「何ですか」
「ジラニア草の抽出液。直接の毒性はありませんが、長期的に摂取すると——」
「神経に作用する」
エリアスが顔を上げた。
「知っていますか」
「父の薬棚にありました。使い方を間違えると危ないやつ、と習いました」
「その通りです。脳の記憶を司る部位に作用して、判断力と感情の調節を少しずつ歪める。急激には変化しないので、本人も周囲も気づきにくい」
感情の調節。つまり——茶会でミレイユが「笑いが止まらなくなっていた」のも、これか。あのときは眠り草だと思っていたが、別の何かが混じっていた可能性がある。
「ネムリソウとは別系統ですね」
「はい。調合の知識が全く違います。昨夜の件は」エリアスが言葉を選びながら続けた。「勢力②の手口だと思います」
「シリルさんの言っていた、目的不明の方」
「おそらく。ネムリソウは植物系の単純な調合で、誰でも作れます。でもジラニア草の抽出は専門知識が必要です。医師か、それに近い知識を持つ人間の仕業です」
医師か、それに近い知識——。
「エリアスさん、昨夜の給仕の男の身元は」
「ヴァルター殿下から連絡が来ました。二ヶ月前から王宮に雇われた新入りで、身分証明書が偽造だったそうです。本人は既に逃走しています」
逃走。証拠隠滅が早い。組織的に動いている。
「残念です」
「ただ」エリアスが一枚の紙を差し出した。「男の住んでいた宿に、これが残っていました。使いが写しを取ってきてくれました」
受け取って見ると、殴り書きのメモだった。文字と数字の羅列、そのなかにひとつ、読み取れる単語がある。
——『ディアス』。
「ルチアさんの家名と同じですね」
「そうです。意図的な標的か、偶然の一致かはまだわかりませんが」
ディアス。子爵家の娘で、最初の被害者。そして昨夜の不審者のメモに残っていた名前。
偶然ではない気がした。
---
午後、レオンからの使いが来た。
「殿下が来客をご希望です。場所は王宮の古文書室」
古文書室。
それは、母の記録があるかもしれない場所だ。
古文書室は北棟の最奥にあった。厨房のさらに奥、普段は鍵のかかった部屋だ。扉の前でレオンが待っていた。
「来たか」
「はい」
中に入ると、天井まで棚が並ぶ薄暗い部屋だった。古い羊皮紙の匂いが充満している。中央のテーブルに、すでに数冊の記録簿が置かれていた。
「座れ」
向かい合って座る。レオンが一冊の記録簿を開いて、私の方に向けた。
「王宮薬師の在籍記録だ」
ページを繰ると、名前の一覧がある。レオンが指さしたのは、中ほどの一行だった。
——エリナ・ローゼンベルグ。
母の名前だ。
「……在籍期間は」
「十二年前から十年前まで。二年間だ」
十年前。私が七歳のときに母は死んだ。七歳の二年前なら、五歳から七歳のあいだ。つまり母は、私が生まれてからも王宮に通っていた。
「なぜ父は何も言わなかったんだろう」
呟きが漏れた。レオンは答えなかったが、次のページを開いた。
「これを見ろ」
業務記録だった。日付と内容が書いてある。薬の調合、薬草の管理、診察の補助——そのなかに、ある日を境に変わる記述がある。
「『特命調査』……」
「十年前の秋から、エリナさんは通常業務と並行して、王宮内の薬物使用の調査を命じられていた」
冷たいものが、背筋を走った。
「薬物使用の調査を? 誰に命じられて」
「当時の国王——現国王の兄、先王だ。先王は在位中、王宮内で奇妙な病が続いていることを気にかけていた。症状が薬物中毒に似ていると、エリナさんが最初に指摘した」
「それが……今の毒事件と同じ」
「症状が酷似している。先王が亡くなってから調査は止まったが——やめさせた人間がいたと私は思っている」
レオンの群青の瞳が、静かに私を見ていた。
「エリナさんが死んだのは、調査記録の最後の日付から三日後だ」
三日後。
「……病死と記録されていますが」
「記録はそうなっている」
「でも」
「でも」
レオンが記録簿を閉じた。
「彼女の死因は、ジラニア草の過剰摂取による神経系の停止だ。王宮の医師が検死を行ったが、報告書には病死としか書かれていない。本当の死因を知っていたのは、検死を行った医師と、私の父——現国王、そして私だけだ」
頭の中が、静かになった。
音が消えた気がした。
母は毒で殺された。十年前に。そして今、同じ種類の毒が後宮に現れている。
「……調査を再開したかったんですね、殿下は」
「エリナさんと同じ体質を持つ人間が必要だった」レオンは静かに答えた。「誰も気づかないものに気づける人間が」
「それで私を」
「そうだ」
利用されている、とわかっていた。でも——これほどまで深い理由があったとは。
母は同じことをしようとして、殺された。私は今、同じ場所で、同じことをしている。
「……怖くないか」
レオンが、珍しく低い声でそう言った。
「怖いです」と私は答えた。正直に。「でも」
「でも?」
「母がやろうとしたことを、誰かが続けないといけないと思います。それが私でなくても、誰かが」
「きみが続ける必要はない」
「でも私が一番向いている」
レオンが、少し目を伏せた。
テーブルの上の記録簿を、私は手で引き寄せた。エリナ・ローゼンベルグの名前がある一行を、指先でそっと触れる。
温かくもなく冷たくもない、古い羊皮紙の感触。
そのとき、レオンの手が、私の手の甲にそっと重なった。
驚いて顔を上げると、群青の瞳が、いつもより近い距離にあった。
「……危険になったら、言え」
命令ではなく、懇願に近い声だった。
「はい」
「約束しろ」
「約束します」
レオンの手が離れた。でも少しの間、その体温の残像が消えなかった。
「今日話せるのはここまでだ」とレオンは立ち上がった。「残りは——また、随時」
「はい」
「アリア」
出ていく前に、一度だけ名前を呼んだ。
「よく聞いた」
それだけ言って、扉が閉まった。
私は古文書室に一人残って、母の名前を、もう一度だけ見た。
エリナ・ローゼンベルグ。
王宮の薬師で、同じ体質を持っていて、同じことをしようとして、消えた人。
——負けないから。
声には出さずに、そう思った。




