11.子猫と夫婦と
数日後 。本邸内を歩いていたエイヴリルは、ディランがいる書斎の扉の前に座る小さな毛玉を見つけた。
「ブルー!」
駆け寄って抱き上げると、子猫はエイヴリルの腕の中に収まって、喉をゴロゴロと鳴らした。
「こんなところでどうしたのですか? ここまで来るのは大変だったでしょう?」
「みゃー」
甘えるような返事に微笑みながら、エイヴリルはそのまま書斎の扉を開ける。
あの夜、サミュエルが拾ってきた子猫は、獣医の診察とサミュエルの保護により、すっかり元気になった。獣医に指示されたミルクを飲み、暖かな部屋でブランケットに包まれて過ごした子猫は、見違えるような姿になっている。
サミュエルが子猫につけた名前は『ブルー』。濡れている時は濃い灰色に見えていた毛色が、実際には青みを帯びた美しい灰色だったからである。ブルーを撫で撫で、エイヴリルは書斎に入った。
「ディラン様、お客様です」
「エイヴリル……って、ブルーも一緒か」
ブルーを視界に入れたディランはほんの少しだけ顔を引き攣らせる。夫の心配を推測したエイヴリルは慌てて弁解する。
「この書斎に入りたかったようで、廊下で扉が開くのを待っていたみたいなんです。あ、ご心配なく! お仕事の邪魔にならないよう、ブルーはこのまま他の部屋に連れていきますから。ここには重要な書類も多いですしね」
「別に、仕事の邪魔になるから嫌なわけではないよ。だが、そうしてくれると助かる」
ディランは意味ありげに苦笑しつつブルーを撫で、エイヴリルの前髪にもキスをする。
クリスがいるというのに、あまりにも自然な仕草にどきりとしたが、夫にとっては当たり前のことらしい。そのまま話題を続ける。
「音楽祭の準備の方はどうだ? 順調か?」
「はい! ちょうど、招待状へのお返事をいただいたところです。このように」
両腕で大切にブルーを抱きしめるエイヴリルの手には、何通かの手紙が握られていた。中にはクラウトン王国の紋章が入っているものもあって、ディランは目を細める。
「出席してくださると?」
「はい! リステアード陛下はさすがにいらっしゃいませんが、エミーリア殿下がお越しくださるそうです!」
「……たしかに、あの王妹殿下は何を置いてでも来るだろうな……」
遠い目をしたディランを見て、思わず笑ってしまった。今回の音楽祭は、王都からの招待はできないため、領地に下がった貴族を招くことになる。
とはいえ、今回の流行病への警戒感や社交シーズンが終わる時期であるという事情から、多くの貴族が領地に戻っていた。賑やかなイベントになりそうだ。
「ありがたいことです。エミーリア殿下のほかにも、多くの方々がいらっしゃいそうです。サミュエルのブランドナー侯爵家からも協力のお返事をいただいています」
「そうか」
ディランは笑って頷いている。ブランドンが言っていたことは確かに気になるが、それ以上に、ランチェスター公爵家の名誉の回復のほうが重要だ。
いくら王太子夫妻が後ろ盾になってくれているとはいえ、それだけでは前公爵が残したひどい噂を払拭するのに時間がかかるのだから。
加えて、ディランが悪女好きだという噂が広く残っているのも気になるところだ。ディラン本人はあまり気にしておらず、むしろ楽しんでいる節さえあるのだが、この噂が広がってしまったのはエイヴリルのせいなのだ。
ちょうど、ランチェスター公爵家の女主人としてイベントを催す機会にも恵まれたことだし、このタイミングでなんとかしなくてはいけない。
(ブランドナー侯爵夫人に、こうしてお力添えをいただけることが本当にありがたいですね)
「では、私はこれで失礼いたします」
「ああ。また、後で」
ディランに見送られて踵を返すと、腕の中のブルーが「みゃあ」と小さく鳴いた。どうやらディランと離れたくないようだ。さっき、この部屋の前で鳴いていたことを思い出す。
