20.悪女との音楽会
何をするのだろう 、と見送ると、二人の手にはバイオリンが握られていることに気がついた。プログラム通り、次は子供たちが登場すると思っていた客席が、意外な人物の登場にざわつく。
――一体何が始まる?
そんな期待感に埋め尽くされた会場で、ディランとクリスの呼吸音が響く。そして、ほとんど前触れもなく演奏が始まった。予期しないゲストの演奏に、ホール中のざわつきは静寂へと変化した。
(この曲は)
それはクラシックではなく、一般的な市民の間で好まれる恋愛をテーマにした戯曲のなかの、有名な一曲だった。
一説では、マートルの街を舞台にした物語なのだとか。今日、ここにいる招待客は皆それを知っているだろう。
小気味良いモデラートで始まったその曲は、アレグロへと変化し、会場を巻き込んでいく。高音と低音が溶け合い、さらに曲は加速する。会場から感嘆の息が漏れ聞こえ始めた。
このブランヴィル王国で、楽器の演奏は幼い頃から叩き込まれる貴族の嗜みだ。だからこそ、音楽一家のブランドナー侯爵家が一目置かれているところもある。
さすがランチェスター公爵家の当主というそつのない演奏に、会場内は驚きに包まれていた。決して難しい曲ではない。けれど、領主とその右腕によって奏でられる艶やかな音色は、前座のお遊びとして観客たちの関心を引くのに十分だった。
(素晴らしい選曲ですね。さっきまでのざわざわとした空気が嘘のようです……!)
ディランたちがわずか数分だけの即興の演奏を終えると、会場から大きな拍手が起きた。夫はそのまま軽く微笑み、舞台袖の方に合図を送ってくる。
第二部をこのまま始めるのだ、と気がついたエイヴリルは、サミュエルと頷きあった。
すぐに、舞台袖で成り行きを見守っていた子供たちの入場が始まる。少し遅れて、ソロを務めるサミュエルが舞台に上がった。
瞬間、彼が社交界の華であり音楽一家の末っ子、ブランドナー侯爵家の五男だと気がついた観客から、ディランたちの演奏を超えるどよめきが上がる。
その頃には、会場からランチェスター公爵家に関する噂話はすっかり消えていたのだった。
ホールには、子供たちの演奏が鳴り響いている。
サミュエルのソロ。惚れ惚れするような音色に目を閉じて聴き入っていたエイヴリルは、ふとディランを見上げた。
「サミュエルはやはり素晴らしいです。……そして、ディラン様もさすがお上手でしたね」
エイヴリルの言葉に、ディランは「耳の肥えた観客の前で演奏できるレベルではないが」と気まずそうに断った上で、笑った。
「こういう機会もあるかもしれないと練習はした」
「まぁ」
「私も練習しましたよ。人前で弾いたのは何年振りかな」
「クリスさんまで!」
エイヴリルはこの音楽祭の準備に夢中だったのだが、まさか二人はこの事態を想定して動いていたとは。さすがすぎる。
(王都でのお茶会や、普段の社交の様子から考えて、こういうことになるかもしれないと思っていたのですね。そして息のあった演奏……! 本当に素敵でした)
そうしているうちに、無事にサミュエルたちの演奏が終わり、ほっとした。エイヴリルも舞台袖から割れんばかりの拍手を送る。
一度幕が下り、子供たちが安堵の表情で戻ってくる。第三部の準備が始まった舞台を背に、サミュエルが興奮した様子で駆け寄ってきた。
「エイヴリル様!」
「サミュエル! 皆さんも、とても素敵な演奏でした」
「公爵閣下とクリスさんが会場の空気を変えてくれたおかげで、いつも通り演奏できました。観客の方々の空気も、開演前と明らかに違います。コンサートの雰囲気に手繰り寄せられたのではないでしょうか! さすがですね、ランチェスター公爵家の皆様は」
サミュエルの言葉に、エイヴリルはただ頷くばかりだ。
「ディラン様、本当にありがとうございました。私も、サミュエルと子供たちの演奏が素晴らしいものになってうれしいです」
「大したことはない。俺とクリスの演奏がなくても、子供たちの演奏だけで会場は静かになったんじゃないか」
しばらく、サミュエルはディランから褒められてはにかんだような笑みを浮かべていた。けれど、自分の長兄がそこにいることに気がついて眉間に皺を寄せる。
