第42話 海賊の一日
ルルの港町を出航して、二週間――
航海は順調だった。特に大きな嵐にも遭うこともなく、地平線も水平線も無い、見渡す限り途方もない空だけが続く世界を、俺は百人のエルフたちと一人の少女を乗せて飛んでいた。
夜が明けて朝になり、早朝四の刻(午前四時)を告げる鐘が八回、甲板上に鳴り響く。
「起床時間だ! みんな起きろ! 起きないヤツは見つけ次第ハンモックから叩き落とすぞ!」
まだ陽が登って間もないが、乗組員たちの朝は早い。甲板長の怒鳴り声で、それまで静かだった砲列甲板が途端に騒がしくなる。これまで船長室のふかふかベッドで眠っていたラビも、船長の座をニーナに譲ってからは、一般船員と同じく天井に吊ったハンモックの上で寝ることになり、揺れる寝床にしばらく落ち着かない日々を送っていた。甲板長の声に驚いたラビは慌てて起き上がろうとし、バランスを崩してハンモックから転げ落ちてしまう。
「あうっ⁉ い、いったぁ………」
「おい新入り! ボケッとするな! さっさとハンモックを縛って上砲列甲板へ集合しろ!」
「は、はいっ!」
思いっきり床に打ち付けたお尻をさすりながら、ラビは急いでハンモックを降ろし、くるくる巻いて縛り上げる。しっかり巻いて固く結ばなければならないらしく、力のないラビは最初、ハンモック巻きに苦戦して失敗しては何度も怒られてやり直しを食らっていた。
ようやくハンモックを片付けて外へ出ると、既にエルフたちが帆を張ろうとマストへ登り始めていた。
「新入り! お前も早くマストへ登って帆を張れ!」
エルフの指示で、ラビは急いで縄ばしごを駆け上がり、帆を縛ってあるロープを解いてゆく。シュルシュルと音を立ててメインマストの帆が広がり、風をはらんで一気に膨れ上がった。
「よし、次はミズンマストだ! 素早く動けっ!」
指示を聞いたラビは、メインマストから下りようと縄ばしごに足をかける。しかし他のエルフたちは、いちいちマストから降りるようなことはせず、まるで猿のように宙高くジャンプして、マストからマストへと瞬時に飛び移ってしまった。エルフ族は人間に比べて身体能力がかなり秀でているらしく、高いマストの上でも平気で帆桁の上を駆け回ったり、索具の縄をよじ登ったりと、まるで軽業師のように軽快な身のこなしで移動していた。これだけ身軽に動けるのなら、突発な風向きの変化にも即時に対応できるし、どんな悪天候の中でも臨機応変に船を動かすことができる。これはエルフ族ならではの利点と言えるだろう。
「おい新入り! いつまでそこにいる気なんだ?」
エルフの一人がラビをからかい、あちこちでドッと笑いが沸き起こった。ラビはエルフたちの人間離れした身軽さを目の当たりにして驚き呆けてしまっていたが、気を取り直してメインマストから下りると、今度は船尾にあるミズンマストへ駆けてゆく。エルフより能力の劣る人間が一人混じっているせいで、エルフの誰もがラビをからかい笑った。それでもラビは負けじと彼らの後を追いかけ、遅れを取るまいと必死になって縄ばしごを登ったり、甲板の上を駆け回ったりしていた。
「よし! 当直は引き続き操帆を、風読みが使える者はマストに登って風向き観測に専念しろ! 残った者は全員甲板で床磨きだ!」
ここから、それぞれ担当ごとに分かれての行動となる。当直は四時間の交代制で、乗組員全員がローテーションとなるよう決められていた。ちなみに、「風読みが使える者」というのは風魔術の一つである「風観測」が使える者のことをいうようで、この術を使えば、風の吹いてくる方角を正確に測ることができるらしい。
しかし、魔術が使えず、当直でもなかったラビは、必然的に床掃除係に回されていた。甲板を磨くたわし代わりとなる聖なる石を持たされ、床磨きを命じられるラビ。
しかし。いざ掃除が始まってみると……
「なぁ、あの新入り、初めてにしてはやけに床磨きが上手くないか?」
「ああ。小さい体して弱そうなくせに、しっかり腰が入ってるし、隅から隅までキレイに磨いてやがる」
傍で掃除していたエルフたちは、黙々と床を磨くラビを見て口々にそう言った。皆、新入りの彼女が掃除達者なことに疑問を隠せないようだが、それもそのはず。――なにせ、俺とラビ二人だけのとき、俺がラビに命じて、船内全ての床を徹底的にキレイになるまで磨き上げさせたのだからな。
ラビが新たに手に入れたスキル「掃除上手」の力もあって、掃除の腕だけで言うなら、いくら人間より秀でているエルフとでさえタメを張れるくらいの勢いがあった。
――そうして、気付けば周りのエルフたち全員の視線を一身に受けていることに気が付いたラビは、顔を赤くして周りの目を気にするように着ているセーラー服の短いスカートを押さえながら、おずおずと声を上げた。
「あ、あの……どうかしましたか?」
すると、それまで彼女を見ていたエルフの男たちは、互いに何も見なかったような顔をして、各々自分の掃除場所へと戻ってゆく。どうやら彼らがラビに目が行っていたのは、掃除が上手という理由だけでないようだ。確かに、一人だけそんなコスプレ紛いの格好していれば、周りから目立ってしまうのも当たり前である。
