147話 フェスの終り
れもんの曲は明るく楽し気でありながらも女の子らしさを感じる曲だ。音程の幅があり、途中でウィスパーボイスという囁くような歌唱技術が必要とされる曲のため、割と歌唱難易度が高い曲だが3人ともしっかり歌う事が出来た。
特に途中のウィスパーボイス歌唱の部分は、竜胆れもんが配信で普段は出さない質の声を出すから人気だ。そこにナツハと小路も加わって、会場とネット配信は3人の声に喜びの声とコメントが巻き起こった。
ナツハの曲は聞きやすさと透き通るような声の質を押し出した曲で、音程の高低差も極端じゃないのでファンにも気軽に歌ってもらえる事を重視した作曲になっている。
それ故に声の質や基礎的な歌唱力のレベルが濃く反映される歌だが、3人ともしっかり歌唱力はあるためファンも満足してる。途中からナツハ達が「皆も一緒に歌ってー!」とMCをして、会場のファンを巻き込んで盛り上がった。
それぞれに素晴らしい歌だった、よくVtuberを含むアイドルは歌が下手だと言われてるが、それに当てはまらない人だって多く、彼女たちは正にそれだった。もちろん歌があまり上手ではないVtuberやアイドルも多いのは事実だが、それも味であり魅力の一つである事も忘れてはいけない。
「押さないで下さーい! 危険ですので前に詰めないようお願いしまーす!」
「小路ちゃんの歌、サイコーだったよー!!」
「れもんちゃんカッコ可愛かった~!」
「ナツハちゃん歌が上手すぎるー! 声も最高すぎだー!!」
灰川は結局3人の歌をほとんど聞けなかった。断片的には聞こえて『上手いなぁ』『良い曲だ』と思ったりしたが、じっくり聞く余裕なんて全く無かったため次の機会に保留だ。
これで3人のライブの時間は終わり、後は他のシャイニングゲートVtuber上位陣も何名か出て来て、ラストまでトークや歌やダンスライブで大団円という予定だが時間が少し余ってる。ちなみに小路はダンスの時は影武者に変わってもらう事で参加する。
『時間が少し余っちゃった! せっかくだから練習中の曲を聞いてもらうってのどうですかねっ!?』
『良いよ れもんちゃん、たまにはこんなチャレンジしたいって思ってたんだ』
『あの歌だね~、私も聴いてもらいたいな~、頑張って歌うよ、ふふふ~』
まさかの未発表の新曲がサプライズで聞けるとあって、会場もライブ配信を見てるファンも沸き立つ。
このサプライズは3人からの灰川に向けた感謝の歌のようなものだ、3人とも灰川には悪しからぬ感情を持っている。
ナツハは何度も助けになってくれて、面白さと意外性と飾らない姿を見せてくれる灰川にかなり強めに惹かれ初めてる。以前は暴走して彼に対して変な事を仕掛けてしまったが、灰川は気絶して覚えてない。
小路は灰川が自分と問題なくコミュニケーションを取るために、視覚障碍者介助を学んでくれた事を知ってる。歩行介助や食事介助も面倒がらず、むしろ一緒に居ると落ち着くと思ってくれてるのも知っており、灰川の事を異性としても慕うようになった。
れもんは灰川と対面してから日が浅いが、命の危機すら感じる状況を助けてもらい、その上で失われた自分の家系の術を使って先祖を送ってくれた場面を目にしてる。そんな灰川に悪い感情がある筈もなく、むしろナツハと小路が彼に向ける視線の理由を知った。
れもんはボーイッシュな明るい性格だが心は真っ当な少女であり、そういう感情を察知する嗅覚だって同年代の子と同じように強い。
それぞれに感謝や気持ちを込めてサプライズに臨む、イントロが流れ出すが製作途中の曲なのか簡素な音源で楽器演奏ではなく電子音源だ。会場はサプライズという事もあって少し静かになり、3人の歌う新曲を聞こうという雰囲気になっていた。
『じゃあ聞いて下さい! 仮タイトルは”太陽の元”だよっ!』
れもんが仮の曲名を発表し、イントロが終わって歌唱部分に入る。中性的な8ビートの現代歌謡で、静かすぎず喧し過ぎない曲だった。
灰川は少し静かになったホールブースの前で見張りをしつつ、この曲は聞き覚えがあるなと感じて気が付いた。これは昨日に胡桃名流浄霊術をした時に歌った自分の曲だ!
