19.トラブルメーカー
「さっき、観客席から妙な言葉が聞こえてきました」
無事に第一部の市民楽団の演奏が終わり、第二部が開演する直前の舞台袖。
サミュエルの不思議そうな声に、エイヴリルは首を傾げた。今、ディランは来賓の接待のために客席についている。ここは、エイヴリルが取り仕切っていた。
「どんな言葉でしょうか」
「ディラン・ランチェスター公爵は妻に夢中だと」
「むっ……⁉︎」
思わぬ言葉に顔を赤くすれば、サミュエルは落ち着いて続ける。
「こういったコンサートの場というのは、演奏の間は音楽に集中する観客が多いはずです。しかし今日は、なんだか奇妙な感じがします。噂話をしてざわついているのは珍しいような」
「主催の私が慣れずに至らないことばかりで、申し訳ありません」
いつものサロンコンサートとは違い、それらしい雰囲気を演出できていないということだろう。もっともすぎる指摘にエイヴリルは頭を下げた。けれどサミュエルは、そうではありません、と首を振る。
「こういった場に出席するのは、社交での振る舞いに慣れた方々もしくは音楽好きな人が多いはずです。僕とエイヴリル様が招待したのも、主にそういう方々です。その彼らがざわついているのは、あまりにも、前段階でのインパクトが大きかったのではないかと」
「……ランチェスター公爵家を取り囲む社交界の勢力図や、前公爵様のお出ましが音楽の演奏を凌ぐほどの雑音になってしまっていると……」
「残念ですが、そういうことですね」
サミュエルは、周囲を見回しつつ眉尻を下げる。彼の周りには、領地中から集めた音楽好きな子供たちが緊張の面持ちで出番を待っていた。
サミュエルと同じ十歳前後の子供から、社交界デビューを控えた見た目は大人とあまり変わらない十四、五歳の令嬢令息までがそれぞれの楽器を抱えてそわそわしている。
(この落ち着かない雰囲気の中で演奏することになるのですね。申し訳ないです)
今日のプログラムでは、第一部が地元楽団による演奏、第二部が子供たちによる演奏、第三部でアンサンブルの演奏を挟んだ後、第四部では王都から招いた楽団によるフィナーレを迎えることになっている。
つい先ほど第一部が終わり、舞台は第二部の準備のために幕が下りているところだ。リハーサルでは滞りなかったはずのプログラムなのだが、観客の方に問題が発生するとは、完全に予想外だった。
「でも大丈夫です。僕たちも頑張りますから」
頼りがいのある落ち着いた笑みに、エイヴリルも少し安堵した。そうして問いかける。
「そういえば、サミュエルはお守りの楽譜はどうしたのですか?」
「僕も大きくなりました。場数を踏んで、お守りがなくても演奏できるようになったんです」
「それはまあ!」
「楽譜はいつも鞄に入れていますが、使うことはないんです」
そう言って、傍にある鞄に入れたカラフルな楽譜を見せてくれる。細かく書き込まれたそれは、サミュエルの普段の努力を映しているようだ。
かつて、サミュエルはサロンコンサートに出演するのに楽譜が必要だった。暗譜はしていても、緊張すると頭が真っ白になってしまうためだ。
今の問題は置いておくとして、いつの間にか苦手を克服していたことに、エイヴリルは感動するばかりだ。
「いつも、公爵邸で演奏を聴いてはいますが、大きなホールでサミュエルの演奏を聴くのは久しぶりです。私はずっと心待ちにしていたのですよ」
「僕もエイヴリル様に成長を見ていただきたいです」
「ええ、何より、皆さんの練習の成果も楽しみですしね」
サミュエルの後ろで緊張を隠せない子供たちを見て、エイヴリルは微笑んだ。子供たちの心と記憶に残る音楽祭になってほしい。
(そうすれば、きっとランチェスター公爵領はますます繁栄していくはずですから……!)
「サミュエルは本当に練習熱心だ。兄の私も、同じ血が流れているのか疑ってしまうほどでしてね」
柔らかく甘く、涼しげな声音に、エイヴリルは思考を止めた。そのまま振り返ると、さっき逃げられた男がいる。
「そんな呆けた顔もできるのですね。ますます魅力的です」
「ここは関係者以外立ち入り禁止ですわ。どうぞ席にお戻りくださいませ」
なぜか舞台袖に紛れ込んでいるフェルナン・ブランドナーにエイヴリルがまっすぐな視線を向けると、彼は微笑んでサミュエルに声をかけた。
「エイヴリル様にはよくしてもらっているか?」
「はい、兄様。ですが、兄様がエイヴリル様とお呼びするのはいいことではありません。どうかお改めください」
「サミュエルが呼んでいても私は駄目?」
兄からの問いに、サミュエルは澄まして答える。
「はい。僕は子供で、エイヴリル様の友人でもあるためお許しいただいているのです」
「友人……」
フェルナンの濃い紫色の瞳がこちらに向けられる。興味津々なその目線に、エイヴリルは居心地の悪さを感じた。
(どうしてこんなに絡んでくるのでしょうか。わざわざ客席からここへくるなんて、目的がなければありえません)
一方、舞台上では第二部の準備が終わったようだった。まもなく、サミュエルたちは壇上に上がるため、ここはエイヴリルとフェルナンだけになってしまう。
この雰囲気の中彼らを送り出すのは主宰として申し訳ないし、そのうえ、ディランからあの男と二人きりになるなと言われたことを思い出したエイヴリルは身構える。
「私は――」
「客席が落ち着かない様子だから見に来たんだが、来てよかったな」
「ディラン様⁉︎」
エイヴリルの後ろにはディランがいた。
来賓席で招待客と一緒に演奏を聴いているはずだったのだが、サミュエルが感じたのと同じ類の違和感を持ち、ここまで来てくれたようだ。
そして、ここになぜかいるフェルナンに対して嫌悪感を隠さない。
「フェルナン・ブランドナー。もうさっきの会話を忘れたのか? 母親に言いつけられたくなかったら、客席に戻れ」
身も蓋もないまっすぐな侮辱に、フェルナンは人好きのする笑みを歪ませる。
「公爵閣下こそ、奥方に言い寄る男たった一人に対して随分過保護な対応では? 今日はランチェスター公爵家主催の音楽祭でしょう。こんなところにいないで、客席に戻っては?」
「……私がここに来たのは、貴殿を牽制するためではないんだ」
面倒そうに言いつつも、ディランはエイヴリルの肩に手を回し、自分の胸に抱き取った。フェルナンと常識的な距離に戻ったエイヴリルは安心しつつ、ディランを見上げる。
「客席が落ち着かない様子、ですか。サミュエルも同じようなことを言っています」
「こうなったのは俺たちのせいだからな。何とかしようと思ってここへ来た」
「? ディラン様?」
何とかとは一体。首を傾げたエイヴリルだったが、その答えはすぐわかることになった。
「音楽祭だ。こういうのもいいだろう?」
ディランはそういうと、クリスと一緒に準備が終わったばかりの舞台へと出ていく。
(ディラン様……⁉︎)




