28.
その日。ランチェスター公爵家のタウンハウスに到着したエイヴリルの腕の中には、数冊の本が抱えられていた。アレクサンドラから半ば無理やりに持たされた『閨の指南書』である。
花嫁教育に使われるような具体的で直接的な実用書ではなく、いわゆるロマンチックな描写のある恋愛小説のようだ。
タイトルは『溺愛花嫁は眠れない』『愛されすぎて困ってます』。
特にアレクサンドラの愛読書というわけではなく、恋愛描写が丁寧で濃厚で、貴族令嬢の閨教育入門書としておすすめの本らしい。
(あまり細かくはお伺いしませんでしたが……主に、私たちの夫婦の関係が健全すぎることを指摘されてしまいました)
健全。いいことではあると思うのだが、アレクサンドラが意図するところもわかる。
しかし、これまでディランは何も言わなかったのだ。となると、別にこのままでもいい可能性もある。どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
自室へ戻っていくサミュエルにお礼を告げて別れ、屋敷の中を歩く。
(実際に、クラウトン王国での任務中は設定上そういうことは難しかったですし、何よりもお仕事がメインでしたから。家を空けている期間が長くなればそれだけディラン様のお仕事も増えます。私も先に寝てしまうこともあります。ですがそれは……)
うーんと考えていると。
「……エイヴリル?」
「ひゃぁっ⁉︎」
ドサッ。手から本が滑り落ちた。後ろから声をかけられて、エイヴリルは抱えていた本を落としてしまった。
「ディラン様……⁉︎」
声をかけてきたのはディランだった。彼の片方の腕には留守を預かっていたブルーがじゃれ付いている。ディランはブルーを床に下ろすと、エイヴリルが落とした本を拾おうとする。
「みゃー」
せっかく大好きな人の腕の中でくつろいでいたブルーの抗議の鳴き声が聞こえる中、ディランは挙動不審に考え事をしていたエイヴリルのことが心配そうだ。
「体調でも悪いのか? 医者を呼ぼうか」
「いえっ、元気です! ……ディラン様、お戻りだったのですね」
「? 出かけて帰ってきたのは君のほうだ」
様子がおかしいエイヴリルを、心配そうにディランの碧い瞳が覗き込む。
ぼうっとして考え事をしていただけである。しかも、アレクサンドラの講義によると、エイヴリルはディランに苦労をかけているほうの可能性がある。これ以上は心配をかけられない。
「熱はなさそうだな」
いろいろと考えるエイヴリルだったが、ディランは自然とエイヴリルと自分のおでこをくっつけ、体調に問題なさそうなのを確認した。
ついさっきまでアレクサンドラと話していた話題のこともあり、さすがにどきりとした。顔が赤くなってしまったかもしれないと思って両手で頬を覆うと、ディランは優しく微笑んだ。
「部屋まで送ろう。歩けるか?」
(ディラン様……)
シンプルに、その笑顔にどきどきする。心臓の主張がすごい。
こくりと頷けば、そのままディランはエイヴリルの一歩先を歩き出した。手には先ほど拾ってくれたアレクサンドラから渡された数冊の本を持ったままである。
とてとてとその後をついていくブルーの後に続いて歩き出したエイヴリルは、今更ながら本のタイトルを思い出したのだった。
(あっ……『溺愛花嫁は眠れない』⁉︎)
「ディラン様、その本――」
自分が持ちます、と慌てて声をかけたものの、遅かった。前を歩いていたディランは本のタイトルに気がついたようだ。呆れたように聞き返す。
「これは、次期王妃にもらったのか?」
「……はい」
おずおずと答えると、夫は苦笑した。
「少し話をしようか。これから部屋に来るといい」
「みゃーん」
エイヴリルではなく、ブルーがご機嫌に鳴いたのだった。
部屋に入ると、ディランは扉を閉めて徐に切り出した。
「実は、新国王の即位式が終わるまで、エイヴリルを王宮に置いてほしいという要請があった」
「そ、そのお話ですか?」
「ああ」
すっかり『溺愛花嫁は眠れない』のことを問い詰められると思っていたのだ。
ディランの私室に入るなり切り出された、思いがけない話題に目を瞠ると、ディランはため息をついて長椅子に座った。
流れで、エイヴリルもその隣に腰掛ける。『溺愛花嫁は眠れない』はテーブルの上に重ねて置いてある。いたたまれずに、目を逸らすしかない。
エイヴリルの反応をわかっているのか、ディランは続けた。
「今日、アレクサンドラ嬢から王宮に招かれたのは、王妃になったら話し相手として出仕してほしいという依頼のためだろう?」
「はい。既にお聞きになっていたのですね」
「王宮に出入りすることはエイヴリルのためにもなるだろう。屋敷の中に隠しておいては、もったいないからな」
当たり前のように褒め言葉を言われて、ふわふわとした気分になる。
「ただ、王宮内に部屋を持つことは遠慮したいと伝えた。一度持ってしまえば、下がることは難しくなる。政治や駆け引きに巻き込まれる確率も上がるだろう。エイヴリルなら容易くいなせるかもしれないが、負担もあるだろうからな」
「私もそれはお願いしました。私がランチェスター公爵家の足を引っ張らないように、ですね」
納得して頷けば、ディランは少し間を開けて笑った。
「それは違う。君は俺の妻だからだ」
「……!」
長椅子に腰掛け、見つめ合うような形になっている。
エイヴリルの視界には、ディランの碧い瞳が映っていた。一度はすっかり治ったはずの心臓の主張がまた始まる。
真面目に話しているのに勘弁してほしい、と自分の心臓に苦情を言いたいのを堪え、どこか心許ない気持ちで夫を見上げれば、彼はそっと微笑む。
「エイヴリルがアレクサンドラ嬢の話し相手に選ばれたことは、俺もうれしい。君がこれまでの人生でずっと家族に奪われてきた称賛を、これからやっと正当に受け、認められていくんだ。この上なく誇らしいことだ」
ディランの低く優しい声音で紡がれる言葉は、美しく静謐だ。エイヴリルはこんなふうに自分を手放しで褒め、認めてくれる人のことを知らなかった。
「ディラン様と出会えたおかげですね」
「実際、俺は何もしていないんだが……その言葉を否定せずに受け入れて、君を救い出したただ一人の男になりすましたいと思ってしまっている時点で、重症な気がするな」
「本当のことですよ」
何の疑いもなくそう告げれば、ディランの瞳がわずかに見開かれた。
座っている長椅子が少し沈み込んで、ディランがこちらに身を寄せたのに気がついた。当たり前だが、この部屋にはディランと二人きりだ。
「それで――今日はアレクサンドラ嬢と恋愛小説の話を?」
「あっ」
借りた本のタイトル、書籍5巻の改稿でもっとアレクアンドラ様が持っていそうなタイトルに変えています。