曲にはアレンジが入り、歌詞は3人が歌う用途に合わせて素人仕事の曲から結構な改良が加えられてる。しかしこの曲は明らかに自身が作曲した物だと灰川は感じていた。
竜胆れもんは記憶力が非常に良く、幼少時から歌の教育を受けて来たので一回聞けば歌はかなりの部分を覚えられる。それを活かして昨日に聞いた曲をパソコンで簡易的に音源に起こし、3人で歌ってくれてる。
これには流石に灰川は驚いた、昨日に聞いて用意するのも簡単じゃないし、ナツハと小路も一緒に歌ってる。自分の作った曲が何万人という人に向けられて歌われてる!頑張って覚えてくれた3人と、自分の作った物が多くの人に届けられる感動を一挙に与えられた。
Aメロ、Bメロが終わりサビの部分に入る。簡素な音源でメロディーラインも乗ってるから歌いやすいようで、声もしっかりと出ていた。
『木漏れ日の日差しが 温かく呼んでいる』
『在りし日の思い出が 溢れるような温度で』
『きっとこの先も~… 』
サビが終わり曲が終わる、全体の曲を作るような時間も練習する時間も無かったようで1番部分だけだ。曲の完成度も歌詞の良さもプロが作った曲には及んで無いが、それでもファンは満足してくれた。
『聴いてくれてありがとー! いきなり歌っちゃってビックリさせちゃったっすかっ!? 許してねっ!』
『ふふっ、良い曲だよねっ、この曲を作ってくれた人に会ってみたいって思ったよ』
『まだ未完成だけど、完成したらちゃんと歌ってみたいな~』
曲後の反応もなかなか良い、自分の作った曲を歌ってくれた3人に感動と感謝の念を抱きつつ仕事に向き合う。ファンが柵を越えないよう見張りに腰を入れようとしたが、灰川は別のスタッフに呼ばれて次の現場に向かう事になってしまった。
シャイニングゲートのスタジオでは次の準備のため少し休憩時間となっていた、ナツハが小路の手を引いて椅子に座らせてあげて隣にナツハも座る。れもんはスタッフに呼ばれて仕事の話をしてるようだった。
2人で座って灰川さんは驚いたかなとか、サプライズした時の顔が見れなくて残念だとか、笑いながら話してる。そんな中で小路がとある話を周りに聞こえないよう小さな声でナツハに話す。
「ナっちゃん先輩~、灰川さんのこと好きになっちゃった~? むふふ~」
「!? あ、あははっ、どうしたの小路ちゃん? そんなこと聞いてっ」
「上手に隠してるけど、同じ人が好きになっちゃってる人には隠しきれてないよ~、私とかね~」
「そ、そうなんだ…実は私も同じかな…っ」
小路はナツハの声や灰川に対する反応を感じて結論付けたのだ。ナツハは自身が灰川に対して感じてる気持ちがバレてた事に焦るが、小路も灰川に好意を持ってる事を明かしたので素直に肯定した。
「でも灰川さんってね~、私達くらいの女の子にあんまり興味がないみたいなんだ~」
「うぅ…それも何となく分かるかも」
灰川は現状ではナツハやエリス達を仕事の関係者仲間のように思っており、異性として強く意識するような事は無い。もちろんドキリとさせられる事はあったりするが、そこで話が終わってしまう状態だ。
「だからね~、灰川さんのことを年下の女の子が大好きにさせちゃおう~って思ってるんだ~、ナっちゃん先輩も一緒にどうかな~? むふふ~」
「!! わ、私は…その、えっとっ…」
「私は本気だよ~、灰川さんのこと凄く良い人だって思ってるからね~、でも同じ気持ちの人が居るの知ってるから、その人達に言わずにコソコソしたくないって思うんだ」
「…………」
小路は正々堂々と目的に進みたいと思ってる。だからこそナツハにこの事を伝えたし、ハッピーリレーの友達たちにも伝えようと決めている。
ナツハはその覚悟を知り、焦りにも似た感情が芽生えた。自分だって灰川の事が気になる、でも以前の暴走同然の失敗もあって動くのが怖かったという思いもあった。
しかし前提として灰川は年下の異性への興味がそこまである訳では無いようで、関心を持ってもらうためには色々と頑張らなければならないだろう。
