7.前公爵への挨拶
ランチェスター公爵領は、ブランヴィル王国の南の端とも言える地域に位置する。鉄道を使っても移動に数日を要するため、領地入りするたびに大事なのだ。
エイヴリルたちが公爵家の本邸に到着したとき、屋敷は蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。本来は王都で過ごしている時期に当主が突然帰還するのだから、当然である。
エイヴリルが生まれ育ったアリンガム伯爵家はタウンハウスを持っていなかったが、それでも急な来客に大騒ぎした記憶はあった。
ランチェスター公爵夫妻を乗せた馬車一行が敷地に入ったときから、「もう到着されてしまったぞ」「しかたない。庭は諦めて、中の出迎えの準備を万端に」そんな声が聞こえてきていて、エイヴリルはそわそわとする。
「皆様、お忙しそうで申し訳ないですね……。こちらのお屋敷の方々にお会いするのは半年ぶりでしょうか。私のことを覚えていてくださるといいのですが」
「大丈夫だ。君のことは忘れないだろう、忘れたくても」
「忘れられません」
エイヴリルの心配にディランが応じ、それを自然にサミュエルが締めた。この連携はどこから。それを問いかける前に馬車の扉が開いた。先にディランが下りて、エイヴリルをエスコートしてくれる。
「気をつけて」
「ありがとうございます」
庭に降りると、樹木の匂いがした。潮風と土に混ざったほんの少しだけ冷たい匂いは、抜けるように青く高い空に溶けていく。エイヴリルが初めて領地で経験する秋だった。
(空気が気持ちいいです)
エイヴリルの表情から好奇心を汲み取ったディランが口元を緩める。
「ここは温暖な地域だから、冬が来ても雪は降らない。これからの季節、過ごしやすいはずだ」
「それは、交易で栄えるはずですね。領地に来る機会は少ないですが、もっとここのことを知りたいです」
もともと知っていても、知識だけ頭にあるのと実際に経験するのとでは大違いだ。嫁いだのだから、もっとここで過ごす時間が長くてもいいとは思う。
けれど、この領地の本邸にはディランの父である前公爵がいる。ディランと前公爵は一時期に比べれば軟化したが関係がよくないことから、エイヴリルたちは基本的には王都で過ごすのが当然になっていた。
父子の溝が深いのはわかっている。いくら愛人を囲う離れを解体し、ディランが当主だと内外に示したとしても、長年の関係があっさり変わるわけではないし、父が妻と息子にしたことは許されることではないのだ。
そんなことを考えていると、屋敷のエントランス前にずらりと整列した出迎えの使用人の列の一番奥で、扉が開く。屋敷の顔でもあるその扉から現れたのは、前公爵だった。
彼は鷹揚にこちらへ向かって来る。隣のディランは表情を変えずに父を見つめ、一方の前公爵は仏頂面で息子を睨みつけている。
ディランの前まで歩いてきた前公爵からは、意外なことに不健康そうな雰囲気が消えていた。そうして、片方の唇だけをあげて笑った。
「随分と派手なご帰還だな」
「あなたのここでの暮らしぶりに比べたらずっと地味では?」
「ふん。王都で病が広がりつつあるぐらいで逃げ帰るなんて、馬鹿馬鹿しい」
「万一のとき、ここをあなたに任せるわけにはいかない。当主として当然のことだ」
早速バチバチと火花を散らす夫と前公爵に、エイヴリルはサミュエルを自分の方へと引き寄せた。
(知らない土地に連れてこられて、こんなところを見てしまったら不安になりますよね)
しかし、賢いサミュエルは特に動揺している様子はない。怯えもせずじっと気配を消して、上品に佇んでいる。その様子に、前公爵――ブランドン・ランチェスターは気がついたようだった。
「この子は何だ?」
その視線を発言の許可と理解したサミュエルは、慣れた様子で挨拶をする。
「サミュエル・ブランドナーと申します。ブランドナー侯爵家から行儀見習いにまいりました」
「ブランドナー……ふん」
家名とサミュエルの仕草の両方に、ブランドンは面白くなさそうに顔を顰めた。すぐに、サミュエルの母はディランの母、アナスタシアの友人だと思い至ったのだろう。
サミュエルへはろくに挨拶をしないまま、そのまま踵を返し、屋敷の中へと戻っていってしまった。エイヴリルもサミュエルもぽかんとするばかりだ。けれど、我に返ったエイヴリルはすぐにサミュエルに視線を合わせる。
「サミュエル、ごめんなさい」
「お気になさらず。いろいろな大人がいることは理解していますから」
穏やかに応じるサミュエルの視線に、意味深なものを感じるのは自分の気のせいだと思う。しかしエイヴリルはそのまま首を傾げた。
「うーん。それにしても、一体何をしにいらしたのでしょうか? お出迎えをしてくださるはずがありませんし」
「知らん」
隣から聞こえるディランの言葉が、いつになく乱暴である。それを見ていたサミュエルは、不思議そうにした。
「……エイヴリル様。あの方は、恥ずかしがりやなのでしょうか?」
「え?」
思わぬ疑問に、エイヴリルとディランは同時に首を傾げた。サミュエルは真っ直ぐに見上げてくる。
「だって、あの方は僕を見て一瞬だけ困った顔をしましたから」
「まぁ、当然だな。これまでの人生で、子どもなんてほとんど関わったことがないだろうからな。――サミュエル、あれには構うな。君には悪影響しかない」
「承知いたしました。旦那様」
(なるほど。前公爵様は子どもの扱いがわからないのですね……)
久しぶりに父親と顔を合わせたディランは、機嫌が悪そうだ。
そして、ディランがいう『子ども』には、幼き日のディラン自身も含まれていることが伝わってくるのだった。




