異国へ嫁ぐ令嬢のあったかもしれない初恋
幼少のみぎりからお仕えしているシャーロット様と共に王都に移り住んだのは、春の訪れを首を長くして待っていた頃でした。
海を渡った遥か彼方のザリーシャ国の公爵に嫁ぐことが決まり、王都にある縁戚の邸宅に移り花嫁修行をする必要が出たのです。温かくなってからでいいのにとご家族が嘆く傍らで、ご本人の態度はあっけらかんとしたものでした。
「庭園のブーゲンビリアが咲くのを見届けたかったな。ザリーシャにも同じ花はあるかしら?」
しかし、これを持って故郷に未練がないと判断するのは早計と言うものです。ずっとお側で仕えている私から申し上げれば、どんなに心の中で泣いていても対外的には朗らかに笑えるのがシャーロット様という方でした。
間もなく王都に移り住み、花嫁修行という名の婚礼準備が始まりました。
具体的にはザリーシャという国を知るための勉強です。座学は難なくこなせましたが、作法やマナーなど実践的な内容はいささか苦労したようです。というのも、我が国の文明とは起源からして異なり、これまでの価値観、人生観、宗教観のどれもが通用しないからです。知れば知るほどこちらの常識とは何もかも違っていました。
「あらゆるものが違うのね。一人の夫に対して妻は何人いてもいいみたいよ。目上の人に対しては地面に這いつくばるんですって」
「私は着いていけないのですから、シャーロット様がよほどしっかりしないと」
「大丈夫よ、メアリー。私はどこでもうまくやってのけるから」
そう、私は同行できないのです。誠に断腸の思いですが、一使用人がどうこうできる問題ではありません。そんな私を安心させるかのように、シャーロット様は明るく笑うだけでした。
さて、ようやく春が訪れる頃になると、多少精神的に余裕が出てきました。家の外に出て王都の街を楽しみたい欲が出てきたのです。
ですが、シャーロット様は他国の公爵に嫁がれる大切な御身。もしものことがあってはいけないと外出を控えるように言われていました。今まで田舎住まいのお嬢様にとって王都は夢見る大都会。目の前にご馳走をぶら下げられてお預けを食らっているようなものです。
「ねえ、メアリー。ちょっとでいいのよ。少しだけなら抜け出せるでしょ」
「もし大奥様に知られたら大ごとになりますよ! 何かあったら大変です!」
とは言え、お嬢様の境遇には私も大いに同情しておりました。好奇心旺盛の若い娘が、王都の街に一歩も出られないなんて何という拷問でしょう。せめて一回ぐらい何とかならないものか――。
そう考えた私は、ある春のうららかな日に、二人で屋敷を抜け出して街へ繰り出すことにしました。
思った通り、王都の街並みは見るもの聞くもの全てが目まぐるしく色鮮やかでした。田舎者の私は何から何まで圧倒され放しで、ずっと口をあんぐり開けていたと記憶しています。シャーロット様も目を爛々と輝かせて興奮しきりでした。
「ありがとうメアリー。いい思い出ができたわ」
たくさんの荷物を抱えながらシャーロット様は満足そうにお礼を言いました。そこまではよかったのですが、夕方になり雲行きが怪しくなったのです。間もなくにわか雨が降り出し、傘を持っていなかった私たちは、大きなケヤキの木の下で雨宿りをする羽目になりました。
お体が濡れて風邪をお召しになったらどうしよう、大奥様に大目玉を食らうことよりも、シャーロット様が健康を崩すことの方が私は心配でした。屋根のない場所で急に雨に降られて、たまたま近くに大きな木があったのはいいものの、一刻も早く止んでくれればいいのですが。
そんな時です。傘を差した一人の若い男性がこちらに近づいてきました。
「お見受けしたところ傘をお持ちでないようなのですが。私の家はすぐ近くなので、どうかこれをお使いください」
彼は、我々の隣まで来ると傘を閉じてこちらに差し出しました。物腰柔らかく言葉遣いも丁寧なその青年を、私は思わずまじまじと見つめました。
涼やかな目元に薄い唇。黒髪も相まって落ち着いた雰囲気をまとっています。歳の頃は20代半ばと言ったところでしょうか。身のこなしや言葉の発音からは、アッパーミドル以上の階級を想起させますが、その割に着ているものは質素で傘も高級店で売っているものとは違うようです(失礼なのは承知してますが、大切な方をお守りする以上、他人を値踏みする癖がついているのです。どうかお許しを)。
