第94話 ポーラとの出会い◆
――八年前。ロシュール王国、トカダン中大陸にある街、ライデルン。
町の郊外にある閑静なレウィナス公爵邸宅の広い庭を、一人の少女が駆け回っていた。その少女は、明るい黄色の子ども用ドレスを着て、まるで澄んだ空の色で染め上げたような美しい青い髪をなびかせていた。
「ラビ! ドレスの裾が汚れるから、あまり土の上を走り回らないように! あと、庭の敷地を出ないようにね!」
屋敷のテラスから、一人の女性の声が響いた。
「はぁい、お母様!」
元気に庭を走り回るその少女―――まだ幼き頃のラビリスタ・S・レウィナスは、母親からの言い付けを守り、ドレスのスカートをたくし上げて、裾が地面に付かないようにして走った。
つい三日前に五歳の誕生日を迎えたラビにとって、この家の前に広がる庭園のことで、知らないことは何もなかった。庭に置かれたテーブルやベンチの数、レンガの敷かれた道が何処にどう繋がっているのか、地面に植わる花の種類から植わっている場所まで、その全てを覚えてしまっていた。そんな、完全に自分のテリトリーとなった庭の中を駆け回るのはとても楽しかったし、世界中の誰よりも自分がこの庭のことを一番よく知っていると考えるだけで、ワクワクが止まらなかった。
けれども、全てを知り尽くしたこの庭で一人で遊ぶことに、ラビはそろそろ退屈を感じ始めていた。何か胸を躍らせるような目新しい発見は無いものか? 溢れる好奇心を抑えきれず、ラビはとうとう自分の庭の敷地を超えて、近くにある森の傍までやって来たのだった。
暗い森の奥はしんと静まり返っていて、見たこともないほどに暗くて、濃い闇が木々の間から覗いていた。
そしてラビは、闇の中から響き渡る、恐ろしい獣の鳴き声を聞いて震え上がった。近くの茂みに隠れて影の奥をそっと覗くと、そこには二匹のブッシュウルフがいて、全身に生える灰色の毛を逆立て、牙を剥き出して唸っていた。
けれども、ブッシュウルフが唸っていた相手はラビではなく、二匹のウルフの前に立っていたもう一人の少女――思わず見惚れてしまうほどに美しい白髪を伸ばした、獣人族の娘だった。
彼女はボロ布を一枚羽織っただけのみすぼらしい格好で、今にも飛び掛かって来そうなブッシュウルフに向かって小ぶりのナイフを構え、口元を釣り上げ歯を剥き出しにして唸り、鋭い目でウルフたちを凝視していた。まるでその獣人の少女も含めた三匹の獣が、自分の生死を掛けた戦いに身を投じているようにも見えた。お互い、動きを読み合うように、退いては進み、退いては進みを繰り返し、攻撃するタイミングを伺っている。
しかし、その様子を見たラビは、獣人の娘がウルフに襲われていると思ったのか、咄嗟に声を上げて叫んでしまったのだ。
「ダメっ! その子を食べないで!」
ウルフたちの目が即座にラビの方へ向き、獣人の娘も驚いて「バカっ! 大声を上げるな!」と警告を飛ばす。
しかし時すでに遅く、ウルフの一匹がラビに向かって飛び掛かっていた。
「きゃああああぁっ!!」
ラビが悲鳴を上げるや否や、獣人の娘は反射的に地面を蹴り、飛び掛かるブッシュウルフの横腹に体当たりを食らわせた。キャインと声を上げて転がるブッシュウルフ。そこへ、すかさずもう一匹が獣人の娘に向かって突進し、彼女の左腕に噛み付いた。
「ぐっ! このっ!」
獣人の娘は腕の痛みに顔を歪ませながらも、右手に持っていたナイフをウルフの腹に突き刺した。あちこちに飛び散る真っ赤な血。その血にはウルフだけでなく、獣人の娘のものも混じっていた。
それから、数分に渡る激闘の末、獣人の娘は体の至る所を噛み付かれながらも必死に抵抗し、二匹のブッシュウルフから、ラビを守り抜いたのだった。二匹のブッシュウルフが完全に倒れて動かなくなったことを確認すると、獣人の娘は血まみれのナイフを捨て、その場に膝を突いて倒れた。
「……おい、娘………無事だったか?」
そして彼女は、傍に座り込んだまま震えていたラビに向かって、弱々しい声でそう尋ねた。ラビは慌てて獣人の娘の傍に駆け寄ると、涙目になって「あなたは大丈夫なの⁉ お願い死なないで!」と声を張り上げた。
「ふん……この森にブッシュウルフが出ることくらい、最初から分かっていたさ。……それで、あえて奴らに挑んだんだ」
「どうしてそんな馬鹿なことしたの⁉」
「強い相手を打ち倒してこそ、戦士としての格が上がる。……私たち白熊族は、そういう種族だからだ。お前たち人間なんかとは違う――」
そこまで言ったところで、体中に負った噛み傷が疼き、獣人の娘は呻き声をあげる。苦悶する彼女を見て、ラビは決心したようにその場で立ち上がると、声を上げて叫んだ。
「待ってて! 今お父様とお母様を呼んで来るから!」
「なっ……ま、待て! 他の人間には言うな――ぐっ……」
獣人の娘は、駆け出すラビを引き留めようと手を伸ばしたが、襲ってくる痛みにその場を動けず、遠退いてゆくラビの背中をただ目で追うことしかできなかった。
(どうせ、人間に言ったところで、助けてもらえるはずないってのに……)
獣人の娘は、そこまで考えたところで、意識を手放してしまった。
〇
それから、ラビは急いで屋敷に戻り、テラスに居た母親と、書斎に居た父親――シェイムズ・T・レウィナスを呼んで、二人を連れて森まで走った。
最初、血まみれになって倒れている獣人の娘を見て母親は悲鳴を上げたが、シェイムズは落ち着いて彼女の傍へ寄り、まだ息をしていることを確認してから、傷の具合を見てやった。
「ラビ、この子は?」
「この子が、私をブッシュウルフから助けてくれたの。こんなボロボロになるまで戦って、命掛けで私を守ってくれたの。……だからお願い! この子を死なせないで!」
娘の話を聞いたシェイムズは、傷の具合を見終わると、ラビの方へ振り向き、小さく頷いて答えた。
「心配いらないよ。――ママ、医療道具を持って私の書斎まで来てくれないか。あと、温かいお湯と、新しい包帯。裁縫用の縫い糸と針もあると嬉しい」
「……えぇ、もちろんですわ」
母親の方もすぐに了解して、シェイムズは獣人の娘を両腕に抱えると、急いで屋敷に戻っていった。