第70話 憤る大公と、呼び出された一匹狼◆
「なにっ! リドエステの要塞が破壊されただと⁉」
ロシュール王国、トカダン中大陸ライデルン郊外にあるレウィナス公爵領領主邸に、ライルランド大公の怒声が響き渡った。
「はっ、夜中に一匹の黒炎竜が要塞に奇襲を仕掛けたようで、全兵力をもって応戦しましたが、奮闘虚しく……」
ライルランド大公の執事であるラダンが、平身低頭のままそう説明する。
「たかが黒炎竜一匹ごときに、なぜ壊滅させられたのだ⁉ タイレル商会の開発した新兵器の毒ガス弾なら、最強クラスの黒炎竜でも一網打尽にできるのではなかったのか⁉」
「それが、生存した兵たちの証言によると、黒炎竜を毒ガス弾で一時的に仕留めたものの、そこへ突然、褐色の女神ことニーナ率いる海賊団が現れ、更なる追撃を受けたのだとか……」
「ええい、今度はニーナか! あのいまいましい海賊共め。『無敵艦隊』計画が完遂すれば、すぐにでもヤツらを皆殺しにしてやれるというのに……」
思わぬ横槍が入ってしまったことに苛立ちを隠せず、ライルランドは部屋の中を忙しなく歩き回る。
「確かリドエステの要塞では、タイレル商会の指導の下、飛空軍による『デスライクード』計画が進行されていたはずだ。計画の進捗に支障は無いのか?」
「計画に必要となる黒炎竜の鱗は、ほぼ九割分を回収して、既にタイレル侯爵の本拠地であるサザナミ大大陸ウルツィアの港町に輸送を完了しております。多少の遅れは見込まれますが、計画の遂行に大きな支障は無いかと」
「それは良かった……タイレル侯爵にも要塞が襲撃されたことを報告しろ。そして、両計画が共に完遂するまでの期間を早めるため、急ピッチで進めるように伝えるんだ!」
「はっ」とラダンは頭を下げるが、それから慌てて「あともう一つ、報告がありまして――」と言葉を続けた。
「何だ?」
「それが、これも要塞から生還した兵士たちが証言していたのですが、要塞を襲った黒炎竜には、人間が――しかもまだ幼い少女が一人乗っていたそうなのです」
「人間が? ……まさか、黒炎竜を操る竜騎士が要塞を襲撃したとでもいうのか? 有り得ん話だ。黒炎竜は最強クラスであるカラミティ級のドラゴンなのだぞ。これまで数多くの竜騎士が黒炎竜を乗りこなそうと試みたが、一人として成功した者は居なかった。そんなことは絶対に不可能なはずだ!」
そう決め付けるライルランドに、「驚くのはまだ早いです。情報には続きがありまして――」と、ラダンはさらに報告を続ける。
「どうやら、その黒炎竜に乗っていたのは、かのレウィナス公爵家の令嬢、ラビリスタ・ S・レウィナスであったというのです」
「………何だと?」
それまで忙しなく歩き回っていたライルランドが、その足をぴたりと止めてラダンの方を見やった。
「ふん、馬鹿な。あの小娘はタイレル商会に奴隷として売り渡したはずだ。其奴が自由の身になり、黒炎竜を乗りこなして我が要塞を単身で襲撃したというのか? ふざけたことを言うのも大概にしてくれ!」
「しかし、要塞から生還した兵士たちは皆、口を揃えてそう証言しておりまして……」
ライルランドはチッと舌打ちし、「もういい! 下がれっ!」と声を上げ、執事を部屋から追い出してしまった。一人になった部屋の中で、ライルランドは険しい表情のまま、もどかしげに親指の爪を噛む。
「……クソっ、レウィナスの小娘が、世界最強のドラゴンを率いて、あの要塞を破壊したというのか……一体何のつもりなんだ……私に両親を殺されたことへの復讐でも企んでいるというのか? ガキのくせに、調子に乗りやがって……」
ブツブツと独り言を漏らすライルランドの額から、一筋の汗が流れてゆく。その表情には怒りと焦燥が滲み、ぐっと噛みしめた歯はギリギリときしんだ。