「そんな……申し訳ありませんわ。傘をお返しできませんし」
「返さなくていいですよ。別に高級でもないので」
彼の目がふっと細くなります。目尻がくしゃっとなった拍子に右側に小さなほくろがあるのを発見しました。
「シャーロット様、ここはお借りしましょう。風邪をお召しになったら大変です」
「返却したければ後でそこの柵にかけといてください。また通りかかった時に回収するので」
青年は、歩道沿いの鉄柵を指すと、上着を頭に被せ雨の中を走って去っていきました。私は彼の好意をありがたく受け取り、お嬢様が濡れないように傘を差して何とか帰宅できました。
帰ってから大奥様から大目玉を喰らったのは言うまでもありません。お陰で、出立の日まで一切の外出を禁止され、どうしても用事がある時は私が処理するようにと申しつけられました。それでも、殺伐とした都会の中で優しい人に助けてもらったという経験はかけがえのないものになりました。
「いくら好意だと言っても、傘はお返ししないといけないと思うの」
義理堅いシャーロット様は、いつしか傘の返却を気にするようになりました。受けた好意はきちんと返さないと気が済まない性分です。だからこそ日頃から尊敬できるのですけど……ですが、どうすればいいのでしょう?
名前も住んでいる場所も知りません。借りた場所に置き去りにするだけでは不安です。それでもお嬢様の意思は固かったので、私が傘を置きに行ってしばらくその場で待つという方法を取ることにしました。
「お礼の手紙を書いたから取っ手のところに結んでおいてくれない?」
「え!? 手紙ですか?」
「そう。傘だけ返すのじゃ失礼でしょう?」
「でも、無事本人の手に渡るか怪しいですよ?」
「いいからいいから」
私はとてもうまくいくとは思えませんでしたが、シャーロット様の頼みとあらば断ることができません。しかし、手紙には何を書いたのでしょう。主人の手紙を盗み読みするなんてあるまじきことですが、異国への輿入れが決定しているのっぴきならぬ状況。いくらお礼状とは言え、若い男性宛ての手紙の内容は気になります。そこで、封筒に入っていないのをいいことに、こっそり中身を確認しました。
『先日は傘を貸していただきありがとうござぃした。私は、ザリーシャという遠い異国へ嫁ぐ準備のために王都にやって来ました。先の見えない未来への不安と、愛する人たちと別れなければならない悲しみに暮れる中、見知らぬ方からの思いがけない親切にどれだけ勇気づけられたでしょう。この先どんなに辛いことが起きても、あなたの笑顔を糧に頑張れそうな気がします。あなたは真っ暗闇の世界に突如現れた眩しい光でした』
誰もいないところでこれを読んだ私は、人知れず涙を流しました。明るく朗らかな笑顔を絶やさないシャーロット様がこんな闇を抱えていたなんて。いつもお側にいて理解しているつもりだったのにちっとも分かっていなかった。己の愚かさにほとほと嫌気が差します。
それでもお嬢様は、運命を受け入れ懸命に戦っているのです。おそらくもう会うことのない、一瞬すれ違った男性に心情を吐露することだけを自分に許して。あまりのいじらしさに泣けてきます。
私は傘を届ける役目を必ず果たそうと思いました。買い物に出かけるついでにケヤキの下まで行きました。そして、傘を鉄の柵にかけて、少し離れたところで待つことにしました。
しかしながら、当然と言うか、そう簡単に事が運ぶわけがありません。二時間以上粘っていましたが、誰も傘には目もくれず素通りして行きます。そろそろシャーロット様のところに戻らなくてはならず、泣く泣くその場を離れることにしました。
帰ってきてから成果がなかったことを報告しましたが、シャーロット様は「そんなもんでしょ」と涼しい顔でした。
それでも私は簡単に諦められませんでした。翌日も、そしてそのまた次の日も私はケヤキの木の下に行きました。すると、傘がなくなっており、鉄柵に新しい白い紙が挟まっているのを発見したのです!
