元悪役令嬢は、絆される
母からの解放を夢見ていたのは、幼い頃。
今ではそんなことを夢に想うことはない。それは決して、諦めているからではない。そんなことを夢見るほど、私は無力ではないからであり、今となっては母に一切の脅威を感じないからだった。
もともと母は、教育に厳しい人ではあった。ただ、その厳しさに理不尽が見え出したのはアザレア様との婚約が正式に決まってからだった。ご自分にも厳しいところがあるお母様。だからこそ、自身の子であり、誉れ高き公爵家の子である私と兄にも厳しいのだと信じていた。
なのに、婚約が決まってからの母は、私にばかり無茶な教育を施すようになった。
兄にも厳しい姿勢は見せるが、そこに情熱はない。ただ自身の立場上の義務感があるだけなことに、幼いながらに賢かった兄はすぐに気が付いた。リリィと階段で衝突した事故は、ちょうどその頃。母の関心を求めた兄の一時的な反抗期だった。
正直言えば、リリィと出会うまでは、あの事故に感謝していた。
ご令嬢を階段から突き落とすという失態に対し、兄は動揺し、母は激怒した。自身の教育が疑われると。しかし、こちらが責任をとるために提示した婚約をリリィ・ホランドが不敬な形で破棄。途端に社交界での注目はリリィ・ホランドに集まり、入れ替わるようにして兄の醜聞は収まった。それらの影響もあり、なかなか婚約者が定まらない兄はアザレア様とより仲良くなる。その結果、アザレア様は母の本性に気がつき、兄と私の境遇を気遣ってくれるようになった。彼の前では、当然母は王妃への不敬な感情を露わにはできない。時に母への盾となってくれるアザレア様がいたから、私は母を小さな存在だと思えるようになったのだ。
兄がぶつかったのがリリィ・ホランドでよかった。ずっとそう思っていた。
でも、真実を知った今となってはリリィへの申し訳なさばかりが胸を占めている。
あの事故がなければ、彼女の今までの人生は不幸にならなかったのではないか。彼女の不幸の原因を私が喜んでいたから、神様が私に彼女を救うように試練を与えたのではないか。一連の出来事で、私に一切の罪がないことは理解しているが、そう考えずにはいられなかった。
だから私は、自ら毒を浴びに行くのだ。
「ごきげんよう、アームストロング公爵令嬢。」
「ごきげんよう、ホランド伯爵令嬢。きっと訪ねてくると思って、ここで待ってたの。」
そこは以前、偽物であるユリーと話した場所。
私の予想通り、偽物は私の少し腫れた頬を凝視している。今日一日、この頬のおかげでとても目立った。貴族令嬢が、顔に傷を負った状態で人前に出てくるなんてありえない。しかも、その状態で現れたのはあのダリア・アームストロングとなれば噂は学園中に知れ渡っているだろう。直接理由を尋ねてきた勇気あるご令嬢には、「顔に虫が留まったから、思わず自分で思いっきり叩いてしまったのだ」と適当な理由を述べておいた。それを信じるかは怪しいが、当の本人であり筆頭公爵令嬢がそう言っているのだ。さらに上の権力者が否定しなければ、それは真実になる。
そのさらに上の権力者である兄とアザレア様は、おそらく本当の理由に気がついているだろうが、まさか本当のことは言わないだろう。であれば、完璧な公爵夫人が実はヒステリックで、娘に暴力を振ったなどと思う人は誰もいない。
ただ一人を除いては。
「その頬はどうされたのです?」
「どうしたと思う?」
「……先日の試験結果が原因ですか。」
「まあ、それはあるわね。」
「…っ、貴女のお母様は、まだ貴女に暴力をふるうのですね…あなたはもう、誰もが認める完璧な公爵令嬢になったのに…それでは足りないというの…。」
計画通りだ。
動揺している偽物の言葉を、静かに反芻する。
今日こうなることを見越して、私はわざと母の逆鱗に触れる順位をとったのだ。確かにいつもよりは勉強不足だった。しかしそんなのは日ごろの積み重ねの前では些細なもの。一位と言わずとも、二位ならば確実に取れる自信はあった。
でも私は気になったのだ。この女が、いったいどこまで知っているのか。一貴族の情報なんてたいして持っているはずのない幼少期に、私の父の人柄がとても良いことを確信して行動した。社交界では完璧な仮面を被っている母の、王家と公爵家しか知るはずのない醜い顔を知っていた。
四位なんて順位を、あの女が小言や罵倒で済ませられるはずがない。案の定、母は私に手をあげた。そして私は、家の者たちの反対を押し切って学校にこの顔をさらしに来たのだ。
”まだ貴女に暴力をふるうのですね”
偽物は、母が暴力を振ることも知っている。幼少期からだということも。しかしおそらく、今だに私が暴力被害に遭っていることは予想外だったのだろう。
「貴女の知る”展開”では、もう私は母から解放されていたの?」
「え…。」
「以前貴女は言っていたわね。満足する展開を見せろ、と。私、考えたの。貴女が何者か。はじめは、ただの人を巻き込んだ娯楽主義者だと思ったの。日常に辟易したサイコパス。でも違う。貴女はすでに知っているのね。全ての展開を。そして、その展開は貴女の満足いくものではなかった。」
以前の私ならばこんな話は馬鹿らしいと一蹴する。でももう、鏡に閉じ込められた人を助ける、なんていうおとぎ話のような展開にはなっているのだ。こんなことはありえない、なんて仮定を置いてしまえば、可能性を見過ごすことを知っている。
「貴女が知りえない知識を持っていること。そして、私やリリィに対する先入観。貴女が未来を知っているからだと考えれば、全てに説明がつく。」
「……あなた、そんな明快な性格だったのね。」
「な、なによ、いきなり。」
突然馴れ馴れしいことを言ってきた偽物。その目が、またあの時と同じ目になる。
あの、優しさを帯びた、こちらがむず痒くなってくるような目。
「あと一月ほどで、パーティーがございますね。」
「それが何よ。」
「私が知っているのは、そのパーティーまで。」
「!!やっぱり貴女、未来を知ってるのね。」
「パーティーまでに、私が求める展開を…未来を見せてくださいね。」
カーテシー。そしてまた、言い逃げ。
私が命令すれば、あんな言い逃げなんてできなくなることは分かっている。それでもなぜか、私は偽物を引き留めることができないのだ。
今まで見てきたリリィ・ホランドとは違う、どこか落ち着いたその雰囲気が、私を見る目が、私を強気にさせないのだ。
その原因に、なんとなく私も気がついていた。