と、そのとき――
「――おやおや、王国内で一番広い領土を獲得した大公閣下が、どうやらまた何か新しい悩み事をお抱えのようだ。よろしければ、私が相談相手になってあげましょうか? 閣下殿」
唐突に部屋の入口から聞こえてきた声に、ライルランドはビクッと肩を震わせて振り返る。
先ほどまで執事ラダンの居た部屋の扉前に、いつの間にか違う男が一人、扉を背にして立っていた。
その男は金髪の隻眼で、剣で斬られたことにより潰れた右目には眼帯が付けられており、残る左目は薄っすらと開いて、そこから覗く紫色の瞳が、ライルランドをじっと睨んでいた。どうやら王国の軍人らしく、頭には王立飛空軍司令官のバッジを付けた二角帽子を被り、肩に金の肩章が付いた士官用の上着を着ていたが、腕を通さずに肩に羽織るだけというラフな格好で、軍人にしては服装の乱れが目立っていた。
「……ようやく出頭したか、『黒き一匹狼』。遅かったな」
「くっくっくっ……その呼び方はよしてください、胸糞悪い過去の記憶が蘇って虫唾が走るのです」
その男は、まるで洗った皿を指で擦るような甲高い声を上げて笑い、コートの裏から何かの詰められた小さな瓶と、四方形の小さな紙を取り出した。
「私にはきちんとした名前がある。ヴィクター・トレボックという、誰もが親しみやすく覚えやすい名前がね」
その男――ヴィクター・トレボックと名乗る彼は、両手の細い指を器用に使って小さな瓶のふたを開けると、広げた紙の上にその中身を載せた。それは乾燥した植物の葉をすり潰して粉状にしたもので、青黒い色をしたその粉末は「ニケシア」と呼ばれる依存性の強い木の葉を使用していた。
「ふん、たとえお前が王国私掠船の船長として、これまで数多くの海賊共を一掃する功績を上げていたとしても、過去は塗り替えられん。お前も元は、あの海賊共の端くれだったのだからな」
ライルランドがそう言い返すと、ヴィクターは再び甲高い笑い声を上げ、乾燥したニケシアの葉の粉末を丁寧に紙で包んで丸めてゆく。
「くっくっ……御冗談を。今となっては、私は国王様に誠心誠意尽くす身。かつて仲間だった海賊共も、この手で何人殺してきたか分かりませんよ。……それで、私がお呼ばれした訳を、聞かせてもらいましょうか? 閣下殿」
そう言って、彼は丸めた紙の端を黒ずんだ舌で舐めて糊すると、それを口にくわえ、コートのポケットからマッチを取り出した。
「宮廷内は禁煙だといつも言ってるだろう。それに、私掠船船長であるとはいえ、お前もわが王立飛空軍の一員なのだ。身なりも整えてもらわなければ困る。お前が羽織っているその上着は、飛空軍内でも二十着あるか分からない最高指揮官のものなのだぞ」
「最高指揮官の制服? これが? 袖にある階級ラインはまるで手枷だし、肩にあるフサフサの肩章なんか、まるでトイレのモップを被せたみたいだ。こんなものが最高指揮官の上着なのですか。笑わせてくれますね」
「口を慎め! この外道め」
ライルランドが厳しく吠えるも、ヴィクターはどこ吹く風でマッチを擦り、お手製の巻き煙草に火を付けた。
「ふぅ……つい数時間前まで空に出ていて、海賊船四隻を沈めましてね。やはり仕事終わりの一服は最高だ」
ヴィクターはそう言って、白い煙を吐き出す。ヤニの嫌な臭いが、執務室内に充満した。ライルランドはそのツンと鼻を刺す臭いに顔をしかめながらも、やむなく本題に移る。
「リドエステにある飛空軍の要塞が襲撃された。最初は黒炎竜がたった一匹で特攻し、鎮圧したかと思えば、次はニーナ海賊団による立て続けの襲撃ときた」
「―――そして、その黒炎竜には人間が一人……」
ヴィクターがぽつりとそうつぶやく。
「……聞いていたのか?」
