悪女のための優しい秘密
新聞配達の少年、トムはランチェスター公爵家のタウンハウスを前に尻込みしていた。
いつもはそんなことはない。この屋敷の前へ来たら、門番の許しを得て敷地内に入り、裏口まで新聞を配達するのが決まりだ。
わりと、肝が据わっている方だとは思う。自分とは無縁のこんなに大きなお屋敷だが、足を踏み入れることに抵抗も緊張もしたことはないのが自慢だった。今日を除いては。
「ここ、とんでもない悪女って噂の女が嫁いできたらしいんだよな……」
トムはそう呟いてから大きなため息をつく。
実は、トムは一週間ほど風邪をひいて寝込んでいた。その間に同僚の少年が代わりにこの家への配達を請け負ってくれたはずだったのだが、その初日に、先日嫁いできたと噂の『悪女、エイヴリル・アリンガム』に出会ってしまったらしい。
同僚はその『悪女のエイヴリル・アリンガム』を一目見て震え上がって逃げ帰ってしまったということだった。
それ以来、このお屋敷には新聞は届けられていない。
「アイツがどんな目に遭わされたのか聞いたけど、『真っ黒い悪女に自己紹介されながら追い回された』らしい……。どういうことなんだよ。本当なら恐ろしすぎる……やっぱ帰ろっかな」
しかし、頭を抱えているうちに、門番が気を利かせて中へと案内してくれた。退路を断たれてしまったトムは「余計なことを」という言葉を呑み込んで敷地内をとぼとぼと歩いていく。
本当はとぼとぼと歩く時間の余裕なんてない。しかし、真っ黒な悪女とは何なのだ。追いかけてくるって一体。
(悪女のエイヴリル・アリンガムってどういう人間なんだよ。うっかり遭遇してしまったらおれはどうしたらいいんだ……!)
どんよりとした気分で同僚に託された七日分の新聞を握りしめ、しぶしぶ裏口へと進む。
すると、そこでは一人の少女が箒で掃除をしていた。ピンクブロンドを風になびかせ、鼻歌を歌いながら楽しそうに砂埃を掃いている。
それにしても随分と手際が良い。普通のハウスメイドの二倍ぐらいの速さで作業をしているのではないか。
あまりにも華麗な箒さばきにうっかり見とれてしまったところで、彼女はこちらに気がついたようだった。目を輝かせて話しかけてくる。
「やっと到着しましたね! 一週間分の新聞です!」
「あ、もっ……申し訳、ありません」
よかった。自分は黒い悪女に遭遇しないですんだようだ。このおっとりとしたピンク髪の少女に新聞を託して帰ろう。しかしこの屋敷でこんな少女は働いていただろうか。まぁどうでもいい。とにかく無事に配達ができてよかった。
あからさまに安堵しながら新聞を手渡すトムに、使用人と思われるピンク髪の少女は天真爛漫に微笑みかけてくる。
「あなたが新聞を届けてくださっていることは、私がこの宮殿にやってきた次の日から知っていました。ですが、この前は他の方が配達にいらっしゃったようでしたので声をおかけしたんです」
「えっ?」
宮殿。他の方が配達。言葉選びから伝わってくる雲行きの怪しさに、トムは顔を引き攣らせた。けれど、彼女は引き続き楽しそうに続ける。
「ですがあの日は私、ちょうどボイラーの修理をしていたところでして。ちょっと真っ黒で、怖がらせてしまったようです。あなたが体調でも崩されたのではと気になってお話をお伺いしたかったのですが、逃げられてしまいまして」
「はあ」
ちょっと真っ黒。追いかける??? しかもボイラーの修理とはハウスメイドの仕事なのだろうか。
(もしかしてつまり……この女が悪女のエイヴリル・アリンガムってことか!?)
