ある日の帰り道、アジフライの妖精に出会った
私が彼と出会ったのは、仕事で疲れきった帰り道でした。
新しい職場には、中々なじめません。
はじめに小さなミスをたくさんしてから、声をかけられるたび注意されるんじゃないかとビクビクしています。
だから週の後半には気疲れが泥のようにたまって、ますます集中力が鈍って、またケアレスミスしてしまう悪循環がぐるぐる、ぐるぐる。
趣味で続けてきたWEB小説投稿は、すっかり書く時間も気力もなくなって、ようやく仕上げた作品もほとんど読まれず、心と筆が折れる寸前。ランキングなんて、くそくらえ……。
ここ最近はご飯を食べるのもめんどうで、夜はカップ麺どころかゼリー飲料で済ます日も多くなって。そういうのも悪循環をますます加速するって、わかっています。でもその循環から抜け出すには力が要るし、それがもう残ってないし、だったら流れに身を任せたほうが楽だし。
駅からアパートまでの帰りみちは、ずっと下を向いて歩きます。交互に踏み出す靴先をただ見ていると、余計なことは考えずに済む。
ほら、右、左、右、左、右、左、み──
「──わ!?」
とつぜん、前方にあらわれた茶色いなにかを踏みかけて、声を漏らしながらぎりぎり右足を止めました。
おそらく犬のあれです。くそくらえなんて思ってしまった罰でしょうか。
もし気付くのがほんの少し遅れたら、全体重の乗った靴底が満遍なくそれを圧し潰し、大惨事になるところでした。
ぞっとしながら、おそるおそる右足をずらして、ブツを確認します。
「──え?」
また、間の抜けた声が漏れてしまいました。
だってそれは、こんがりキツネ色の衣をまとった三角形で、上端に逆三角の尾びれがついた──まごうかたなきアジフライだったから。
呆然と見下ろす視線の中で、それは、尾びれを振った反動でひょいと起き上がります。続いてふわりと空中に浮かんでゆっくり上昇し、こちらの目線でぴたり停止しました。
目を凝らせば、背面からトンボのように透明な羽が生えていて、パタパタとはばたいているのがわかります。
「ウン、あぶないところでした」
子役の少年を思わせる、こまっしゃくれた声。同時にキツネ色の衣の表面には、ソース色の点が横並びでふたつ、その下に線が一本浮かんで、シンプルな顔が出現します。
──嗚呼、ついに幻覚までも見えるように。
「だいぶおつかれですね、ぼくが見えるなんて。でも安心してください、幻覚が見えているわけではないから」
ソースで描かれた口をふにふに動かしながら、心を読んだかのような台詞を発するアジフライ。
「ぼくはこの世にちゃあんと存在していて、ただ、すごくつかれたひとの目しか映らないたぐいの妖精です」
衣が盛り上がった短い手を、話に合わせふりふり振りながら。
妖精……? つまり、アジフライの妖精? 目の前の不可解な存在をまじまじと見詰めてみると、たしかに幻覚にしてはくっきり存在感があります。ほんのりと美味しそうな匂いもしてきた。
「あっ、ぼくを食べちゃだめですよ! かわりに良いところに案内します」
そう言うと、羽をパタつかせながらふわりふわり空中を漂うように、道のすこし先の右手にある細い路地へと消えていきます。いつも下を向いて歩いているから、そこに路地があることも知りませんでした。
だからもちろん覗き込んだ路地の先で、年季の入った電飾看板に浮かぶ「定食や」の文字も初見です。
──こんなところに。
アジフライの姿を探しながら、私はこじんまりしたお店の前まで来ていました。紺色ののれんの向こう、灯りの漏れる引き戸には「アジフライ定食あります」の貼り紙。
ほんのりと、香ばしい匂いが鼻をくすぐって、お腹がぎゅるると鳴りました。自分のお腹の音を聞いたのなんて、いつぶりだろう。その音に背を押されたように、引き戸を開けてお店の中に踏み出していました。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
店主であろう柔らかな男性の声が、カウンターの奥から迎えます。
店内はテーブル二つとカウンター席だけ。テーブルのひとつでは、すでに空になったお皿を前に背広姿の二人組がなにやら穏やかに話し込んでいました。それを横目に、無人のカウンター席に腰かけます。
「アジフライ定食、ご飯大盛りで!」
「はい、かしこまりました」
メニュー表を見ようとした瞬間にこまっしゃくれた声が響いて、勝手に注文が成立してしまいました。カウンターを裏側からよじのぼって、口角をニンマリと上げたアジフライの妖精が姿を現します。
「お店に導いて消えるパターンかと思いましたか? ふふん、そんな予定調和に収まるぼくではないのです」
正直ちょっと図星だったので、誤魔化すように立ち上がり、セルフサービスの給水機からお冷やをコップに注いで戻ります。
「ここのアジフライは絶品ですよ。連れてきてあげたんだから、ひとくち齧らせてくださいね」