「ええ、扉の向こうであなた方の会話は全て聞かせてもらいましたよ。……ラビリスタ・S・レウィナス……くっくっ。あの小娘が、まさかそんな大層な芸までできるようになっていたとは………まだ子どもだから何もできないだろうなどという考えは、浅はか極まりないことが証明されましたね」
そう独り言のように話すヴィクターの声は静かだったが、彼の左目には、殺気にも似た強烈な光が宿っていた。
「ふん、お前もそんなことを他人に言える身なのか? あの侵攻作戦があったとき、お前も斬り込み隊長として参加していたはずだろう?」
「ええそうです。ですからこれは、あなたのミスであり、私のミスでもある。お互いに消し去りたかった過去の遺物を、一つ摘み取り残してしまった……くっくっくっ」
ヴィクターは突然ケラケラと笑い始める。「何が可笑しい?」とライルランドが問いかけると、彼はこう答えた。
「あぁ、確かあなたはさっきこう言いましたよね? 『過去は塗り替えられない』と。果たしてあなたも同じことが他人に言える身なのでしょうか? 消し去りたい過去を抱えているのは、他でもない大公閣下殿であるというのに」
「……何だと?」
ヴィクターは再び煙草を口にくわえ、白い息を鼻から吐き出す。ニケシアの葉が効いているのか、彼の左目の瞳孔はすっかり開いてしまい、夢見心地で視線をゆらゆらと宙に投げていた。
「あなたが実施した例の侵攻作戦は、あなたにとって忌まわしい過去だ。地位争いで邪魔者だったレウィナス公爵家を断絶させ、その領土を自分のものにしたい我欲を抑えられず作戦を強行してしまったのは、領土を治めるリーダーとして正当な行動だったとは言い難い。しかも、断絶したかと思われていたレウィナス家の娘が実は生きていたとなれば、自分に対抗する新たな反乱分子を増やすきっかけになりかねない。くっくっ……あなたの仰る通り、過去は塗り替えられないのですよ、大公閣下殿。あの小娘が生きている限りはね」
自分と同じ言葉で言い返され、詰め寄って来るヴィクターに、ライルランドは「ぐぬぬ……」と言葉を詰まらせてしまう。
「………ですが、ご安心ください大公閣下殿。僭越ながらこの私が、あなたの抱える忌まわしい過去を払拭して差し上げましょう。私も、レウィナス家には少々因縁がありましてね。互いに目的は同じという訳です」
「因縁だと? 貴様とレウィナスとの間に、一体どんな因縁を持ったというのだ?」
ライルランドがそう尋ねると、ヴィクターは無言のまま左目の目元をピクリと引きつらせたが、やがて感情を殺したような冷たい声でこう答えた。
「……あなたには関係のない話ですよ、大公閣下殿」
そんなヴィクターの態度に不満を抱きつつも、ライルランドは話を続けた。
「ふん、まぁいい。……もう間もなく『無敵艦隊』計画と『デスライクード』計画が完遂する。お前には、出来上がった無敵艦隊の指揮を取ってほしい。我が計画を邪魔した忌々しい悪党共を一網打尽にしてやるのだ。貴様も元は海賊の身。故に海賊への対抗手段もお前が一番よく知っているはずだ。今回の要塞襲撃には、八選羅針会の一人であるニーナ・アルハ一味も絡んでいる。くれぐれも抜かるなよ」
ライルランドの言葉に、ヴィクターはニッと口角を上げて不気味な笑みを作り、大公の前で両腕を広げ、仰々しくお辞儀をして見せる。
「……それはもちろん、私とて元八選羅針会の一員であったのですから。同胞に負ける訳がありません。ご期待に添いましょう、大公閣下殿」
そう言って、彼は手の指に挟んでいた煙草をポイと投げ捨て、部屋を後にした。
「………ちっ……全く、礼儀を知らん忌まわしいヤク中めが……」
ライルランドは、部屋に敷かれている高級な絨毯の上に投げ捨てられた、まだ火の残る煙草の吸殻を見て、不快そうに眉をゆがめていた。