怪物と賢者
くじら水晶全体が濁り、三人は放り込まれるように内部に転送された。
イーキュライザーに魔力を込め、体勢を立て直す。
説明を受けた通り、そこは真っ黒な空間で、足もとがなかった。
先生とサラは光のベールをすぽっと脱皮するかのようにして元の姿に戻った。
「この空間内であればもう蝶の姿でいなくても動けるわ」
先生は眼鏡をクイっと直して言った。
先生の着ている紫のローブはいかにも賢者といった風で、その深みのある艶となびく様子からは、強い魔力と高い知性を感じさせる。それといつものやたらと踵の高いハイヒール。
サラは俺と同じ賢者学校の制服で、手にはイーキュライザーが握られている。
そして遠方にはそいつがいた——哀しみの怪物が。
俺は記憶を失くしていたので、少しの既視感はありつつも、そのおどろおどろしい容貌に一瞬目を背けた。
一ツ目は赤く血走り、胴体から直接生えた異様に長細い手足は、もはや壊死寸前に見える。それでも弱っている様子ではない。強烈な意志を持って俺たちを——いや、俺を待っていたのだ。
どうする? どうやって戦えば……?
「コンプ‼︎」
ズドォンという轟音とともに怪物の一部がベコリと陥没した。
先生は何の躊躇もなく攻撃魔法を放っていた。
「コンプ!コンプ!コンプ!コンプ!」
耳を塞ぎたくなるような激しい音が連続で鳴り響き。怪物の胴体がベコベコになる。概ね球体だった怪物の身体は、空気の抜けたサッカーボールを金属バットで執拗に打ちのめしたような歪な形へと変形した。
よろけた怪物の目がギロリと先生を捉える——反撃が来る!
「ハァーッ! トレモロ!」
間髪入れず、先生の木製の杖の先端から連続した高速の光弾が一ツ目に向けて大量に発射された。数十発——いや百発以上の光弾がマシンガンのように降り注ぐ。
怪物は沈黙し、その瞳が確認できないほど煙が上がった。
が、その煙の奥から巨大なエネルギー弾が先生目掛けて飛んできた。
先生は分厚い虹色のフィルタで簡単にそれをいなした。
「ふむ……なるほどね」
怪物の陥没した部分は、空気を入れ直したようにポコンポコンと膨らんで元の形に戻った。
「やっぱり私の魔法では決定的なダメージは与えられないようね」
俺は茫然として先生を見続けた。これが本物の賢者の魔法力、戦い方……!圧倒的じゃないか。俺はこんな人に憧れているのか、こんな人になろうとしているのか。
「ぼうっとしている場合じゃないわよ、ヴォックス君。思った通り、あなたの攻撃でないとこの怪物を倒すことができない。今あなたが使える魔法で一番強いのは何?」
「え、えっと、多分ディエッサー」
イーキュライザーに魔力を込め、その先端から尖った光の柱を出した。腰から頭のてっぺんくらいの長さの槍のような光だ。
「接近戦用ね。……うん、あなたのレベルだと遠距離・中長距離魔法では攻撃力が足りないかもしれない……ディエッサーでいいわ。 ではこうしましょう。私が怪物の動きを可能な限り止めるから、あなたはその隙にヤツの懐に入って仕留めてちょうだい。サラさんはヴォックス君のバックアップよ。いいわね?」
『ハイッ』
サラと俺は同時に返事をした。これが賢者の判断力、リーダーシップか。
「ゲイン」
先生は俺達に魔法をかけた。身体の芯が温かく膨張するような感覚がし、エネルギーが駆け巡った。白魔法だ。
「これで魔力をはじめとするステータスが一時的に増幅されたわ。でもあまり過信しないでね。色々副作用があるからちょっとだけよ」
ディエッサーの槍は今や俺の身長くらいの立派なものになっていた。それは明らかな魔力と自信の増加を表していた。
「さぁー!行くわよ!召喚魔法『ケンタウロス』‼︎」
先生の両目が赤くビカッと光り、闇を切り裂くようにして現れた白い空間から召喚獣が飛び出た。上半身は屈強な中世男子、下半身は筋肉の締まったサラブレッド、手には巨大な弓矢。
まさか召喚魔法まで使えるなんて、なんでもアリだな。先生の魔力パラメータは一体どんな割り振りになっているんだ?いや、全部がハイステータスなのか?俺は全方位にパンパンに張ったレーダーチャートを思い浮かべた。
「喰らいなさい!オーバードライブ!」
ケンタウロスは予備動作なしで矢を放った。
その矢は電撃を帯びて稲妻のように怪物の目に直撃した。爆音とともに怪物は身体をぐらつかせ、あまりの威力にその右腕が引きちぎれた。さらに、まとわりついた電気に痺れだした。
「イェーイ、ロックンロール!まだまだいくわよ!」
先生はノリノリだ、人が変わっている。
「私たちも行こう!」
見学している場合じゃない。サラに促されて動きの止まった怪物の横腹へ向かった。
怪物はそれを見逃してくれない。目玉をぐりっと動かし、鋭い矢のエネルギーを俺達に撃ってきた。
サラは俺の進路を守るためにフィルタの壁を発生させて防御してくれた。
「サンキュー!」
俺はディエッサーの形を保つことに集中しなければならない。守備はサラに頼るしかない。攻撃直前で冷静に発動できる自信がない。
「よそ見してないであなたの相手は私でしょ!コンプ!コンプ!コンプ!」
先生はまた派手に怪物を引きつけてくれている。
よし、これならヤツに接近できそうだ。飛行速度を上げた。
しかし突然サラはフィルタの壁ごと敵の攻撃に弾かれてしまった。
「がはっ」
腹部に思い切り喰らったらしい苦痛の声と、鈍い音がした。
慌てて振り返ると、千切れた怪物の腕がこちら目掛けて手を広げて迫ってきていた。
——そうか、物理攻撃はフィルタでガードできないからっていうかコイツ単独で動くのかよ!
俺は干涸びた紫色の手に鷲掴みにされた。その手は遠目に見ていたよりずっと大きく、俺の首から腰のあたりまでをがっちりと握って話さない。あまりの強さにじたばたしたが、握り潰されてしまうのではないかという恐怖が湧いてきて、次第に身体に力が入らなくなってきた。息が出来ない。意識が薄れる。
それだけではなかった。俺の全身が急速に黒く染まっていく。
——痛い痛い痛い熱い熱い熱い!
怪物に取り込まれてしまうのか、それともこのまま死んでしまうのか。もがいてももがいても解けない。
諦めかけてうっすら目を開けると、そこにはサラの顔があった。
顔を歪めて歯を食いしばり、怪物の手を引き剥がそうとしている。
「うぅ……ダメ、ヴォックス、染まっちゃ」
油が滲むように黒は俺の額の辺りまで侵食していた。