カウンターでおとなしく待っていたアジフライは、そんなことを言い出しました。こっちから話しかけたら何かの一線を越えてしまう気がして躊躇していたけど、さすがにもうツッコミを抑えられません。
「それって、共食いじゃないの?」
小声で問いかければ彼は「またそれですか」とつぶやいて、大きくため息を吐きます。
「きみは、ぼくを何だと思ってるんですか?」
「……アジフライの妖精?」
「せいかい」
正解でした。
「そう、アジでもアジフライでもなく、アジフライの妖精です。世の中にはいろんな妖精がいますよね。梨の妖精ふなっしー、納豆の妖精ねば~るくん……彼らのプロフィールを見てほしい」
熱のこもった口調で力説するアジフライ。
「ふなっしーは梨が好物だし、ねば~るくんは納豆が好きと書いてます。妖精ってそういう存在なんです」
「なるほど……?」
危うく納得しかける自分にブレーキをかけます。いやいやちょっと待て。
「あれらは妖精というか、ゆるキャラなのでは。ちゃんと中の人がいて……」
「ううん、あれらの三割ぐらいは、ぼくのような本物です」
それじゃあ、ふなっしー、ねば~るくん、くまモンのなかのどれかは本物の可能性が高いってこと? にわかには信じられない情報に、呆然とします。
「お待たせしました」
そこでカウンター向こうから、声と同様に優しげな店主さんが、お盆を目の前に置きました。下敷きになりかけて、ひょいっと避ける妖精。
お盆の上には出来立てのアジフライ定食。こんがりキツネ色の大ぶりなアジフライ二尾に添えられた、刻みキャベツにタルタルソースにカットレモン。お味噌汁とほうれん草の小鉢もついてます。そして丼ぶりに山盛りの白米からたちのぼる白い湯気。
「……いただきます」
無意識のうち声に出していました。こんなに真っ当な「晩ご飯」を食べるのはいつぶりでしょう。
横から見ている妖精よりひとまわり大きくて、箸でぎりぎり持ち上がる重さのアジフライに、まずは何もつけずにサクりかぶりつく。
前歯から伝わる心地よい衣の感触のあと、厚みのある柔らかな身からじゅわりと口いっぱいひろがる旨みを、逃さぬように白米をかきこむ。
──ああ、そうか。これが「ご飯を食べる」ということ。
お腹だけじゃない、その奥の何かが満たされていく感覚。ずっと忘れていたものです。
そうして気付けば、大盛りのご飯も米粒ひとつ残さずたいらげていました。
ちなみに妖精は約束通り、タルタルソースたっぷりつけたアジフライにがぶり一口だけかぶりつきました。その部分がしっかり消えて無くなったので、ほんとに彼は実在しているようです。
「ごちそうさまです」
「ありがとう、またきてね」
「はい!」
店主さんの優しい笑顔に見送られながらお店を出て、前を向き歩く右肩には、ちょこんと妖精が乗っています。飛ぶのはけっこう疲れるらしい。
「すごく美味しかったよ。教えてくれてありがとう」
「どういたしまして。これがぼくという妖精のアイデンティティですから」
結局、妖精は私のアパートまでついてきて、布団と毛布の代わりらしいお皿とラップを準備させると、もぐりこんですぐに寝息を立て始めます。
襲ってきた猛烈な眠気は、ひさびさにしっかりご飯を食べたせいでしょうか。どうにか耐えながらシャワーだけ浴びて、気絶するようにベッドに倒れ込みました。
驚くほどにすがすがしく目覚めた翌朝には、お皿の上に抜け殻みたいにラップだけ残して、妖精の姿はどこにもありません。
結局、ぜんぶ夢だったのかも知れない。ふと不安になって検索してみると、昨日のお店はちゃんと存在していて、今日もしっかり営業するようです。
もしかして、すごく疲れた人にだけ見えるたぐいの妖精だから、疲れが癒えたことで見えなくなってしまったのでしょうか。
胸の奥に寂しさを覚えたけど、同時に彼のくれた、よくない循環から「抜け出すための力」もそこに宿っている気がしました。
──それから、数カ月後の夜のこと。すっかり常連になった例の定食やさんのカウンターで、料理を待っていたら。
「やあ、なかなか調子がよさそうですね」
当たり前みたいにカウンターの向こうから現れたキツネ色の三角形に、呆然とさせられました。聞けば、他の疲れた誰かをアジフライのもとに導いていたのだそう。
「こう見えて、ぼくはいそがしいのです」
ちなみに、彼の姿が一度見えるようになったら、すごく疲れていなくともずっと見えるままらしい。
そこで店主が「はいおまたせ」とお盆をカウンターに置きました。いつかのようにひょいっと避けた妖精は、お皿の上の丸いかたまりを見て無言になります。今日はがっつりな気分だったから、メンチカツ定食を注文していました。
「……ううん、がっつりしたのもいけるようになって、よかったです……」
しぼり出すような声に罪悪感を覚えつつ、きみのことを小説に書いてもいいかと訊ねたら、嬉しそうに跳びはねながら「書いて書いて」と言ってくれました。
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