49.
ということで、エイヴリルにとって初めての類のお仕事である。
『ベル・アムール』のエントランスに直結したサロンのソファに座ったエイヴリルは、これ以上なく固くなっていた。
(ロラさんは、高級娼婦の価値を保つために、今日はここでお話しするだけでいいとおっしゃっていました。実際に個室サロンで食事をしたり、自分の部屋に招くのはそのお客様が訪問して十回め以降でいいと)
そう聞いているので、今日いきなり『大人の恋愛』を披露しなくてもいいのはわかっている。
しかし、社交の場なら慣れているのだが、ここは大人の恋愛の場だ。その場に相応しい振る舞いが自分にできるのか、甚だ疑問である。
(そもそも、偽の恋愛とはいえ、ディラン様以外の方と親しくするのは無理です……!)
契約結婚で、ランチェスター公爵家に嫁いだ頃のことが懐かしい。あの頃のエイヴリルは、結婚相手が『好色家の老いぼれ公爵閣下』と聞いていても、嫌悪感を抱くことなく、嫁ぐことに同意できた。
けれど今は、形式上の恋愛ですら嫌で、正直吐きそうな気がする。
とにかく、今日はここを社交と同じような気持ちで乗り切るしかない。そつのない会話なら問題ない。大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせていると、自分に陰が落ちたのがわかった。
「お嬢さん、初めて見る顔ですね」
落ち着いた声に顔を上げる。そこには、二十代と思われる男がいた。
上質なスーツを身につけ、髪も完璧にセットしている彼は、生まれながらの育ちの良さを感じさせる佇まいをしている。目元だけを隠す小さな仮面をつけているところを見ると、彼はあまり身元を知られたくないのだろう。
いろいろな要素を総合的に考えて、貴族かもしれない、と思い至った瞬間にエイヴリルの頭の中の貴族リストが仕事をする。
(あ。この方、一度夜会でお見かけしたことがあります。直接ご挨拶はしませんでしたが、ディラン様が遠くからシモン子爵家の三男だと教えてくださいました。確か、お名前はアベル・シモン様です。スポーツがお得意で、スカッシュの大会で優勝されたことがあるはずです)
ならば、スカッシュの話題を振れば、大人の恋愛の話はしなくて済みそうだ。社交の応用で乗り切れるかもしれない、とほっとしたエイヴリルは、いつも通り上品に微笑む。
「こんばんは。お越しいただき感謝申し上げます」
「へえ。君は高級娼婦かな。まるで貴族の令嬢みたいだ」
エイヴリルの言葉と所作にアベルは大変気を良くしたようだった。許可をしてもいないのに、アベルはエイヴリルの隣に座り、親しげに顔を寄せてくる。
「名前を聞いてもいい?」
「エイヴリル……と申します」
本当はここで偽の名前を名乗るのが普通らしいが、『悪女エイヴリル』として有名な自分にはそんなものはない。おずおずと答えれば、彼はエイヴリルの巻かれた髪を一筋取り、指先に巻き付ける。
「もっと静かなところで話がしたいな。私を君の部屋へ連れていって?」
「⁉︎」
開始一分、もう無理だ。
しかも、ロラは今日は話だけでいいと言ったはずだ。それなのに、いきなりこんなに親密そうな誘いがくるなんて聞いていない。
『ベル・アムール』のサロンには黒いスーツを着た男性従業員が目を光らせているのだが、さすがに悪女が一言目の誘いを躱せないとは夢にも思っていないらしく、誰も助けに入ってくれることはなかった。
(ど、ど、ど、どうしましょう)
涙が出そうである。
その瞬間、いきなりピンチを迎えているエイヴリルの耳に、エントランスの扉が開く音が聞こえた。
それとほぼ同時に、ものすごく聞き覚えがある声が響く。
「――ねえ。ここで高級娼婦として働かせていただきたいのだけれど」
(……⁉︎)
エイヴリルは息を呑んだまま、動けない。
まさか、そんなはずはない。
(た、確かに、彼女はリンドバーグ伯爵家を脱走して、現在行方不明になっていると聞いていますが……)
しかしこんなにタイミングよく、エイヴリルが攫われて囚われている場所に現れるはずがないのだ。
今日の20時に5章が終わる予定です!