しかし着替えようにも、「カワイイからずっとその格好でいること。これ船長命令。拒否権無いから」と、変態ギャルエルフのニーナから言い付けられてしまい、仕方なく彼女は今の恰好のまま作業をさせられているのだった。……まぁ、最初にアレを着るよう命じたのは俺なのだが………正直すまなかった。我慢してくれ、ラビ。
〇
――そうして夜になり、夕食の時間がやってくる。一日中働き通しで腹を空かせた乗組員たちにとって、この時間は至福のひと時だった。下砲列甲板の中央にある巨大なストーブの前で、ラビは配膳を待って長蛇の列を作るエルフたちに食事を分け与えていた。
「はい、どうぞ」
「あんがとよ、嬢ちゃん」
「新入りもここで食う飯の味には慣れたかい? 船上で食う飯ほどマズいものはねぇが、働いて死ぬほど腹が減ってりゃ、馬の糞だろうと頬張れちまうぜ」
エルフの一人がふざけてそう言うと、並んでいた者たちも互いに笑い合った。しかしラビは、首を横に振って答える。
「そんなことないですよ。ここで食べる料理はとても美味しいです。私が奴隷だったときはろくに食べ物も与えられなかったし、この船に一人でいたときは、ずっとあればかり食べていましたから」
そう言って、甲板の床を指差すラビ。そこには二、三匹のテールラットが走り回っていて、それを見た乗組員たちは全員顔を真っ青にさせた。
「……あ、あれを食ったってのか?」
「はい。臭いしスジ張っててなかなか噛み切れなかったけれど、慣れるとそれなりですよ。それに、最下甲板を飛び回っているポイズンバットも、毒があるから頭と腹は食べられませんが、翼は意外と食べられるんです。船倉にのさばるウィークスラッグも、流石に最初は外見からしてとても食べれたものじゃありませんでしたが、お湯で煮てしっかり灰汁を抜けば、美味しく食べられるんですよ」
そう得意げに話すラビを前に、絶句してしまうエルフたち。終いにはナメクジを食べるところを想像して吐き気を催し、外甲板へ走って行ってしまう者も続出した。――ちなみに、ラビの言葉に嘘偽りは一つもない。ラビが俺の船内で一人生活していた時、彼女は空腹を紛らわすために、テールラットの丸焼きだけでなく、他にも様々な生き物を食していた。さすがに初めてウィークスラッグの肉を口にしたときは、彼女の目が死んでいたが……これも、ラビの得たスキル「ゲテモノ喰らい」のおかげなのだろう。
「おい……今回新しく入ってきたあの嬢ちゃん、なんか色々とヤバそうだぜ」
「ああ、まったくひでぇゲテモノ趣味だぜ。もしこの船が飢饉にでも襲われたら、あの新入り、下手したら俺たちまで喰らっちまうかもしれねぇ」
……何やらまた良くない噂が立ちそうな雰囲気ではあるが、とりあえずは周りの乗組員たちとも仲良くやっていけているようで、俺は安心していた。
「おい新入り、ニーナ船長に食事を運んで差し上げろ。冷めないうちに持って行けよ」
エルフのコック長がそう言って、ラビに食膳を渡した。さすが船長の食事というだけあって、内容も豪華なものだ。
ラビは船長室前までやって来ると、扉をノックして静かに部屋へ入った。ランタンの暖かな光に包まれた部屋の中で、ニーナは奥の書斎に腰掛けており、何か物思いに耽るように手に持った懐中時計をボーッと眺めていた。
しかし、ラビが入って来たのを見て、彼女は時計の蓋を閉じ、サッと上着の内側へしまう。
「ニーナさん、お食事をお持ちしました」
「お、あざます! そこ置いといて~」
ラビはニーナの指差したテーブルの上に食事を置いて軽く礼をし、部屋から出て行こうとした。
「ラビっち、ここでの生活は慣れた?」
そう尋ねてくるニーナに、ラビは笑顔でこう答える。
「そうですね。まだまだ大変なことも多いですけど、その分学ぶこともたくさんあって、とても充実した日を過ごせてます」
「あはは、そっか~。じゃあ、これからもしっかり働いてくれたまえ!」
「はい! 頑張ります!」
ビシッと敬礼して、部屋を出て行くラビ。扉が閉まると、ニーナはニヤリと口角を上げた。
『その笑みは、また何か良からぬことを企んでそうだな。一体何を考えているんだ、ニーナ?』
ラビが部屋からいなくなったのを見計らい、俺が念話でそう尋ねると、「あ、おじさん見てたの? 女の子の部屋を勝手に覗くとか、マジ変態なんですけど~」とニーナがあきれたように言う。
『誰が変態だ。てか、お前に言われたくねぇ。今のお前の顔、明らかに何か企んでるニヤケ面だったぞ』
「え~、何も企んでなんかないって。今日もラビっち可愛いな~って思っただけ」
白を切るように笑って誤魔化すニーナ。話し方は軽々しいが、ただのチャラいギャルだと思って侮ってはいけない。こいつは見た目がこんなでも意外と頭がキレる。事実、俺たちも彼女に一度騙された。彼女に舵を預けているとはいえ、それは船長としての技量を見込んでのことであって、まだ完全に仲間として信用した訳ではない。またしても変な気を起こされないよう、用心しておかないと……
『余計な真似をしなければ、こっちもニーナの考えてることに深くまで首を突っ込むつもりはないさ。ラビのこれからの扱いにしても……お前がついさっきまで見ていた、懐中時計の裏に張り付けてある写真にしても、な――』
俺がそこまで言った途端、ニーナの表情にすっと影が差し、俺を睨むように部屋の天井へ鋭い目線を投げた。そして、彼女は一言つぶやく。
「―――そこまで覗き見してるなんて、ホント趣味悪いね、おじさん」