第23話 地獄の船倉掃除
次の日、俺はラビを呼び出すと、今日やりたいことを彼女に伝えた。
「今日は船倉の掃除をしてもらう。が、その前に、下に溜まっている汚水を全部外に排出する必要がある。下砲列甲板に船倉の水を抜くためのポンプかあるから、それを使って水を汲み上げるんだ」
これも図書室にあった「図解 魔導帆船大全 ~完全版~」から得た知識なのだが、俺のような帆船は木造であるため、船が着水している間に絶えず水が染み入ってきてしまうらしい。それが船倉に溜まると腐ってひどい臭いを放つため、汚水を汲み上げて排出するためのポンプが設置されているのだ。俺の中に溜まっている汚水も、長年放置されている間に水が染み入ってできたものらしく、船底に目立った外傷が無かったところから、事故により浸水しているという訳ではなさそうだ。
しかし、腹の中にいつまでも汚水を抱えていては、いざ空へ飛び立つ際に重荷になるだけだし、この機に全部外へ出して、ラビに掃除してもらうとしよう。
俺の下砲列甲板には、海水や湖の水をくみ上げるためのポンプと、船底に溜まった汚水を外に排出するためのポンプがそれぞれ設置されていた。しかし、汚水排出用のポンプは数人がかりでないとハンドルを回せない仕様になっていたため、俺がラビに「身体能力上昇」と「腕力上昇」のバフをかけることで補ってやった。
ギッコ、ギッコ、ギッコ、ギッコ……
単調なリズムで刻まれる音と共に、ラビはひたすらハンドルを回し続けた。ハンドルを回す度に汚水が湖へと排出されてはいるものの、排水量が少ないこともあって中々水量が減らない。ラビはこの日一日、排水ポンプを回すだけの作業を黙々とこなしていた。
そして次の日になり、いよいよ船倉の掃除をするべく、ラビは掃除用具一式をフル装備して、最下層へ続く階段を下りた。
陽の当たらない船倉は暗闇が濃く、湿気のせいで空気は酷く淀んでいた。ランタンの明かりで前を照らすが、それでも見えるのは数メートル先までで、どこまでも暗黒の空間が広がっている。
「うっ……酷い臭い……」
『船底に溜まったヘドロの臭いだ。随分と長い間放置されてたみたいだからな。かなり汚れているはずだ。気合い入れてかかるぞ』
「はい師匠……うぅ………」
下水のような臭いの立ち込める中、ラビは慎重に階段を下りてゆく。が、途中で足を滑らせてしまい、一気に船底まで転げ落ちてしまう。
「あぅっ!――へぶっ!!」
バシャッ!!
船底にはまだ排出しきれなかった汚水溜まりがまだ残っていて、その中へ頭から突っ込んでしまうラビ。
『おい、大丈夫か?』
ブクブクブク……
少しして、汚水の中からヘドロにまみれたラビが現れる。頭からヘドロを被ってしまったその姿は、まるで沼から現れた異形の怪物のように見えた。
「げっほ、げほっ! うぇえ、臭い……もうこんなとこヤダぁ……」
体に付いたヘドロを払いながら、涙目になって弱音を吐くラビ。しかし、これも修行の一環。こんなところで心折れてしまってはこっちが困る。
『大丈夫だ、気をしっかり持て! こんなことでへこたれてたら強い女になれないぞ。ずっとここに居れば、そのうち臭いに鼻も慣れてくるはずだ。それに、キレイに掃除すれば臭いも少しはマシになるだろ?』
「は、はい師匠……頑張ります」
ラビはヘドロの浮かぶ汚水溜まりの中を、抜き足差し足で歩く。淀んだ水は緑色に濁っていて、足元に何があるのかも分からない。一足踏み入れる度に、粘着質な黒いヘドロが彼女の脚にまとわり付き、ぐちゃぐちゃと気持ちの悪い音を立てた。
「……ひうっ!」
『どうした?』
