王子様は、翻弄される
婚約者であるダリアとのお茶会の時間がもう少しで訪れるというのに、第一王子、アザレア・ドラモンドは頭を抱えていた。
アザレアは婚約者であるダリアを愛している。それは、一人の女性としてでもあり、自身とともに国を支えるパートナーとしてでもだ。穏やかで聡明でありながら、時に豪胆でもあるダリアとの会話はいつも楽しく、心が落ち着く時間でもあった。
しかし、この半月余り、アザレアは困っていた。
それは、学園の試験が始まる少し前のこと。聡明な婚約者は唐突に絵本を持ってきて、いつもの先を見通した瞳で語ったのだ。曰く、この絵本の物語のように鏡に閉じ込められたお姫様を助けたいのだ、と。
まず初めに疑ったのは、ストレスだった。問題を抱えた家庭環境でありながら弱音一つ吐かずに王妃教育も完ぺきにこなしていた婚約者を、自分はもっと心配しなければならなかったのだと、ダリアの話を聞きながらアザレアは自身を責めていた。しばらく王妃教育を休ませよう。時間は十分にあるし、ダリアはすでに完璧な令嬢だ。それでも妄言を吐くようであれば、アームストロング公爵に掛け合ってあの家から連れ出すしかない。
そんなことまで考えていたアザレアを、簡単に否定したのはダリア本人だった。
ストレスで頭がおかしくなったわけじゃないと否定するダリアの顔は、たしかに昔からよく見る呆れ顔で、その瞳はやはり何か…みんなが気づいていない何かを、見通している目であった。
そんなダリアを信じないほど、アザレアは愚かでもなければ、婚約者の想いに気がつかない人間でもない。
アザレアは、ダリアを信じることにした。たとえ、その話していることの内容がどうにも理解できない現象だとしても。
その信頼の結果、今日にいたるまでずっと、鏡の中の少女の話をされているのだ。
「ご機嫌麗しゅう、アザレア様。本日もお変わりはないですか?」
「ああ、こんにちは、ダリア。おかげ様で元気だよ。今日もあの話をするんだろう?」
「いえ、本日は少し趣向を凝らしてみようかと。」
エスコートを受けながらすたすたと歩くダリアの言葉は、アザレアをさらに困惑させた。
趣向を凝らすとは、なんだろう。信じるとは決めたものの、いつもの誰かもわからない悲劇のご令嬢の話を聞くことに対して苦痛を一切感じないかと言えば嘘になる。ダリアはそのご令嬢の話をいつも教えてくれるのだが、なぜかご令嬢の個人情報は教えてくれない。その理由だって教えてはくれないことを察してはいるので、無理に教えてくれとせがむことはしないのだが。
話せることに制約がある以上、いくら賢いダリアであってもその話に深みを持たせることはできない。結果アザレアは、この半月余りの間、ご令嬢同士の他愛のないやり取りを聞かされ続けているのである。色素が薄いその外見で、非常に温厚で優しい男だと思われがちなアザレアだが、昔から学ぶべきものが多く無駄のない生活を送る人生だったためか、実際のところあまり実りのない話は好きではない。
それでも、ダリアの話は毎回ちゃんと聞いていた。目的を持って動いているに違いないダリアの行動を、自身の浅慮によって否定し、失望されたくなかったからだった。
だからこそ、今日はそのご令嬢同士の他愛のないやり取りを聞かなくてすむかもしれないと思うと、少しだけホッとしたのだ。ホッとしながらダリアの言葉を咀嚼して、すぐに疑問を抱いたのだ。
趣向を凝らすとは、なんだろう、と。
「…ダリア、君は一体何をしようと言うんだい。」
「今日はアザレア様に、哲学のお話をしていただこうと思いまして。哲学の講義がお好きでしょう?」
そう言って席に座ったダリアは、侍女から受け取った荷物から何やら取り出して机の上にセッティングを始める。
セッティングされたそれは、ご令嬢が持ち歩く小さな鏡だった。
「確かに僕は好きだが、君はあまり好きではないだろう。」
「苦手なものを避けて通ることは、人生の彩りを損なわせますわ。」
「苦手…といっても、未来の国母としてはちゃんと及第点レベルだろう。このお茶会は息抜きの場でもあるんだから、たまには頭を休ませないと。」
「その点についてはご安心ください。アザレア様と議論するのは私ではなく…この子ですから。」
ダリアは机の上の鏡に触れる。アザレアは奇妙な思いでその鏡を覗いてみるも、鏡面に映っているのは見慣れた自身の顔のみだった。
ダリアの言いたいことは理解できている。この鏡の中に、いつも話している悲劇のご令嬢がいるのだろう。そして彼女と自分を会話させようというのだ。
アザレアは一瞬眩暈がしたものの、とりあえずは言うことを聞いてみるべきだろうと判断し、居住まいを正した。そんなアザレアの様子を静かにみていたダリアは、静かに微笑んで一冊の本を机の上に差し出した。
「アザレア様、この本は読まれましたか。」
「あぁ、以前家庭教師に進められて呼んだよ。従来の学派の考え方を継承しつつも、誰もが見逃していた批判点を指摘し、新しい視点を組み込んだ素晴らしいものだった。」
「なるほど。貴女はこの本についてどう思う?」
ダリアは鏡にちらりと視線を動かすと、何かに耳を澄ましているかのように静かになった。時たま頷きながらも、見えない誰かに「へぇ」などと返事をしている婚約者の姿が奇妙でアザレアは落ち着かない。
もう、限界だ。今日のお茶会が終わったら、親友でありダリアの兄でもあるダンテにまずは相談してみてもいいかもしれない。そう思考が飛びかけていたところに、ダリアが声をかける。
「私は、あの本については納得がいきません。」
「…え?」
「確かにあの本は、新しい視点を提供した素晴らしい本であると思います。しかし、これまで学派を気づき上げた著名な研究者たちの論拠に比べると、確実に不足しているものがあります。」
確実に本の内容を捉え的確な指摘を展開していくダリアの様子に、アザレアは素直に驚いた。
ダリアは非常に成績優秀な人物だが、唯一手を煩わせている分野が哲学であることは知っている。プライドの高いダリアが唯一質問をしてくるものだからだ。婚約者に頼られる嬉しさを初めて知った時、アザレアは、ダリアの苦手な哲学が得意分野でよかったと親友に語ったものだ。つまりアザレアは、ダリアの知識量と哲学というものに対する思考力を、良くも悪くも把握している。
だからこそ、アザレアには分かるのだ。ダリアに、こんな高レベルな返答はできない。
アザレアは初めて自身の得意分野について、家庭教師以外の人間と対等なレベルで議論ができている。アザレアが意見を言う度、ダリアは鏡に向かって耳を傾けては有益な意見を返してくれる。それは、先ほどまでの婚約者に対する不安をすべて拭い去るような、非常に有益で楽しい時間だった。
議論の途中で、アザレアは不思議な体験をした。
議論に夢中になったアザレアが、全ての不信感を忘れ、まるでダリアのように鏡の中に意識を集中させた時。
鏡の中に、アイボリーの髪の少女が見えた気がしたのだ。
思わず息をのんだアザレアは、ゆっくりと婚約者を見やると、「あぁ、やはり彼女は全て見通している」と苦笑をする。
愛しい婚約者は、だから言ったじゃない、と言わんばかりに意地悪く笑っていたのだった。