「……兄様、まだここにいたのですか? 公爵閣下に自分の席へ戻るように言われたのですから、わがままを言わずに戻ってください」
「嫌だなぁ。サミュエルもそんなことを言う歳になったのか。すっかり大人になって寂しいよ」
「兄様?」
頬を膨らませる末弟からの説教に、フェルナンはくすくすと微笑んだ。一方で客席からは、ざわざわとした気配が伝わってくる。観客の一時的な退出が始まっていた。
この音楽祭では、第二部と第三部の間には四半刻ほどの休憩時間がある。皆が一旦ホールから退席してホワイエで過ごすのだ。軽食の提供もされ、ちょっとしたパーティーのようになる。
この音楽祭の初日の招待客はほとんどが貴族だ。それが、社交の場になることは容易に想像がつく。あえてこの時間を設けたのだったが、エイヴリルは失敗した、と凹む。
(せっかく、音楽祭に意識を向けられたのですが……また開演前のようなことが繰り広げられるのでしょうか! そうなったら、雰囲気作りが振り出しに戻ってしまいます)
エイヴリルの心中を察したのか、ディランがこめかみを押さえたままため息をつく。
「……さっき、演奏をしながら客席に前公爵がいないか探ったんだが、見つけられなかった。実は、ここに来るまでの間もこの音楽堂の中を探したんだが、いなかった。もう一度確認してくる。ここにあいつがいると妙な噂話を生むからな」
「確かに、それはそうですね。前公爵様がいらっしゃると、ますます面倒なことになります」
まさかあの演奏をしながらブランドンを探していたとは。ディランはいつも涼しい顔をしてとんでもないことをやってのける。
そんな会話を交わしながら、ホワイエに出ると、そこには探していた人物がいた。ブランドン・ランチェスターが地元の名士夫妻と和やかに会話をしている。
「どうしてここに?」
ディランは特別に気遣うこともなく、冷たく声をかけた。息子に話しかけられたブランドンは、目を眇める。
「遅いじゃないか。ゲストの皆さんをお待たせして、何をしていたんだ」
「そちらこそ、招待もしていないのに勝手に来られても困ります。あなたはもう公爵家の主ではないのだから」
「……それはそうだが……」
意外なことに、ブランドンは激昂しなかった。ディランの言葉を受け入れて、しおらしくしている。それを見たディランは不快さを隠さない。
「いきなり大人しくされると気味が悪い。屋敷にお戻りください」
「せっかくの音楽祭だろう。私も公爵家の一員だ。楽しんでもいいじゃないか」
掴みどころのない押し問答が数往復続いた後で。その様子に見かねた地元の名士の夫妻がディランに声をかける。
「お父上のことは昔から存じ上げております。随分と奔放な振る舞いをされていたことも」
「ディラン様はお辛い思いをされたことでしょう。ですが、きっと前公爵様もいろいろあったのですよ。一線から退いた後に一人でお過ごしになっているのは少しお可哀想ではありませんか?」
領主を名前で呼ぶ二人は、ディランどころかブランドンよりも年上だ。
穏やかに微笑み、確執のある親子の両方に気遣いを見せる様子は、まさに人生のあらゆる面を見てきた人格者とも言えるのかもしれない。
ブランドンには厳格に接しようとしたディランだったが、さすがにこの二人のことは邪険にできないようだった。戸惑ったような視線を向ける。
「これは、カルーア家のご夫妻。私自身も幼い頃よりお世話になりました」
「先ほど、素晴らしいバイオリンを披露されていましたね。思えば、あれもお父上が教育を与えてくださったからでしょう? 感謝しませんとね」
「――そうでしょうか」
「そうですわよ」
ふふふ、と上品な笑みを浮かべる夫人に、ディランはさすがに何も言えなくなったようだ。
彼らは地元の有力者だ。ブランドンが親しげに話していたところからも、家格が低くても領地内では発言力がある家の主なのだとわかる。
ディランが、彼らに向ける笑みから感情を消し去っているのを見て、エイヴリルは口を開いた。
さっき、公爵家に自分が馴染んでいるのを見た観客がざわざわとする程度には、自分はここではまだ若干悪女らしい。だから、多少無礼な振る舞いがあっても許されると思うのだ。




