41.
「フェルナン・ブランドナー様……私の部屋の位置をご存じではないですよね?」
困惑して、思わず彼の名前を口にすると、男は屈託なく笑う。見慣れた遊び人の顔だ。エイヴリルの警戒を気にする素振りすらなく、フェルナンは近づいてくる。
「かわいい人の居場所は何となくわかるようになっているんだ。……だけど、この前の夜会ではあまり一緒にいられなくて残念だったな。エスコートがサミュエルだったから、その隙をついて親密になれそうだったのに」
「⁉︎」
次々に捏造される、あまりにも事実と違う言葉には困惑しかない。
(あの夜会で、私はフェルナン様とはご挨拶しかしていませんよね……? しかも、婚約者とご一緒で、遠ざけられてしまった記憶さえあるのですが。ディラン様への個人的な恨みから絡んでいらっしゃることは知っていますが、彼の本当の目的が全然わかりません)
恋人の一人を奪われた腹いせに、ディランの妻であるエイヴリルを何とかしたい気持ちがあることまでは事実として理解できる。
けれどわからないのは、その魂胆が全部ばれているにも関わらず、ディランの目の前で絡んでくることだ。
(音楽祭ではランチェスター公爵家に恥をかかせようとしてあんな振る舞いだったことが、後日判明しましたが……ここのところの振る舞いは何なのでしょう?)
何が狙いなのかわからないエイヴリルの隣、ディランはエイヴリルを守るようにして間に立つ。
「いい加減にしたらどうだ。婚約者の他に複数の恋人がいる男に、妻を近づけたくない」
「恋人なら、全員と別れたんだけどな」
「「別れた?」」
エイヴリルとディランは顔を見合わせる。フェルナンの女性関係については全く興味がないのだが、サミュエルに聞いていた事情を踏まえても、そんなのは明らかにおかしすぎやしないだろうか。
エイヴリルよりもずっと長く彼の女性関係を見てきたであろうディランも、同じように信じられない様子だ。
「貴殿に何があったのか全然興味はないが、私たちを不快にするのも大概にしてもらいたい」
「ふっ。勘違いしないでいただきたいですね。私はただ、悪女という話だったのに真逆の振る舞いと人間性を見せる彼女に惹かれただけですよ、だから恋人とも別れてきたんだ」
冷静に応じていたディランの声音に、苛立ちが混ざる。
「妻が魅力的な女性だということは大いに認めるが、貴殿の事情には関知しない。これ以上エスカレートするようならば、ブランドナー侯爵家へ正式に抗議を入れさせてもらう」
余裕綽々だったフェルナンは、ディランの言葉にうっとなった。しかし俯いたのは一瞬のことで、すぐに視線を上げる。
「……先日、我が家で催された夜会は社交界の重要人物が一堂に会した、極めて意味の重いものでした。そこで、奥方を一人にした自覚はおありか?」
「あの日、妻にはサミュエルだけでなく、私が信頼する人間も側につけていた。問題はないし、そもそも彼女なら大概のことには巻き込まれないはずだ」
「だが、ランチェスター公爵閣下があの場で重要な話を進めていたのと同じように、ブランドナー侯爵家とランチェスター公爵家が近づくのを妨害したい人間が工作活動をする可能性をお考えにはなりませんでしたか? 彼女が本当に大切なら、一人にすることはなかったはずだ」
フェルナンの言葉に、息を吸う間にも満たないほどの、わずかな沈黙が生まれた。
(確かにそれは、あの日私とディラン様が危惧した通りなのです)
ランチェスター公爵領での音楽祭をきっかけに、サミュエルがランチェスター公爵家で行儀見習いをしていることが広く知られるようになった。
つまりそれは、これまである程度の距離を保ってきたランチェスター公爵家とブランドナー侯爵家が急激に近づいていることの証でもある。そのうえ、ディランには王太子に指名されるのではないかという憶測まで飛び交っていた。
王位継承権や王宮での力関係をめぐる争いに巻き込まれない立ち位置で、社交に不慣れな女を一人にして何をしているんだというフェルナンの考えはわからなくもない。
でもあの日にどう立ち回るかは、夫婦で話し合って決めたことだ。それを理由にして、ディランが他人から責められる謂れはないはずだ。
一瞬で考えを整理したエイヴリルは、フェルナンをまっすぐに見つめる。
「……だとしたら何だというのです?」
ディランを責めようとするフェルナンに対して、自分でもびっくりするほど硬質な声が出た。
「私が、あの場で適切に振る舞えないとでもお思いになりましたか?」
「いや……私はただエイヴリル様を心配して」
笑顔を取り繕おうとするフェルナンに対し、それ以上の笑みを浮かべる。エイヴリルの表情が予想外だったのか、彼は呆気にとられたまま一歩後ずさった。
けれどエイヴリルはそのまま続ける。
「あまり見くびられては困ります。私はランチェスター公爵夫人です。計算高い悪女だとおっしゃったのはフェルナン・ブランドナー様ご自身ですよね?」
「いやそこまでは言ってな……」
フェルナンがふるふると首を横に振ったのが目に入ったが、勢いづいたエイヴリルは気にしない。心配したディランが制止するのも振り切って、声高らかに告げた。
「ランチェスター公爵を夢中にさせ、しかも計算高い悪女である私が、ディラン様にご心配をおかけすることはないのです! ……たぶん。コホン、ですから、貴方がおっしゃることは余計なお世話ですわ」
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