「ブルー。ディラン様なら、また夜に会えますから。サミュエルと私と一緒に、音楽祭の準備をしましょうね」
青みがかった灰色の毛並みを撫でて慰めると、子猫は悲しそうにまた鳴いたのだった。
その夜。いつも通り、寝支度を整えたエイヴリルは公爵夫妻の寝室の大きなベッドに座っていた。
今日も一人ではない。膝の上に、ブルーがいる。ちょうどそこで扉が開いた。入ってきたのはディランだ。いつも通り、ベッドに座ったエイヴリルとブルーを見て、苦笑する。
「またか」
「もう、しかたがないですよね」
エイヴリルも苦笑しつつ、ベッドの上に子猫を放つ。すると、ブルーはふかふかのベッドの上をおぼつかない足取りで歩き、あたりまえのようにベッドの真ん中に寝そべった。
その隣にディランが腰を下ろすと、ブルーはあわてて体を起こし、ゴロゴロと喉を鳴らしてディランに擦り寄る。
「かわいいです」
「かわいいけどな……」
ディランがブルーに困った視線を向けているのには理由がある。
それは、このブルーがディランのことをものすごく好きすぎるからだ。
「サミュエルがこの子を拾ってきた翌日から、ディラン様への後追いがすごかったのですよね」
「どうしてこんなに好かれているのかわからないな」
「ディラン様のお優しい空気が伝わっているのでしょう」
そういうと、ブルーはそうですとでも言うように瞬いて、またディランの体に寄り添った。
「にしても、俺と一緒じゃないと寝ないってどういうことだ……」
ディランの途方に暮れた声に思わず笑ってしまう。
実は、ブルーはブランドナー侯爵家の許可をもらい、サミュエルが飼うことになった。行儀見習いの半年間が終わったらサミュエルが連れて帰ることになっているのだが、現状、なぜかディランと一緒でないと寝てくれないのだ。
日中も書斎の前で入りたそうにしていたところからもわかる。この子猫はディランのことが大好きだった。
一度、試しにサミュエルが自室のベッドで一緒に寝てみたことがあったのだが、尋常ではない声で鳴き騒ぎ続け、申し訳なさそうにディランのところまで連れてこられたのだった。
もちろん、ディランの隣に収まってからはこれまでの騒ぎようが信じられないほどに大人しくなり、すやすやと眠り込んでしまった。
それ以来、この本邸の公爵夫妻の寝室の大きなベッドでは、二人と一匹による添い寝が行われていた。ディランは遠い目をする。
「夜中に、猫用のベッドに移そうとしてみたんだが、すぐに起きて鳴き始めたな……」
「ディラン様、そんなことをしていたんですか?」
「ああ。した。だめもとで」
ディランらしくない行動にエイヴリルは思わず吹き出した。
「無理だと思います。日中、サミュエルと一緒に音楽祭の手配をしていたときも、部屋を出てディラン様のもとへ行きたがるのを我慢させたのです……! ディラン様のお仕事の邪魔をするわけにはいきませんから」
「いや、むしろ一日ぐらいは、日中に書斎にいてもいいから添い寝は遠慮してほしいな」
「え?」
エイヴリルが首を傾げると、ディランはそのまま軽くキスを落とす。穏やかなそれを受け入れると、手元にふかふかしたものを感じた。
見ると、ブルーがディランの腕によじ登ろうとしているようだった。小さな前足を必死に押し付けて、大好きな人のより近くに行こうと頑張っている。思わず、笑みが溢れる。
「一生懸命ですね。ブルー」
「ああ。……寝るか」
「はい、寝ましょう」
二人はそのまま大きなベッドに横になる。ディラン、ブルー、エイヴリル。灯りが消えると、ディランの苦笑する声が聞こえた。
「……そういえば、この本邸で、猫のぬいぐるみと一緒に寝たことがあったな。まさか、またこんな日が来るとは……」
「そうですね。今度は本物ですね」
平和な夜は過ぎていった。