「シャーロット様!! 奇跡です! お返事が来ました!」
私は日頃の慎みも忘れ、転びかけながら手紙を渡しました。この時のシャーロット様も一瞬我を忘れていたと思います。はっと弾かれたように椅子から立ち上がり、白磁の頬をバラ色に輝かせたのです。そして無言のまま手紙を受け取り貪るように読みました。
『まさか本当に傘が返ってくるとは思いませんでした。しかも温かいお手紙までいただけるなんて。僕にはそれを受け取る資格はないのです。なぜなら、あなたについ見とれて格好いいところを見せたかっただけだから。こんなこと言うべきではないと思いましたが、あなたの真摯な言葉を受けて隠し立てするのに後ろめたさを感じました。こんな僕でも一瞬の光になれたことを誇らしく思います。こちらこそありがとう』
「十中八九駄目だと思っていたわ。なんでもやってみるものね」
「あの……お返事を書かれるならお渡しください。また行ってきます」
シャーロット様はえっ? と言って私の顔を見ました。おそらく、黒髪の青年と文通をしたいのではないかと思ったのです。ほとんど見ず知らずの人だからこそ打ち明けられる本音――。今のお嬢様はそのような場が必要だと思いました。
シャーロット様は、半信半疑ながらお返事を書きました。私がそれをケヤキの木の下の鉄柵に結び待つこと数日、新たな手紙が結ばれているのを見た時は思わず飛び上がりました。
「すごいわねえ、メアリー。こんなことってある? たった一度、偶然出会った人と文通をしているのよ? 外にも出られないからいい退屈しのぎになるわ」
シャーロット様は冗談めかしてこうおっしゃいましたが、私には分かっております。誰にも打ち明けられない不安な気持ちを手紙の中に吐き出していたことを。
私は自らメッセンジャーの役を担っていましたが、綱渡りをしている自覚はありました。万が一、お嬢様の覚悟が揺らぐような気配があれば真っ先に察知しなければならないと手紙のチェックは欠かしませんでした。しかし、彼女の自制心はとても強いものでした。それは相手も同じ、彼は自らの素性を一切明かすことがありませんでした。手紙に綴られる言葉は真心にあふれたものでしたが、決して手の届く相手ではないと察していたようです。
文通はこの後も何度か続けられました。しかし、突然終わりの日がやって来ます。シャーロット様がザリーシャに向かう日が決まったのです。そうと決まってからはあっという間でした。文通のことなんか脇に追いやられるほどに。でも彼女も私も決して忘れてはいませんでした。
「メアリー。私が出国することをあの方に伝えてほしいの。自分から説明する時間はないから。お願い。今までのやり取り見てたんでしょ?」
「! お気づきだったんですね! 申し訳ございません……」
「怒ってなんかいないわよ。当然予想してたし。今まで黙ってくれてありがとう」
こうしてシャーロット様は大勢の者たちに見送られながらザリーシャに向かわれました。私がどれだけ嘆き悲しんだかは想像を絶すると思います。しかし、まだやり残した事があります。あのケヤキの下に向かい、最後の手紙を結びました。
『シャーロット様の指示でこれを書いてます。彼女は無事ザリーシャに旅立ちました。最後まであなたへの感謝の言葉をおっしゃってました』
簡潔に書いた手紙を鉄柵に結び、何のしがらみもなくなった私は、最後まで見届けることにしました。どれほど待ったでしょう、太陽が沈みかけた頃になり、一人の青年がケヤキの下に立ち寄り、慣れた手つきで手紙をほどきました。
(あの人だ……本当に文通をしてたんだ)
彼は手紙を目にして、しばらくその場に立ち尽くしていましたが、やがて肩を落としとぼとぼした足取りで去って行きました。私が見たのはこれが全てでございます。
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