想像していたものと現実とのあまりの違いに頭の中がついていかない。後退りをはじめたトムに、エイヴリルと思われる女性は紙袋を差し出してきた。
「こちらははちみつですわ。もう二度と配達を休むことがありませんように。少なくとも晴れの日は来ていただきませんと!」
「!?」
『男と見れば誰もを虜にし、財産全てを巻き上げる』と噂の女だ。同僚が追いかけられたのも、理由をつけて所持金を奪われ、金蔓にされるところだったのではないか。短絡的にそんなことを考えていたトムにはもう意味がわからない。
けれど、『悪女のエイヴリル・アリンガム』は頬を膨らませて紙袋を押し付けてくる。
「早く受け取ってください! レモンと一緒にたっぷり紅茶に入れるのがおすすめです!」
「えっと、はち……みつ?」
「ええ。風邪にははちみつです。きちんと栄養を取って休んで、晴れの日は配達を休まないでくださいね! 予定があるときには仕方ないですが……来られるときにはちゃんと来てください。その、無理をせず、できる範囲で!」
「……」
普通、雪の日でも雷の日でも新聞の配達には行かされる。強めの雨が降っていて時間内に届けられなかった時はクレームが入ったこともある。
そんな中で、『晴れの日には配達しろ、きちんと休め、いややっぱり予定がある時は仕方ないけどできる範囲でいいからきてね』とは。
(この子、噂とは正反対のめちゃくちゃいい子なんじゃないか……?)
支離滅裂な主張と、噂とのあまりの違いにトムが首を傾げたところで。
裏口にもう一人珍しい人間が現れた。
「エイヴリル、こんなところにいたのか」
「ディラン様!」
(……!? こ、公爵様だ……)
そこには、この屋敷の主、ディラン・ランチェスターがいた。ランチェスター公爵家に新聞配達をするようになってから一年ほど経つが、トムは彼をこんなに近くで見たのは初めてだった。それほどに近寄りがたく、雲の上の存在なのだ。
けれど、ディラン・ランチェスターは『整いすぎて冷たそう』な外見のイメージからは想像もつかないほどに優しい声音でエイヴリルに話しかけている。
「エイヴリル、グレイスが探していた。急にいなくなったと」
「! ついつい困らせてしまいました」
「そうか。悪女なのも大概にしてもらわないとな」
この広大な屋敷の主人に逢えたことへの興奮よりも、彼がエイヴリルに向ける愛おしげな視線と甘い声色の方が気になる。そして、どう考えても二人の会話はおかしい。
(って、はちみつのお礼!)
呆気に取られて、お礼を伝えるのを忘れていた。
慌てて「ありがとうございます」と声をかけようとしたところで、ディラン・ランチェスターがトムに向かい人差し指を唇にあて、「しーっ」と合図を送ってくる。当然、エイヴリルは気づいていない。
(……もしかして、お礼を言ってはいけないのか? 彼女はお礼を言われるようなことをしたとは本気で思っていないから?)
どう考えても変すぎる会話の内容から意図を推測し、こくこくと頷けば、ディランはふっと微笑む。それから、二人は扉の奥へ消えたのだった。一瞬のことだった。
パタン、と裏口の扉が閉まる音がした後で、トムはポカンと口を開けた。
「噂とは随分違うじゃないか……!」
随分と天真爛漫で優しい悪女と、それを見守る公爵様。今見たものを仲間に伝えたい。けれど、優しい笑みで自分に「内緒にしてやってくれ」と伝えてきたディラン・ランチェスターのことを思うと、それは憚られた。
(すごい……お似合いの二人だったな)
トムはポーッとしたままランチェスター公爵邸を出る。
そのまま余韻を引きずりながら新聞販売所へと戻ると、同僚から「お前、顔が赤いぞ。もしかしてまだ熱があるんじゃないのか?」と心配されてしまったのだった。
――トムが幸せそうな結婚式を挙げる二人を教会の敷地の外から祝福するのは、まだ二年近く先のお話。




