35.
「……フットインザドア。なるほど、これは交渉上のテクニックか」
「はい?」
「やはり、君が昨日の子と同じ人間だなんて、到底思えなくなってきたよ。言葉数こそ少ないが、その裏にはどれだけのことを考えているのか、想像するだけで恐ろしくなる。まるで同業の経営者と話しているようだ」
エイヴリルは交渉のためのテクニックなど使っていない。けれど、まるで身代わりだと見透かされているようで、どきりとする。
身代わりだとバレた時には、やはりランチェスター公爵家の名前を使うべきか。そう思っていると、彼は続けた。
「だが、すべてが計算し尽くされた上のテクニックだというのなら話は別だ。君が昨夜からいろんな女性を演じ分けているのには、この先に、さらに大きな目的が待っているからなんだろう?」
フットインザドアといえば、大きなことを成し遂げるために、小さな要求から叶えていって相手の懐に入り込むテクニックだ。それをエイヴリルが使っていると言いたいのだろう。彼の言わんとすることを理解すれば、まだ自分にはコリンナとして会話を続ける余裕はありそうだ。
「……そうですね」
コンスタンの深読みに乗ることにしたエイヴリルは、全力で乗っかるのだった。
「私が本当に手に入れたいものは、橋です」
「うん?」
相当思いがけない答えだったらしく、コンスタンは片眉を上げて固まった。けれどエイヴリルはそのまま続けた。
「この十一区は一つの島のようになっていますよね。三つある橋のうち、どれかを通らないと絶対に来られない場所です。でしたら、私はその橋が欲しいです」
「……んんっふぅ?」
コンスタンは時間をかけて言葉の意味を理解し、あらためて変な声を漏らす。一方のエイヴリルは、昨日貴族サロンへ向かうときに渡った橋を思い浮かべていた。
現状、娼館の門と壁を守る武装した門番を廃止したとしても、橋の先へは行けない。けれど、逆にいうと橋さえ手に入れば何とかなるのだ。
これは、あまりにも大きすぎる要求だ。けれど、シュクレール商会に娼館で働く人々が適正価格で生活必需品を購入できるよう協力を依頼した二つ目の望みを踏まえると、筋が通っていた。
(これで、コンスタン様は私が何もかも計算尽くだと思うことでしょう。私が身代わりと思われることはないはずです)
エイヴリルをコンスタンの鋭い視線が射抜く。
今日ここに来てすぐにソファに座ったときの気やすさや、コリンナらしくない言動に困惑していた、遊び好きのギラギラした中年男性の姿はなかった。
「君は――」
コンスタンが言葉を続けようとした瞬間、隣のテーブルからエイヴリルたちの会話を聞いていたらしい女性たちが話に割り込んできた。
「ムッシュ? その子、有名な悪女のようなの。ちょっと一般常識では考えられないことを言うみたいだから、大目に見てあげて?」
「そうよ。明日また来たら、もしかしてあなたが昨日出会った彼女に戻ってるかもしれないし」
「そうだわ、それがいいわ! また明日いらっしゃってくださいませ。きっと明日はおいしい料理が出ると思いますし」
賑やかに話に加わり、エイヴリルの隣に座り、守るように肩に手を回してくる彼女たちを見て、エイヴリルはハッと我に返った。
途中からすっかり商談をしているような気分になっていたが、ここはベル・アムールのサロンだ。ロラの目があり、脱走を疑われるような話はできない。
エイヴリルと同じように我に返ったらしいコンスタンは、緩めたネクタイを引き締めながら余裕の笑みを浮かべる。
「そうだな。今夜は少し熱くなりすぎた。財布も空になってしまったし、明日の夜、また来るとしようか」
「では、その際はまた私がお相手させていただきますね」
上品に微笑んだエイヴリルに、彼は苦笑する。
「もう少し時間をあげよう。それまでに私が君に協力したくなるような実績を作りなさい。本気で橋まで欲しがった女は初めてだ。こちらにもメリットがあると提示できれば考えてあげないことはないよ」
「……!」
思ってもみない提案にエイヴリルが息を飲むと、彼は意味深に笑った。
「どんな大きな事業でも、最初は心もとなく先行きが見えない。しかし、それを育てる人間に志があれば大きくなると私は信じている。採算を度外視してでもそこに投資したくなるのは、事業家としての性なんだろうなぁ」
黙ってコンスタンを見つめていれば、彼はすっと立ち上がる。
「昨日、君には名乗らせてもらえなかったな。昨夜はシュクレール商会という名前を出しても何の反応もなかったのに、今日は私のフルネームを知っていた。不思議なことだよ」
いつもはうっかり本音を話してしまい、後悔することも多いエイヴリルだったが、今日のこれはわざとだ。話を聞くに値する人間だとわかってもらうため、意図的に彼の名前を出した自覚がある。
けれど、エイヴリルは白々しく首を傾げた。
「何のことでしょう? これも交渉のテクニックかもしれないですね」
「ははっ。お手並み拝見といこうか。期待しているよ」
「ええ。必ず」
コンスタンは立ち上がり、見送る間も与えずに颯爽と去って行ったのだった。





