50.公爵家の印章とデート③
「……!?!?」
一体どういうことなのか。唐突すぎて本当に意味がわからない。そして、急に変わった声色とぴりりとした緊張感に何となく息を呑んでしまう。
けれどエイヴリルはすぐに持ち直した。
(なるほど。少し驚いてしまいましたが、これは契約結婚の話をされているのですね……!)
自分で納得のいく答えを見つけ、たおやかに微笑む。
「もちろんですわ。あとは結婚式を挙げて、婚姻届を出せば完璧です」
「いや契約結婚の話をしているわけでは、」
「大丈夫です。ランチェスター公爵家に嫁いだ悪女として、完璧な結婚式を挙げてみせますから、ご安心を……!」
「いやだからそういうことではなくて……」
いつもはクールな印象が強いディランが、めずらしく狼狽している。いや、エイヴリルやクリスの前では親しみある表情を見せてくれることも多いのだが、それにしてもである。
つまり、どうやらこの会話に関するディランの真意は違うところにあるらしい。しかし、エイヴリルはまずこの手の中の印章の行き先を確認しなければいけない。
「とにかく、この印章は私に持っていて欲しいということでしょうか」
「……まあそれに関してはそういうことだな」
「では、契約期間満了まで私はこの印章を大切にお守りします」
そういうことなら話は早い。もっとストレートに言ってほしかったと思いつつ印章をハンカチに包みぎゅっと抱き締めると、ディランは自身の髪をくしゃりと掴んで諦めの声を上げた。
「まさかこれだけ言っても伝わらないとは。……もしかしてエイヴリルは私が嫌いなのか」
「……!?!?」
端正な顔立ちに影を落としたディランにまたしてもエイヴリルは慌てた。違う。断じて、そんなはずはない。
「いいえ、いいえいいえ。いつでもお優しいディラン様が私は大好きですわ」
「それ、さっき食べたクレープに言っていた『好き』と同じレベルだな」
「いいえ。クレープはおいしいですが優しくはありませんし」
「君が作ってくれたクレープは優しい味だった。美味しいし、好みだ」
エイヴリルが「よろこんでいただけて何よりです」と微笑むと、ディランはため息を吐いた。
「エイヴリルは周りに鈍いとよく言われるだろう」
「ええと、特には。実家では無能……、いえ無能な悪女ということでしたので、そちらの方のインパクトが強かったようです」
「君の実家の罪が本当に重いことを再認識した」
秋の空に、ぴゅうと風が吹いた。いいお天気だが、風は少しずつ冷たくなっている。
「……君には言葉を重ねるよりも行動でわかってもらうしかないようだな」
「いいえ。悪女として、ディラン様のお考えはよくわかっております」
「まぁ、そうだろうな? しかし私はさらに努力しよう」
「それでは私も頑張りますわ」
三年間の契約結婚を履行し、その間印章を大切に持てばいいのだろう。自信を持って頷くと、ディランは耐えきれないというふうにぷはっと笑った。
エイヴリルは、無償の愛を理解するのが少し難しいという自覚がある。たとえば、子どもが親から無条件に愛されるのはわかるが、自分にそれに近いことが起きるとは思えない。
けれど、自分を思いやってくれるアリンガム伯爵家の使用人のことは大好きで信頼している。なんだかんだ言ってもキャロルだって憎めないしいい方向に向かえばいいと思う。ちなみに父親母親義妹は対象外である。
(私の考えが少しずれているような気はしますが……今は、ディラン様の望みを叶えるだけですわ。契約上の妻として)
決意を新たにしていると、ディランが立ち上がる。
「食事も終わったし、屋敷の中を案内する。ここはエイヴリルが好きそうなものが多いんだ」
「まぁ。それはとても楽しみです」
優しい視線をくれてから、ゆっくりと歩き出したディランの背中をエイヴリルは不思議な気持ちで見つめた。
(さっきのディラン様のお声があまりにも真剣で甘いので、ついドキドキしてしまいました……! 契約結婚ですが、結婚の申し込みって本当に素敵ですね)
自分には一生縁がないと思っていた言葉。エイヴリルはそれをゆっくりと噛み締めてから、のほほんと庭を歩いたのだった。