小路の申し出は一緒に灰川を籠絡しようという提案ではない、私は関心を持ってもらうために頑張るという表明なのだ。ここで申し出を否定してしまえば後で動こうかなと思った時に後ろめたさが出るし、動こうと思った時には手遅れになってるかもしれない。
そう思えば返す言葉は一つしかなく、ナツハは小さく「……うん…私も頑張ろっかな」と答えた。その返答を聞いて小路は。
「むふふ~、じゃあ一緒に灰川さんの女の子の趣味、変えてあげられるよ~に頑張ろ~ね~」
「う、うんっ…灰川さんに興味持ってもらえるように、私も負けないよ小路ちゃん」
こうして本人の与り知らぬ場所で方針が決まってしまった、もちろん本人に言える筈の無い事だから当然だ。
肝心の灰川はというと、今はハッピーリレーのホールブースの後ろの方で全体を見ながら怪我人などが発生してないか、不穏な動きをしてる者は居ないか警備員に混ざって監視員をしてる際中だった。
大型のイベント用モニターには破幡木ツバサとルルエルちゃんが映ってて、その画面は圧倒的だ。
業界1位のシャイニングゲートのライブを先程に見たが、そちらより動きが良く見えるし、まるでツバサとルルエルちゃんをそのまま現身にしてるかのような感じさえする。
しかしじっくり見る暇が無い、観客が多くて見張らなければならないし、そもそも観客が邪魔であまり見えない。歓声も大きくて音も聞こえにくく、シャイニングゲートのブースと比べると少し考慮に欠ける設置な気がした。
『今日のステージは2度目ねっ! また会えてうれしいわっ!』
『さっきはルナウサギさんと一緒だったけど、次はツバサちゃんと一緒だよっ!』
少しモニターを見る余裕があってイベント配信を見たが、凄く良い感じに見える。
ツバサのツインテールヘアが流れるように動く、ナチュラルで素晴らしい質感なのに3Dモデルとしての可愛さが全く損なわれてない。
ルルエルちゃんのヒラヒラした衣装が滑らかな絹のような動きをしつつも、モデルの可愛さを引き立たせるような動きに仕上がっている。
2人とも表情がコロコロ変わるが全く不自然さを感じさせない変化になっており、しかもモデルが現実的になり過ぎず、虚構的にもなり過ぎない素晴らしい仕上がりになっていた。
感触が伝わるかのような、温度が宿ってるかのような、今まで以上に生命力が伝わって来るかのようなモデリングだ。それはツバサとルルエルちゃん以外のハッピーリレーVtuberも同じで、だからこそ話題になってたのだ。
今までと違う感じがするし動きも前より魅力的に見える。それは技術革新と呼べる物に片足を突っ込んでるようなライブ配信だったのかもしれないが、灰川はじっくり見る余裕はなく意識は仕事方面に向いていた。
『私たちの出番はこれが最後だけど、ネットの皆も会場の皆も最後までハッピーリレーに注目よっ! もっと話題になってやるわっ! わははっ!』
『フェスに出るのって楽しいねツバサちゃん! もっと出たかったな~!』
ツバサとルルエルちゃんが楽しそうに笑いながら観客に向けて喋る。ハッピーリレーのブースはシャイニングゲートより小規模で限界で1000人くらいの収容人数、ホールの中はいっぱいだ。
ネットでは新技術か映像技術に相当な金を掛けたのかと話題になっており、今はオンライン配信は15万人の視聴者が見てる。会場の観客にもファンでなくSE技術者や他の配信企業の者が紛れており、どのような技術を用いてるのか見に来てる者も居るくらいだ。
「今まで3Dモデルの映像処理技術はシャイニングゲートが一番だったけど、順位が変わるかもな」
「この技術は明らかに既存の物じゃないな…動作の処理を爆発的に軽くしてるのか…?」
「声やさり気ない動きや仕草すら可愛らしさや魅力を感じる、どういう技術なんだろうか…」
Vtuberファンや業界関係者の界隈で話題に上ってるが、灰川はもう疲れと未だ収まらぬ忙しさで気にする余裕がない。
その後はエリスやミナミの出番もあってハッピーリレーのブースは大いに盛り上がったのだが、結局はブースの外がハッピーリレーの使ってる新技術を一目見ようとする客でいっぱいになり、そちらの整理に回されてしまったので2人のステージを見る事が出来なかった。
