8.謎の忠告
早速、次の日から音楽祭の準備を始めることになった。
前回同様、ディランは久しぶりの領地入りで忙しい。早朝から昼までは領地内の有力者や司祭からの挨拶を受け、午後はずっと書斎に引きこもっている。
ということで、必然的に音楽祭の準備はエイヴリルとサミュエルに任されることになった。
サミュエルを女主人の部屋に招き、執務机の上に計画書を広げたエイヴリルは、大人用とも子供用とも言い難い大きさの椅子を隣に置いた。
「どうぞこの椅子をお使いくださいませ。サミュエルには少し小さいかも知れませんが、大人用の椅子では長時間座っているのに向きませんし」
「ありがとうございます。……使い込まれた趣のある椅子ですね」
純粋に感動した様子のサミュエルに、エイヴリルはふふっと笑う。
「実は、これはディラン様が子どもの頃に使っていた椅子なのだそうです」
「道理で、間に合わせではなくしっかりしているはずですね」
「ええ。大切に保管されていたことにも驚きました」
サミュエルはこの年齢にして確かなものを見極める力を持っている。その姿は、十数年ほど前にこの椅子を使っていたであろうディランと重なって見えて、微笑ましい。
ちなみに、この部屋にはグレイスと、本邸のメイドのシエンナが控えている。シエンナは前回の滞在時にもエイヴリルを世話してくれ、気心が知れた存在だ。必要がない人間はここには通さないし、あらゆるサポート体制もしっかり整っているのだった。
「では、始めましょうか。音楽祭を開催する場所と、演奏者と、曲目に特別な招待客……決めなければいけないことはたくさんあります!」
「はい!」
それから数時間、サミュエルは元気な返事そのままにしっかり手伝ってくれた。さすが音楽一家の生まれ。自身も頻繁にサロンコンサートに出演しているだけあり、こういった音楽祭の手配には慣れているようだ。
普段からブランドナー侯爵夫人にいろいろと教え込まれているらしく、とにかく手際が良かった。
会場こそエイヴリルが決めたものの、曲目や協力してくれそうな楽団をスムーズにピックアップしてくれたほか、自分の家であるブランドナー侯爵家へと協力を依頼する知らせも出してくれた。
アリンガム伯爵家にいた頃、お茶会や舞踏会の準備を取り仕切っていたエイヴリルでも感動を覚えるほどの手際の良さである。休憩として出された紅茶を飲みながら、エイヴリルは感動を隠せない。
「素晴らしいです。サミュエルは本当に将来有望ですね。王宮に出仕するにしても、どこかの貴族のお家で働くにしても、きっとどこでも重宝されそうです」
「ありがとうございます。……でも、僕は家を離れたくないんです」
意外な返答だった。十歳の子供らしい言葉にエイヴリルは目を瞬いた後、ふっと微笑んだ。
「そうですよね。ご実家を愛し、ずっと支えていくのも大変素敵なことだと思いますわ」
エイヴリルの言葉に、サミュエルは恥ずかしそう笑う。
「お母様……いえ、母上には秘密にしていただけますか。こうして行儀見習いに出ているのに、弱音を吐いたなんて知られたら恥ずかしいですから」
「もちろん秘密にします! ……ですが、これは弱音ではありませんよ。実家のために尽くしたいと思うのは当然のことですから」
力強く念を押すと、サミュエルは目を瞠る。それからホッとしたように息を吐いた。その姿を見ていて、思うのだ。
(サミュエルは、ご両親の愛情をしっかり受けて育ってきたのですね。とても素敵です。私は、私を助けてくれた皆さまのために頑張りたいとは思いましたが、アリンガム伯爵家自体には何の未練もありませんでしたね)
残念な仕打ちを受けて育ったため、仕方がないとはわかりつつ、今ここにある幸せを改めて感じるのだった。
「エイヴリル様」
ふと、グレイスが声をかけてきていることに気がついた。何でしょう、と視線を向けると、強張った顔のグレイスの向こうには仏頂面をした初老の男がいた。
前公爵ことブランドン・ランチェスターだった。
それに気がついたサミュエルが無言のままいち早く立ち上がる。エイヴリルもスッと立ち上がった。すると、申し訳なさそうな表情のグレイスが言葉少なに告げてくる。
「お止めしたのですが」
「大丈夫ですわ」
にっこりと微笑めば、ブランドンは執務机まで歩いていき、ついさっきまでエイヴリルとサミュエルが準備し、まとめていた資料の数々を覗き込んだ。
「ふん。また妙なことを始めようとしているのか」
「手出しは無用ですわ。ディラン様――旦那様に全権をいただいておりますから」
「そんなことをする気はない」
前回の領地滞在中。領主として周囲に慕われるディランの姿を見たブランドンは、なぜか実務に復帰しようとした。公爵領の内政に関する書類を自分のところに集め、主人が二人いる状態を作ろうとしたことは記憶に新しい。
(でも、今回はそういう感じではありません。何のためにここへきたのでしょうか?)
不思議でしかないが、二人のやり取りを聞いていたサミュエルは不自然なほど無邪気に問いかける。
「もしかして、前公爵様は僕たちに助言をするためにここへいらっしゃったのですか?」
「な……っ⁉︎」
「違うのですね。残念です」
わかりやすくしゅんとしたサミュエルを見て、ブランドンは珍しく困惑したように視線を彷徨わせた。そして、執務机の隣に子供用の椅子が置いてあることに気がつくと、それをじっと見つめた。
「……これをどこから?」
「シエンナさんが持ってきてくださいました。ディラン様が使用されていたものだと」
「ふん。知らないな」
どう考えてもその言葉通りには聞こえないのだが、ブランドンは「知らない」で押し通そうとしているようだ。
執務机から離れると、部屋の出口に向かって歩き始めた。この後の予定の可能性に思い至ったエイヴリルは、声をかける。
「お出かけでしょうか? もし女性と遊ばれるのでしたら、お外でお願いします、とディラン様からの言付けです」
「……お前の……その口ぶりを聞いていると遊ぶ気がなくなるぞ……私の遊びはボードゲームやピクニックではない……」
「え?」
どういう意味だ、首を傾げると、ブランドンはエイヴリルのすぐ側まで来て、耳元で囁いた。初めて聞く声音だった。
「……あれの家は、うちでさえ無視できない、社交界を掌握する巨頭だ。周囲を刺激しないためにも必要以上に近づくな」
(……え?)
反射的に、エイヴリルはパッと顔を上げる。
ブランドンは、こちらを振り返らずに女主人の部屋を出て行ったところだった。