「い、今何か、足元にグニュッて当たったような……」
ラビは恐る恐る汚水の中から足を引き抜く。そして、ランタンで足元を照らしてみると――
恐ろしいほどに巨大なまだら模様のナメクジが、彼女の脚にへばりついていた。
「いやぁああああああああああっ!!」
『落ち着け! そいつはウィークスラッグだ。見た目がキモいだけで、ステータスは弱いから害はないぞ』
「見た目だけで十分アウトですよぉ~~~~っ!!」
ラビは錯乱して慌てて上甲板へ昇る階段に向かって駆け出すが、途中何かに躓いて倒れてしまう。足元に転がっていたものにランタンをかざしてみると――
「ひっ!……」
明かりの中に映ったのは、前に船倉で電撃魔法を放って殺した商人の部下の死体だった。何日も放置していたせいで顔は真っ白にふやけて、目元や鼻穴から大量の蛆が湧いていた。
「も、もうイヤ……もうこんなところイヤぁ! ここから出して!! お願い! これ以外のことなら何でもするから! どんな言うことでも聞くからぁ!!」
とうとうラビは発狂してしまい、俺に向かって必死に助けを求めてくる。やはり、彼女にここの掃除は無理か……
――いや、駄目だ。ここで引いてしまっては修行の意味がない。ラビには辛い体験になってしまうだろうが、ここは心を鬼にしてでも、彼女にこの試練を耐えてもらわないことには、きっとこの先もまた同じことになる。俺の直感がそう告げていた。
『駄目だラビ。俺の言うことを聞けないのか? またあのときみたいに苦しい思いをしたくはないだろ? 俺だって「乗船印」の呪いは使いたくないんだ』
「でっ、でも……でも私、こんなとこにずっといるなんて無理……私にはできないよっ!!」
『大丈夫、お前ならできる。これまでに俺の課してきた面倒な仕事も、しっかりやり遂げてくれただろ? ――おかげで、俺もどれだけ助かっているか分からないんだ』
俺の言葉を聞いたラビが、ヘドロまみれの顔を上げて、俺の方を見る。顔や体はドロドロに汚れていても、涙の浮かぶ彼女の蒼い眼だけは、なぜが宝石のようにきれいなままだった。
「……ほ、本当に?」
『ああ、あの極悪商人たちを倒せたのも、ラビの手伝いがあったおかげだ。お前がいなかったら、今頃俺は奴らにフラジウム結晶を奪われていたかもしれない。そうなったら、俺はこの湖から一生出られなくなるところだった。ラビがこの船にいてくれたから、俺もこうして不自由な船の姿になっても生きていられるんだ。お前が俺の手足になってくれているおかげでな』
こんなことを言うのは自分でも恥ずかしいのだが、ラビのおかげで色々と助かっているのは紛れもない事実だった。だから、咄嗟に口に出てしまったのだ。
ラビは、俺の言葉に何を感じたのか、両手をぐっと握りしめると、その場に立ち上がり、ヘドロの中に浮かぶランタンを拾い上げた。
「わ、分かりました……私、頑張ってみます、師匠」
『その意気だ。まずは死体の片付けからだな。それが終わったら床掃除だ。ランタンの明かりだけじゃ作業もやり辛いだろ? 明かりなら俺が魔法で灯しておいてやるよ』
俺は炎生成を唱え、船倉の中を明るく照らした。
――と、その途端、ラビが天井を見て「ひぅ」と抜けたような声を漏らし、目を見開いたまま凍り付く。
『……ん? どうかしたか?』
「あ……ああ、あれ………」
ラビが震える指で差し示す先――そこには、炎に照らされた天井に、大量のウィークスラッグたちが塊となって群がっている光景が映っていた。
「いっ……いぃやぁああああああああああああああっ!!――」
船倉内に、ラビの悲痛な悲鳴が響き渡った。