「………」
「灰川君、大丈夫かね…?」
フェスが終わり会場客が帰るのを誘導してから、灰川は少しハッピーリレーのスタッフルームで休ませてもらっていた。灰川以外のスタッフも何名かグッタリしてる。
撤収作業なども始まってるが現場仕事に出てた者は全員とも疲れが酷い、今回のフェスは予想より多くの観客や視聴者で話題になり、ハッピーリレーは映像の質もあって想定してたよりも多くの反響があった。
出演してたエリスやミナミたちVtuber達はルームや廊下でSNSの更新をしており、見に来てくれてありがとう!とか、フェス最高に楽しかった!などの投稿をしてる際中だ。その他の出演者も別の作業で忙しい者が多いみたいである。
「明日と明後日は休みなさい灰川君、昨日の竜胆れもんさんの件でも疲れてるだろう」
「そうさせてもらいます…ちょっと消耗しすぎました…」
時刻は夜の8時で、会社の方針として由奈や佳那美のような高校生未満の出演者は既に保護者に迎えに来てもらって帰路に着いてる。
高校生から上の年代はSNSを更新しつつも、今日のフェスは凄かったとか楽しかった等の話題で盛り上がっていた。
「灰川さん、パソコン貸してくれてありがとうございました。お返しするんで事務所に持って行きますよ」
「はい、じゃあ車お願いします」
撤収作業は意外と早く終わり、パソコンを事務所に戻すために灰川は少し早めに会場を出る事にする。会場の本格的な片付けは業者頼みだから、後は灰川に出来る事は無い。
今回のフェスは灰川的にはシャイニングゲートのライブが最も印象深かったが、数字や話題性ではハッピーリレーが勝ちのような結果となった。
しかし灰川としては疲れすぎてて結果がどうとか考えられない、とりあえずは事務所にパソコンを運んだらハッピーリレー事務所でシャワーを借りて、灰川の事務所の仮眠スペースで寝てしまおうと思う。
「灰川さん、今日はお疲れさまでした。ゆっくりお休みになって下さい」
「今日もありがと灰川さんっ、また明日からもよろしくねー!」
「おうよ、そっちもお疲れ様だぞ、出来れば観客として来たかったなぁ」
史菜と市乃からも礼を言われ、フォレストガーデン・渋谷を後にする。体力が残っていれば見知った出演者やスタッフに労いの声を掛けたかったが、全員が疲れてるのは目に見えてる。
灰川としては元から疲れてる状態での陽呪術の連続使用が体に応えた。もしこれがタラシの才能がある者だったら、無理してでも色んな所に声を掛けに行ったのだろうが灰川には無理だ。
「あ~疲れたぁ~」
ハッピーリレー事務所でシャワーを借りて自分の事務所に戻って来る、明日と明後日は休みをもらったから安心して寝れるという物だ。
仮眠室に入って布団を敷いてドサっと寝転ぶと、すぐに寝息を立てて熟睡してしまった。とても疲れた一日だったが、同時に楽しくもあった。イベントというのは盛り上がれば盛り上がる程、出演者も客もスタッフも楽しいのである。
灰川も色々とあった一日だが、それは他の人達も同様だ。ハッピーリレーのVtuberは軒並みに視聴者を獲得できたし、シャイニングゲートは既存のファンへの求心力を更に高める事が出来た。
そしてスタッフなどの井戸端話からも様々な情報が交わされるのがイベント事の特徴だ。
その会話の中で灰川の事が、他の企業スタッフや関係者との間で話題に上がったという事があった。
最初はハッピーリレーにホラー系配信のアドバイザー霊能者として話半分に雇われてたが、シャイニングゲートとも深い関係があるとか、所属Vtuberのオカルト相談で困ってる事を解決した。会社で霊現象のような妙な事が発生してたが彼が来てから一切なくなった。
他にも普通じゃ有り得ない大仕事を彼が取って来て斡旋してくれたとか、そんな話が幾人かのスタッフから語られたのは知る由もない。
この小説のラブコメ要素はフレーバーテキスト程度に考えてもらえると助かります。




