31.逃げられません
(ディラン様なら、私がここにいることに気がついてもあえて言及せずにスルーしてくださる気はします……)
それは半ば祈りだった。グレイスに助けてほしいが、あいにく彼女はこの場への同席が認められなかった。もう一人で切り抜けるしかない。
「あの、私は少々お花摘みに」
「何言ってるの。もう旦那様がきてしまうし、愛人の方々もサロンに到着しているわ。ここにいらっしゃらないのは大旦那様だけね。まぁ、ランチェスター公爵家の親子は仲が悪いから仕方がないわね」
(大旦那様がいらっしゃらないことだけはよかったです。潜入していることが一発でバレてしまいますから)
脱走を諦めてちらりと窓側を見れば、愛人たち――優しい笑みのルーシーやツンとした佇まいのテレーザが到着していた。おもてなしの準備は万端である。
そこへ前の扉が開く。入ってきたのは案の定ディランだった。しかし、いつもと違う厳しい表情をしていて、後ろにはクリスが続いている。
(ひゃっ)
二人を見たエイヴリルは心の中だけで悲鳴を上げると、表情を変えずに楚々とした立ち振る舞いで隣のメイドの陰に隠れた。
見た目はすんとして立つエイヴリルの耳に、ディランの言葉が聞こえてくる。
「今日ここを訪れたのは、領地の本邸の離れの様子を見るためだ。実質ここは前公爵のものだが、何か変わったことはないか」
ディランに離れの執事が応じる。
「いえ、特には。……具体的に、変わったこととはどのようなことでしょうか」
「新しい人間がここに入った、などだ。前公爵の愛人が増えることには全く興味がないが、問題を持ち込まれてはたまらない。王太子・ローレンス殿下も心配しておいでだ。歴史あるランチェスター公爵家に醜聞があるのではと」
「……承知しております。ですが、問題はないかと」
テーブルセットに落ち着いたディランの前にあるカップに紅茶が注がれていく。エイヴリルはそれを部屋の端から見つめる。
(やはり、ディラン様はテレーザ様のことを調べるためにここへいらっしゃったようです。私は静かにしていましょう)
ところが、そうはいかなかった。
「新しい人間といえば、優秀な洗濯メイドが入りまして。没落した貴族の出ということで、旦那様が希望すれば、ゆくゆくは母屋や王都のタウンハウスで上級使用人として育てていただくのもよろしいかと」
(! ええと、それは……?)
勘弁してほしい。思いがけず聞こえてきた自分に関する話題にエイヴリルは身を縮めるが、得意げに進言する執事は手を緩めない。
「彼女の名前はクラリッサと言います。洗濯だけでなく、他の振る舞いについても申し分ないかと」
「……まぁ……それはそうだろうな……」
ディランの返答はとんでもなく歯切れが悪い。その洗濯メイドは次期公爵夫人として遜色ないディランの婚約者なのだから当然だろう。ついでに、王太子・ローレンスと国きっての才媛アレクサンドラのお気に入りでもある。
(ここで、悪女とされる私とその洗濯メイドが同一人物だと知られたら面倒なことになる気がします)
ディランはあまりはっきりしない返答をしているが、エイヴリルのように狼狽はしていなかった。なぜなら、ここにその本人がいるとは知らないからだ。
あいにく、平和は続かなかった。執事はにこやかに続ける。
「そのクラリッサがここにいます。紹介を」
「ここにいる? その彼女が?」
(!)
ちょっと本当に勘弁してほしい。ディランの表情が怪訝そうになったのを確認したところで、エイヴリルはそっと部屋を出て行こうとしたが、隣で一緒に控えていたメイドにがしっと腕を掴まれた。
「あなた、呼ばれてるわよ」
「いえいえいえいえそんなそんなそんなそんな」
「何言ってるの。旦那様に直接紹介してもらえるなんてありがたいことよ。早く行きなさい」
(! どうしましょう……)
そうして、エイヴリルは俯き加減のままディランの目の前に押し出されることになった。




