第29話 処女航海は順風満帆……な訳ねぇだろ!
俺が船に転生した場所であり、初めてラビと出会った場所でもある湖に別れを告げた俺たち。俺はラビと共に気持ちを新たにして、これから始まる航海に胸を躍らせていたのだが……
――出航から二日目にして、俺たちは最大の危機を迎えていた。
『右から突風だ! 揺れるぞ、つかまれ!』
「はい師匠っ!」
『風が強くて体を水平に保てない! 落ちないようマストに命綱を繋ぐんだ! 急げ!』
「今やってますっ!」
『フォアマストの帆が張り裂けそうだ! 風を抜けるか⁉』
「や、やってみます!」
四方から吹き付ける強風。冷たい雨が弾丸のように降り注ぎ、これまで見えていた青空は厚い雲に覆われてしまい、見えるのは暗闇だけ。時折近くを雷光が迸り、辺りは一瞬真昼のように明るくなった。
どうやら、完全に嵐の中へ突っ込んでしまったらしい。つい三十分前までは青空が広がってたってのに、何なんだこの急な天候の変わりようは!
強風を帆が受けてマストは軋み、船体は悲鳴を上げている。一刻も早く帆から風を抜いて畳まないと、バランスを失ってひっくり返ってしまう。
ラビが雨風に煽られながら、フォアマストへ続く縄ばしごを必死に登っていた。何の前触れもなく瞬く閃光。続いてやってくる雷鳴に驚きながらも、ラビは帆桁に張られた足場の縄を伝い、バタつく帆布を畳もうと必死に手繰り寄せた。
――と、そのとき、吹き付けた突風がフォアマストの帆を引き裂き、ラビの小さな体を宙高く吹き飛ばした。
「きゃあああぁっ!」
俺はすかさず念動スキルで彼女の体を受け止め、板歩き甲板の上に降ろしてやる。
「大丈夫か、ラビ?」
『は、はい……ありがとうございます、師匠!』
間一髪だったが、ラビに怪我が無くて良かった。ついこの間まで、怖くてマストに登ることのできなかった彼女だが、今では高い場所に全く抵抗を感じなくなったようで、不安定な足場の上でも軽々と移動してみせていた。おかげで、細かい作業のできない俺にとっても大助かりだ。
――だけど、これ以上嵐の中でむやみに彼女をマストへ登らせるのは危険だろう。そう判断した俺は、帆を畳むことを諦め、ラビに言った。
『もう帆は畳まなくていい。お前は船長室に戻ってろ』
「えっ? でも、帆を畳まないと、師匠の体のバランスが――」
『俺のことなら心配するな。それに見ろ。帆が裂けて風が抜けたから、多少はマシになったさ』
ラビは大きく裂けてほぼ真っ二つになってしまった帆を見上げて痛々しそうに眉をひそめたが、俺の言葉を信じてくれたのか、「分かりました、師匠。何かあったらまた呼んでください」と頷いてくれた。
『さぁ、早く船長室に入るんだ!』
俺が声を上げた、そのとき――
ピシャ――――ン‼
空から一筋の雷光が落ち、吸い込まれるように板歩き甲板に命中した。ダダァン‼ と爆発にも似た轟音が響き、甲板の手すりの間をバチバチとスパークしながら駆け抜け、逃げようとしたラビの体を直撃した。
「あぐっ‼」
迸る電撃がラビの着ていた衣服を引き裂く。雷に打たれた彼女は、もだえるようにもんどりを打って倒れた。
『ラビっ‼ おいしっかりしろ! ラビっ!』
俺は何度も呼びかけたが、ラビはうずくまって目を閉じたままピクリとも動かない。破れた衣服から覗く背中は、痛々しいほどに大きく焼けただれてしまっていた。
俺は念動を使ってラビを船長室前まで運ぶと、傷の具合を見てやる。
『酷い火傷だ……待ってろ、今俺が治癒魔術で――』
しかしこの暴風の中では、船の姿勢を保つだけでも精一杯で、治療に専念できない。少しでも集中を解いてしまえば、途端にひっくり返ってしまうだろう。
『くそっ! どこか、どこか降りられる場所はないか!』
俺はひたすら暗闇の中をやみくもに突き進んだ。氷のように冷たい雨に打たれ、破れた帆布や千切れた索具が風に煽られてマストの上で踊り狂っていた。マストは今にも折れんばかりにしなり、悲鳴のような軋みを上げる。
『早くしないとラビが死んじまう! クソ、ちくしょう! どっか近くに下りられる大陸はねぇのかよ!』
俺は、今にもバラバラになりそうな自分の体のことより、ラビのことが一番心配だった。まだ旅は始まったばかりだというのに、こんなところで唯一の乗組員を失う訳にはいかない。
『ラビ、すまないがもう少し耐えてくれ! 死ぬなよ、絶対に死ぬんじゃないぞ!』
倒れている彼女に俺の言葉が届いているのかは分からないが、意識を消さないためにも、常に俺はラビに向かって声をかけ続けた。
――そんな中、俺の中で例の声が警告を放つ。
【魔素供給率低下。このままでは魔道機関航行が持続不能となります】
しまった、魔素を収集する役割を果たしていた帆がほとんど破れてしまったせいで、魔素の供給が止まってしまったんだ。早く降りられる場所を見つけないと、魔力が枯渇して墜落してしまう!
俺は、このまま降りられる大陸を見つけられず墜落するかもしれない恐怖、暴風に自分の体が破壊されてしまうかもしれない恐怖、そして、ラビに死なれてしまうかもしれない恐怖に怯えながら、嵐の中をがむしゃらに突き進んだ。
――と、そのとき、目の前に広がっていた暗闇が若干薄れて、そこに島のような影が浮かび上がった。陸地だ!
俺はその島影に向かって舵を切り、ひたすらに突き進んだ。もうマストに掛かる帆はボロボロで使い物にならず、自分の中に蓄えた魔力だけで辛うじて浮いているような状態だった。
島影が近くなるにつれ、島の全体像が見えてくる。その島は一帯が密林地帯となっていて、水辺らしき場所はどこにも見当たらなかった。
魔力もほとんど使い果たしてしまった今、もう胴体着陸するしか方法が残されていなかった。俺は覚悟を決めて、船首を上へ傾け、船底を地面すれすれまで近付けてゆく。
『ラビ! かなり揺れるぞ! 踏ん張れっ!』
俺は勢いを付けたまま、森の中へ胴体を滑り込ませた。密集する木の枝がクッションとなり、連なる木々を薙ぎ倒しながら、俺の体は数十メートルほど進んで、ようやく止まった。幸い下の地面は柔らかい泥で、船体をかなり引きずったものの、辛うじて深手の損傷は負わずに済んだようだった。
ただ、乱暴に着陸したショックで、船首から伸びる棒が根本から折れてしまい、各マストの帆桁も固定が緩んで斜めに曲がってしまった。破れた帆布と千切れた索具があちこちから垂れ下がり、見るも無残な有様だ。
しかし、着陸場所が悪ければ、船体が大破する可能性だってあったのだ。これだけの損害で収まったのは、むしろ幸運と言っていいだろう。
『……そうだ、ラビ! 無事か⁉︎』
俺は甲板上にラビの姿を探した。彼女は胴体着陸した際、あわや船外へ振り落とされる寸前だったが、辛うじて左舷の縁に引っかかって難を逃れていた。